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鶴見俊輔「外伝」の試み

多田道太郎さんのこと

黒川 ベ平連でいうと、鶴見さんは東京のベ平連のいいだしっぺだから、そっちに責任意識があった。京都での定例デモなどでも、演説は飯沼二郎先生に任せておいて、自分はぶらぶら歩いている…。

井上 この本にも出てくるように、私も同じ誤解をしていた。あなたは、飯沼二郎さんのこと、市民運動が大好きな人だと思っていたんでしょう?

黒川 はい。

井上 でも、ご本人は、本当は市民運動をむちゃくちゃ負担に思っていたんですってね。私も京大人文研でそばにいながら、おやめにならはったほうがええのに…、向いたはらへんのに…、とか思いながら、でもよう言わんじゃないですか、そんなこと。でも、あんなに苦しんだはったんやなというのを、この本で教わりました。

黒川 現風研も、鶴見さんにとっては少し気楽な関わり方だったのかな。まずは桑原さん、そのあと、多田さんという軸があったから、自分は遊軍的に参加しているような気楽さがあったんじゃないか。「思想の科学」は、鶴見さんがしゃかりきに引っぱっているものですから。

井上 そうでしょうね。多田道太郎さんが中心におられるし。「思想の科学」は鶴見さんが全責任をもってやられていたから、現風研に来られるときのほうが気楽でいらっしゃったと思います。ただ、亡くならはったから言うけど、多田道太郎って、ちゃらんぽらんなんや(笑)。思わず、鶴見さんが責任をもって支えることもおありだったと思いますよ。

黒川 タイプも違いますからね。

井上 多田さんもすごく頭のいい人なんですけどね。あの頭の良さは、ルーズさと共にあるんやろなと思います。

黒川 印象に残っているのは、加藤典洋さんと僕で京都に来たとき、多田さんは加藤さんを大変買っていたので、会いたい、と。僕はつけたしみたいに一緒にうどんをおごってもらって、横にいたんです。
 昭和天皇の代替わりの少し後ぐらいのころですね。そのころ、現風研の会員の人が、年報の『現代風俗』に、天皇家のことをちゃかすみたいに書いたのかな。すると、当時の版元のリブロポートが、これはそのままでは載せられない、と言ってきた。鶴見さんは、そういうとき、個々の文章がよく書けているかどうかではなく、わりと原則論なんです。版元の処置に抗議したい人にはけっこう根気強く付きあう。一方、多田さんは一種の実力主義というかリアリズムで、なんであんな原稿のためにこっちが苦労せんとあかんねん、というようなことを言うたはった。
 若い人の突っぱりにもいちいち付きあう鶴見には、僕はよう付いていかん、みたいな愚痴をこぼしてはったことがあった。なるほど、これは鶴見さんと多田さんのタイプの違いだなと思って聞いていた覚えがあります。

井上 それは、雅子さんにあやかる、いろんな風俗をレポートしていった記録だったんです。おちょけた企画かもしれないけど、某美容院で雅子カットがあったとかなんとか、そういうことがたどれる、数少ない記録だと思います。それなりに意味がないわけではないと思う。

黒川 結局、どうしたんですか?

井上 活字にしました。ただし、商業出版ではなく、別刷りをつくりました。鶴見さんのほうが、若い人が飛び跳ねる様子をおもしろがっていらっしゃったと思います。ついでに言うと、若い人からもうろく老人扱いされることも受け入れ、喜んでおられました(笑)。

黒川 鶴見さんのほうが、「思想の科学」ででもそうだけど、分け隔てなく、誰とでも付きあう。まったくのアマチュアでも、おもしろいと思ったら原稿を頼めばいいんだ、という考え。失敗は、1回目はいい、2回目もいい。でも3回ともその人の書くものがおもしろくなければ、それは脈がないからやめたほうがいい、と。多田さんは、あの人自身が俊才でもあるし、わりと俊才が好き。

井上 しかし、こうもおっしゃっていたんです。「桑原武夫の周りには、とんでもない秀才が集まってくる。自分はそのまんなかにいるように君たちの目には見えているかもしれないけれども、本当にしんどいんだ。そこからずり落ちたいんだ」と。多田さんは、ずり落ちたいというところで現風研にいらっしゃったのかもしれない。

黒川 そうか。きっと、その欲望は強かったんでしょうね。

井上 一方、リブロポートとの問題にしても、あのときまだ多田さんが京大人文研の先生のままだったとしたら、雅子さんについての原稿も、そのまま受け入れはったかもしれない。ところが、当時、多田さんは、武庫川女子大の生活美学研究所の責任者というポジションに移っておられたでしょう。だから、あまり無茶なことはできんという事情もおありだったかもしれんと思います。

鶴見さんが育った環境

会場 お姉さんの鶴見和子さんについてどう思っているか、鶴見さんご自身で言っていたことは?

井上 和子さんとは、私はまったく縁がない。

黒川 僕も鶴見和子さんとはおつきあいがほとんどない。「思想の科学」の創立メンバーですが、和子さんの活躍の場や、交際圏はまた別に形成されていったと思います。「思想の科学」の集会などでお見かけするぐらいでした。
 鶴見さんは、姉の和子さんがお元気な間は、そんなに誉めることもなかった。それには、米国留学中から和子さんは、マルクス主義に立ち、戦後初期には共産党にも入ったし、一本調子だという評価も鶴見さんのなかにはあったと思います。一方では、姉がお父さんの世話をずっと引き受けてくれたから、鶴見さんは自由にやれた、という面もあるんですね。それについての感謝の気持ちはあったに違いないけれども、それは世間に対して言いようがないですよね。
 2人とも学者だから、姉の優等生ぶりへの批判的なスタンスばかりが活字で残っていくということへの罪責感のようなものは、ずっと鶴見さんのなかにもあったと思います。和子さんの南方熊楠研究は、俊輔さんの助言も得ながら進められていった仕事でしょう。だけど、俊輔さん自身は熊楠をやっていないし、お二人がここで、互いに離れたフィールドを持てたことは、当人たちにとっても大変よかったのだと思います。

井上 『鶴見俊輔伝』に書かれていることで、私があっと思ったのは、鶴見和子さんは父・祐輔さんの娘であることにあまりためらいを感じておられなくて、一方、俊輔さんは自分をつぶしてしまいたいほどの気持ちを抱いておられた。もう一つ、和子さんは、1947年か48年ごろ「思想の科学」はもういらないのではないかと言った。共産党指導下の民科(民主主義科学者協会)で十分立派なメディアが作られているんだから、と。恵まれたお家のお嬢ちゃん、お坊ちゃんが、なにか後ろめたさがあって左翼になるということはよくある現象だと思うけれども、共産党も、一つの権威なのかな。そこにそりを合わせようとしない俊輔さんと、お姉さんの和子さんの間には、一線がある。
 なんでこんなことを言いだしたのかというと、あるとき、鶴見さんが「井上さん、きみ、私のこと共産党員だと思っているでしょう。ちがうんだ!」って言うんです。突然。

黒川 ほんまですか?

井上 「鶴見さん、共産党ですか?」なんて、私は聞いたことないですよ。

黒川 なにかを感じたんですね。

井上 選挙で共産党の候補に票を入れることはあるけれども、自分はちがう! と力強くおっしゃられたときに、私はなんでそんな琴線を踏んでしまったのかわからへんのやけども(笑)、こだわりをもっておられたんだなと思いました。

黒川 お姉さんが亡くなられたときは、参ったと思います。鶴見さんの成育の環境とか、発言はつねに社会から注目されているファミリーだから、どう言っても誤解をまねきかねない。オヤジのことを悪く言いたいというより、オヤジと爺さんの権勢から離れて、自分の足で立って自立したいというのが、生涯を通した望みだったんでしょう。これは、たったそれだけのことだけれども、鶴見さんにとっては、一生を投じないとできなかった事業なんじゃないでしょうか。
 祖父の後藤新平は、子ども時代に亡くしたけど、お母さんが亡くなるときは家との葛藤のなかで見送り、その後悔も残った。祖父・新平のことは自分が年寄りになるまで社会的にはほとんど話さなかった。老年に至って、話しだしてからは、自分は不良少年で、お袋は正義のかたまりで、とネガティブなことばかり言った。お父さんについてもそうだった。一人ひとり、世話になってきた相手にネガティブなことばかり言いながら、見送ることには、苦しみが伴ったと思います。最晩年の『もうろく帖』なんかあたりで、正直に自分の気持ちを言えるようになったというところが、なんとかあの人の気持ちの落ちつかせどころだったんじゃないかという気がします。

ラグビーの球を置いて

会場 鶴見さんの思想を学統みたいなものとして受けつぐということについて、鶴見さんご自身はどうお考えだったでしょうか。思想を継承するということについて、どう思っておられたか。

黒川 自分には弟子はいないって言っていましたからね。また、自分の先生は都留重人だけだ、とも。いわゆる学統というのは持ちたくないということだったと思います。
 哲学者の久野収さんは、アカデミーの世界では必ずしも恵まれた方ではなかったけれども、熱心な弟子たちを持っておられた。ところが、久野さんのお葬式に鶴見さんが行くと、弟子たちが三派ぐらいに別れてケンカするんだって(笑)。大学関係者のグループと、民間で師匠として心酔していた人たちと、ほかにもう一派あるのかな。鶴見さんは、そうやって葬式で争いになっているのを見るのが、すごく嫌だったみたいですね。僕の記憶が正しければ、遺言状みたいなものを書きなおしたと言っていたと思う。「私には弟子はいない」と。そういう葬式はしてほしくない、ということを言っていましたし、弟子代表、みたいな挨拶がなされるのもいや。ご近所葬で、息子の太郎だけが挨拶する。そして、来てくれた人にはお稲荷さん(いなり寿司)を配って、食べてもらってくれ、ということを何回も言っていました。
 自分が考えてきたことを、ラグビーの球のように地面において、グラウンドを去る。けれども、いつか誰かがその球をもって走りはじめるかもしれない、ということは信じている。自分はここまでやった、というのは書きのこしていくものでしょう。雑誌「思想の科学」を閉じるときには、雑誌を一度死体置き場に置こう、と。いつか、新たな芽が生えてくるなら、そのときまた「思想の科学」をつくればいい、という結論を言ってはった。そういう考え方じゃないでしょうか。

会場 東日本大震災のあとで、いくつか書かれたものがあったと思いますが、直接お聞きになったことを。

黒川 「敗北力」というのは、それまで考えてきたことが東日本大震災のあと、鶴見さんのなかでいよいよはっきりした言い方なのではないですか。日本では、積極的に、とか、前向きに考えろ、というのが思想ということになりがちです。だけど、もう少し大人になって考えると、状況のなかで考えるというのは、ある意味、受身の立場で考えるんですよね。大概のことにわれわれは負ける。その敗北のなかから、なにを考えられるのかということでしょう。

井上 ボクサーのモハメド・アリは、ベトナム戦争に行くことを拒絶して、ボクシングの世界タイトルを剥奪される。モハメド・アリのことを、鶴見さんはどう思っていたんでしょう。アリのことをよう聞かなかった。なんか鶴見さんにアリのことを聞いたらあかんのちゃうかな、っていう思いがあり。

黒川 もとはカシアス・クレイ。その名を捨てて、彼はモハメド・アリになる。

井上 あれだけ大衆文化に共鳴を示しておられた鶴見さんだけれども、モハメド・アリの話題をぶつけにくいオーラも漂わせておられたと思うんですよ。

黒川 どういう意味ですか?(笑)

井上 ショービジネスの世界で大きくなる人のことは、どこかでけむたがってるんじゃないかなーって。

黒川 メキシコの有名なボクサーで、ジョー・メデルという人がいます。ファイティング原田と対戦して倒した。昔、鶴見さんがホテルのロビーで休んでいたら、その場所でメデルを記者がとりかこんで会見が始まって、そのうちメデルが鶴見さんに向かって話しはじめたと。英語が通じる記者だと思ったんでしょう(笑)。それで友だちになって、鶴見さんがのちにメキシコに行ったときには、メデルに世話になるんです。
 鶴見さんは、プラグマティストだったのか、という問題があると思うんです。たしかに、精神主義じゃない。でも、ベトナム戦争も後半になると、自身は大学も辞職してお金がない。伴侶の横山貞子さんが京都精華短大で教えておられたから、定期収入と言えば、それだけですよね。鶴見さんは、「収入の6、7割はベ平連に出ていた、だから私は苦しかった。ベトナムの人民に解放してもらったんだ」ってよく言ってらっしゃいました。結果から言えば、72年にベトナムは勝つけど、戦争が続いている間は、勝つとはとても思えないし、いつ終わるかもわからない。だから、「もし、ずっとベトナム戦争が終わらなかったら、どうされていたと思いますか」と尋ねたことがあるんです。すると、「私はずっと(ベ平連を)やっていたでしょう」って言うんですね。自分がずっとやり続けられるか、あらゆる運動にコミットするにあたって、あの人は考えたと思う。やると言ったのに、途中で下りたことは一回もない。あえて言えば、そういう思考実験を重ねてから事にあたるというのが、あの人のプラグマティズムだったと思う。
 ベ平連の場合は、戦争が終わったときに解散した。雑誌「朝鮮人」の場合は、大村収容所が廃止されるまで、という目標を掲げていて、それが廃止されたので、終刊した。でも、これを始めるときには、収容所はいつ廃止されるかわからないですから、「私が先に死ぬかも知れないけど、私が死んだら、息子の太郎が『朝鮮人』を出すと言っている」と。そこまでとりつけてから始めているみたいです(笑)。ベトナム戦争に対する抗議行動であれば、歳をとっても、座り込みなどは続けられるだろう、という結論に達してから始めていた。そういうところがあったと思います。

井上 くどいけど、モハメド・アリも、二度とリングにあがれないかもしれないことを覚悟しながら、兵役を拒否したんですね。その意味で鶴見さんのことを、日本のモハメド・アリと言って、終わるのはあんまりでしょうか?

黒川 ありがとうございました(笑)。

(対談構成・瀧口夕美)

黒川創

1961年、京都市生まれ。同志社大学文学部卒業。99年、小説『若冲の目』刊行。2008年刊『かもめの日』で読売文学賞、13年刊『国境〔完全版〕』で伊藤整文学賞(評論部門)、14年刊『京都』で毎日出版文化賞、18年刊『鶴見俊輔伝』で大佛次郎賞を受賞。その他の小説に『もどろき』『暗い林を抜けて』『ウィーン近郊』『彼女のことを知っている』、エッセイに『旅する少年』など。最新刊に『世界を文学でどう描けるか』(図書出版みぎわ)。

日米交換船

2007/05/25発売

井上章一

1955(昭和30)年、京都府生れ。京都大学大学院修士課程修了。国際日本文化研究センター所長。『つくられた桂離宮神話』でサントリー学芸賞、『南蛮幻想―ユリシーズ伝説と安土城』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。著書に『京都ぎらい』『学問をしばるもの』『美人論』『関西人の正体』『ヤマトタケルの日本史 : 女になった英雄たち』などがある。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
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手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

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金寿煥

著者プロフィール

黒川創

1961年、京都市生まれ。同志社大学文学部卒業。99年、小説『若冲の目』刊行。2008年刊『かもめの日』で読売文学賞、13年刊『国境〔完全版〕』で伊藤整文学賞(評論部門)、14年刊『京都』で毎日出版文化賞、18年刊『鶴見俊輔伝』で大佛次郎賞を受賞。その他の小説に『もどろき』『暗い林を抜けて』『ウィーン近郊』『彼女のことを知っている』、エッセイに『旅する少年』など。最新刊に『世界を文学でどう描けるか』(図書出版みぎわ)。

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