日文研設立のころ
黒川 もう一つ覚えているのは、国際日本文化研究センター(以下、日文研)が1987年、京都に設立されるときの話です。
鶴見さんが「あるとき私の家に、梅原(猛)と井上章一が来たんだ」って言うわけ。日文研の設立の是非について、朝日新聞で座談会をしたいと。当時、日文研の設立には反対論も強かった。よく言われるのは、右派として登場した中曽根首相に、新京都学派の人たちが、陳情というか、話をつけて、大変な予算がついて動くことになった。国権的なナショナリズムと結託した国立の日本文化センターというのはいかがなものか、ということですね。梅原さんは桑原門下の一つの柱として、日文研の開設準備責任者で、のちに初代所長になる。その前段階で、賛否両論を朝日新聞紙上で議論して、設立にはずみをつけたいという座談会だった。賛成派、反対派が2人ずつ。賛成派は、ドナルド・キーンさんと、もう1人、これは記憶がはっきりしないんですが、梅棹忠夫さんだったかと思う。反対派は、同志社大学の考古学・森浩一さんと、大江志乃夫という日本近代史の先生。この2対2。でも、梅棹さんが急に病気になった。「梅棹の代わりに私に入ってくれというんだ」と。つまり、賛成派の一人として座談会に参加してもらいたいという用件で、梅原さんと井上さんが来られた。
若い井上さんが、なぜそこにいたのか。もとはと言えば、この構想は京都市のほうから持ち上がったもので、その相談が桑原武夫さんに持ちこまれ、その門下にあたる梅原さん、さらに井上さんにも話がまわってくる。鶴見さんは、この座談会への参加を引き受けたわけですね。
対する日文研反対派の森浩一さん──この人は僕の師匠でもあるんですが──は、官学系統が大嫌いで、学問というのは文部省からの補助でやるんじゃなくて、自分の甲斐性でやるもんだ、という考えの人です。だから、桑原さんのグループとかも嫌いだし、国立の奈良文化財研究所に対しても批判的。特に、文系の学問はそれほどお金がいらないのだから、国家がそこに口出しするのは間違いだ、という意見の持ち主。鶴見さんは「森浩一の言いぶんに、私は説得されたんだ」って言うわけ(笑)。日文研賛成派として座談会には出たけど、反対派の森浩一に説得された、と話していた。「森浩一はね、考古学というのは、民間のアマチュア学者たちが古紙回収をしたりしながら古文書を集めて、その積み重ねの上に成り立っているものなんだ、と言っていたよ」と。こういうところは鶴見さんの一筋縄ではいかないところですね。原則論で反対するのではなく、人脈としては、桑原さんや梅棹さんと親しいわけで、まずはそれに付きあう。でもそれに義理立てして、ずっと賛成の側に立つのでもない。
実際、当時の朝日新聞紙上の座談会の記事(1986年7月15日)を見ると、およそ、そういうような森浩一さんの発言が載っています。森浩一さんが五島列島に行ったとき、地元の研究者が迎えに来てくれるという話だった。でも、島に着いたら、古紙回収の車一台が来ているだけだった。実は、それが案内してくれる人の車で、「自分はこの仕事でくまなく島を回っているから、状況がわかる。これから私がご案内します」と。日本で最初に見つかった旧石器時代の遺跡、群馬県の岩宿遺跡を見つけた相沢忠洋も、納豆屋をしながら地域を回って、観察を重ねた上で旧石器を発見する。
鶴見さんは、森さんの言うように、たしかに国というより地域をきざんでいくことで、国家を越えていく視野が開けると感じる。それはラフカディオ・ハーンの方法にも重なる、というんですね。つまり、首相に予算を頼むということから学問に入っていくやりかたは間違いだと思っている、と言う。とはいえ、エラーから学問的な成果が生じることもしばしばある。だから、それを全否定するのではなくて、エラーをきっかけに、この研究所の構想を考えていけばいいじゃないか、というふうに論旨を展開しています。つまり、最終的には、日文研を設立すること自体には賛成だということなんでしょう(笑)。結果として、日文研は発足して、井上さん一人が30年間ずっとそこに残っておられる。
井上 いま、おっしゃられたくだりは、この本(『鶴見俊輔伝』)に載っていません。ですから、ひょっとしたら、いまから申し上げることは、値打ちがあることかもしれません(笑)。
私の記憶では、日文研擁護派のもうお一人は、梅棹さんではなかった気がします。けれども、とにかく、その方が出られなくなった。どうしても代役を立てないかん。誰にしよう。
当時、梅原さんには、日文研をどういう組織にしたらいいかということを山田慶兒さん(科学史家)経由で私たちと相談するようなところがありました。で、梅原さんを前にして私は……どうして言ってしまったのか……鶴見さん、というお名前を挙げたんです。そしたら梅原さんが「それだ!」(笑)。鶴見さんは電話に出られない方なので、岩倉のご自宅まで、いらっしゃるかどうかわからないのに、梅原さんが私をタクシーに連れ込んで。私は……突然訪問するのをためらいました。だから私の方が都会っ子なんやね。「そうだ、鶴見くんだ!」と言って猛然と岩倉まで行かれた梅原さんの姿に、京都大学を中心にした学者たちの群れは、普段ソリが合おうが合うまいが、こういうつながりの可能性を培っているのかもしれないなと思いました。
鶴見さんは、ご自宅にいらっしゃって、私のことをいぶかしそうにながめておられた。どこかで思たはったかな──「井上くん、きみも権力の走狗になりだしたんだな」と。普段は自分をおちょくってばかりいるのに、実は梅原─中曽根ラインと通じあっているのか、みたいなことを考えはったかもしれません(笑)。
これも、書かれていないことだけど、梅原猛の心のバネにね、鶴見さんは大きくあるんです。よく言うたはったのは、桑原武夫の口癖──「自分の周りにいる学者のなかで一番頭がいいのは、梅棹と鶴見だ」──桑原武夫はそう言い続けた。一度も「梅原猛」と言ってくれなかった。それを、私の前でこぼさはるんですよ。そういう思いを抱いた梅原さんが鶴見さんの名前を聞いたとたんに「それだ!」とおっしゃったんですね。
朝日新聞紙上では次第に批判派にまわられたけど、あとで鶴見さんが、私におっしゃったことがありました。「あの研究所長には、梅原がいいんだ」と。よくまわりが見え、人事調整能力もあり、いろんな手続きをうまく運べるような研究者は、結局文部官僚の手のひらの上に乗る。梅原はぜったい防波堤になるから、あれがいいんだ、と。おっしゃったように、鶴見さんのなかに、イエスとノーの両方があるけど、全否定はなさらないですね。
黒川 開設してみることには賛成だ、ということなんですね。
井上 そのことに関しては、鶴見さんを信頼している人から、うらぎられた、と言われるようなことも恐れない。
黒川 むしろ、平気で裏切る(笑)。
桑原武夫さんのすごいところ
井上 あと、私が印象的だったのは、桑原先生についてのことです。これも言うていいのかどうか……。桑原さんは、日文研設立を、中曽根康弘に直訴するような格好になりました。どこか晩年は、文化勲章とか宮中席次を思い描いておられたような気がします。しかし、それも鶴見さんは擁護しておられた。桑原さんには、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のときにすごくお世話になった。あれは宮中席次を考えれば絶対にハンディキャップになる。桑原さんはそういう重石をいっぱいつけながら、叙勲レースを楽しんでいるんだ、と。これも全否定ではない。人にたいして温かいものをもっていらっしゃる。
黒川 桑原さんはアルピニストだから、勝つ勝負には味方してくれる、と鶴見さんはおっしゃってましたね。ぎりぎりで、自分が加担すれば勝つというときには加担してくれる、という意味です。たとえば日高六郎さんが、日本赤軍の協力者とされてオーストラリアのビザが発給されなかったときも、桑原さんは肩入れした。西川祐子さんの大学着任が不当にキャンセルになったときも。もちろん、ベ平連のときも。すべてに加担するのではなくて、自分が乗ればどうにかなるということが判断できるんだ、という言い方を鶴見さんはしていましたね。
井上 ようするに「勝ち馬に乗る」(笑)。
黒川 「勝ち馬になる」というか(笑)。
井上 ちょっとやらしいかもしれない。
黒川 文化勲章については、「現代風俗」に鶴見さんが書いておられますが、新聞記者が、インタヴューのたびにみな同じことを聞く──。「文化勲章のご感想いかがですか」と聞かれ「光栄なことでございます」って、私は12回も答えんとあかんかった、なぜ共同の記者会見で済まさないのか、と桑原さんは言っていた、と。内藤湖南みたいな、学歴関係なしに実力を培った新聞記者がいた時代は、こうではなかった、ということですね。そのころの気風を知っている桑原さんの言だと。
井上 そういえば桑原武夫は、鶴見さんのことを、小学校しか出ていないかもしれないけど、京大人文研の助教授に採用しようと思われたんですね。そのことを鶴見さんは恩義にも思い、「安心してください、自分はハーヴァードを出ています」という(笑)。
黒川 「ただ、牢屋に入れられていたことは書かないでくれよ」と言われたと。
井上 でも、小学校しか出ていないと思った鶴見俊輔を、京大人文研の助教授にするということ以上に、桑原さんに感心するのは、桑原さんが鶴見さんを採用した講座は、フランス思想史講座だと思うんです。フランス語のあんまりできひん鶴見さんをね、そんなポストに採用してええのか? ……ええと思ったんですよ、当時の桑原武夫は。
黒川 フランス語は桑原武夫に習った、って書いていますね(笑)。
井上 フランス語、鶴見さんは、できひんかったと思うんです。当時でも、そんな人事、普通はないと思うよ。桑原さんにはとんでもないところがおありだったと思います。
黒川 自分も冷遇されて東北帝大に飛ばされた時期があった。だから、京大に凱旋すると、もう怖い物知らずで、それは、あの人の出自に恵まれたところもあったと思いますけどね。
井上 鶴見さんは、桑原さんに京大理学部の梅棹忠夫を紹介してもらう。週に1回、農学部の近くにある進々堂という喫茶店で、時間を決めて、梅棹さんと毎週1時間、2時間話していたんですね。
黒川 もっと長かったみたいです。数時間。コーヒー1杯でね。当時の人文研西洋部と理学部のほぼ中間地点に進々堂はあった。
井上 私はね、鶴見さんに感心することもあったんですよ(笑)。頭の回転が速い人だから、鶴見さんに「頭が良い人ですね」って言いました。それも失礼な感想ですけど(笑)、その時に返されたのはね、「自分の頭が一番回転していると思えたのは、進々堂で梅棹としゃべっているときだ」と。そのとき、自分の頭はほんとうにタダモンじゃないと思った、とおっしゃられた。
で、私はその話を、梅棹さんにもぶつけたんです。鶴見さんはそう言うたはりましたけど、どうですか、って。そしたら、懐かしそうな顔をされてね、「もう鶴見くんとは全く別の道を歩むようになったけれども、あのときは楽しかったな」。切なく思ったのは、みんな大人になり、国立民族学博物館館長とかいうふうに偉くなると、「あのときは楽しかったな」というふうになって、あんまり楽しくない人生を歩むことになるんですよね、偉い人って(笑)。その意味では、鶴見さんはずーっと楽しい人生を歩まれたと思う(笑)。
黒川 梅棹さんは、楽しくなかったんですか?
井上 うーん。……それはそれなりに楽しいと思うよ。権力者の楽しみ。人を動かすことの充実感。まあ……だけど、鶴見さんとしゃべっていて、自分の頭が回転している、オレってすごく賢い! と思えるときのナルシズムとね、将棋のコマみたいに、あいつをここに、こいつをここに、という楽しみは違う。鶴見さんも、ベ平連や「思想の科学」で、囲碁将棋のような人事配置に直面することはおありだったかもしれないけれども、それは、まあ、大人になって、代表格になれば、大なり小なり誰もが経験することだと思う。鶴見さんの場合は、大きな存在になりおおせはったわりに、頭の回転という娯楽を、もうろくしてもなお保たれたんじゃないかと思います。
ゴシップの楽しみ方
黒川 日文研のことに戻ると、梅原さんの最初のまとまった分量の哲学論文は、「思想の科学」に載るんですよね。「笑いの哲学」(1960年3月号)。そういう点では、大学のなかで梅原さんはやや不遇で、あの人のもやもやっとしたものを書かせてくれるメディアはなかった。たしかに、鶴見さんと梅原さんって、独特の、井上さんが言わはったみたいな暗黙の意思疎通のようなものがありますね。
晩年の鶴見さんは、80、90歳になってくると、マスコミ的には、いつ訃報を書くのか、ということがありますね。すると、入院なんかしちゃったという噂が流れるたびに、新聞記者から探りを入れる電話がかかってくる。あるとき僕のところに京都新聞から電話がかかってきた。「そんな話は知らないけど、それ、どこから出ている情報なの?」って聞き返したら、その新聞記者も正直で「梅原さんから」って(笑)。
別の機会には、鶴見さんが梅原さんらと座談会して帰ってきたとき「梅原は、何か薬物療法を受けているね。顔がむくんでいた」(笑)。なんか、老人同士で張り合っているところもあったみたいですね。
井上 ちょっと梅原先生を擁護しておくと、梅原さんは、誰かから、どうやら鶴見さんがあぶないらしい、と聞かれた。「えっ、どうなっているんだ」って、ついつい話をしやすい京都新聞の記者に聞いた(笑)、ということでしょう。つまり、素朴な好奇心で聞いているだけで、梅原さん自身が情報のハイエナになっているわけではないと思うんです。
黒川 もちろん、そうでしょうね。
ところで、現代風俗研究会のほうは、設立から40年経つわけです。井上さんは、ほぼその全時代を見ているわけですけれども、そのなかで鶴見さんはどういうポジションでいらしたんでしょう?
井上 桑原先生や鶴見さんがいらっしゃるころは、まだ私は20代だった。だから、そんなに見通せたわけではありません。ただ、桑原先生については私なりに感じることはあります。
桑原さんは、源氏物語の話をされても、紫式部は風邪をひいたとき、ちり紙でハナをぷっとやっていたのか、手鼻だったか、そういう部分に興味をもたはる方だったんです。「文学!」という方向で舞い上がるのを抑制しようと。
黒川 え、文化史的に、当時、ちり紙ってあるんですか?
井上 だから、そういう風に話をもっていかはる、と。私は当時ちり紙があったかどうか、知りません。そこのところで、桑原先生は、文学研究にとってはたぶん夾雑物になるようなことを、ことのほか愛好される方やった。ついでに言うと、納まりかえった学者の足を、そういう話で引っぱったりするのを楽しんでいらっしゃったんじゃないかな。現風研も、桑原さんのなかでは、その延長上にあるような気がするんやけどね。
桑原さんはポール・ヴァレリーの姿を、ご覧になられたことがあったようです。フランスの大変えらい詩人であり、批評家。コレージュ・ド・フランスの先生は、月1回、市民の前で講演をする。そのとき、ヴァレリーに憧れるパリの有閑マダムが群がって、ちやほやする。そのことを、ポール・ヴァレリーはいたく喜ぶような人やった、と桑原先生は言っておられた。フランス文学の研究者はそこに目をつぶるわけですが、そこを知っておくのが大事だと考える人なんですよ。『鶴見俊輔伝』には、ゴシップ好きな人だと出てきますね。大学の研究のなかではそぎ落として行く部分だけども、そこに可能性を見はった、その延長上に私は現風研を考えています。鶴見さんもそれには共鳴しておられたんじゃないでしょうか。
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鶴見俊輔伝
黒川 創 /著
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黒川創
1961年、京都市生まれ。同志社大学文学部卒業。99年、小説『若冲の目』刊行。2008年刊『かもめの日』で読売文学賞、13年刊『国境〔完全版〕』で伊藤整文学賞(評論部門)、14年刊『京都』で毎日出版文化賞、18年刊『鶴見俊輔伝』で大佛次郎賞を受賞。その他の小説に『もどろき』『暗い林を抜けて』『ウィーン近郊』『彼女のことを知っている』、エッセイに『旅する少年』など。最新刊に『世界を文学でどう描けるか』(図書出版みぎわ)。
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井上章一
1955(昭和30)年、京都府生れ。京都大学大学院修士課程修了。国際日本文化研究センター所長。『つくられた桂離宮神話』でサントリー学芸賞、『南蛮幻想―ユリシーズ伝説と安土城』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。著書に『京都ぎらい』『学問をしばるもの』『美人論』『関西人の正体』『ヤマトタケルの日本史 : 女になった英雄たち』などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 黒川創
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1961年、京都市生まれ。同志社大学文学部卒業。99年、小説『若冲の目』刊行。2008年刊『かもめの日』で読売文学賞、13年刊『国境〔完全版〕』で伊藤整文学賞(評論部門)、14年刊『京都』で毎日出版文化賞、18年刊『鶴見俊輔伝』で大佛次郎賞を受賞。その他の小説に『もどろき』『暗い林を抜けて』『ウィーン近郊』『彼女のことを知っている』、エッセイに『旅する少年』など。最新刊に『世界を文学でどう描けるか』(図書出版みぎわ)。
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著者の本
- 井上章一
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1955(昭和30)年、京都府生れ。京都大学大学院修士課程修了。国際日本文化研究センター所長。『つくられた桂離宮神話』でサントリー学芸賞、『南蛮幻想―ユリシーズ伝説と安土城』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。著書に『京都ぎらい』『学問をしばるもの』『美人論』『関西人の正体』『ヤマトタケルの日本史 : 女になった英雄たち』などがある。
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