夕食時、テレビをつけると、たまたま語源に関する番組を放送していました。テーマは「のら猫・どら猫」。野外にいる猫をなぜ「のら猫」と言うのか、が問題です。
そりゃ、あれだろう……と独り言を言いかけたら、番組のほうが先に答えを言いました。「のらりくらりしている猫」だから「のら猫」だ、というのです。
ちょっと驚きました。のらりくらりしてる猫って、どんなんだ。この形容は、怠けて何もせずに暮らす人に使うものです。野外にいる猫は怠けてるんだろうか。
画面では、「識者」らしき人が、この語源説を自信たっぷりに述べています。ただ、識者といっても、日本語の専門家ではないようでした。
この説は、はっきり否定することができます。「のら」のつく動物は猫に限りません。「のら犬」もあるし、昔は「のらギツネ」「のらネズミ」もありました。「のらりくらりしているネズミ」というのは、猫以上に想像しにくいですね。
これらの「のら」は、野・野原の意味と考えられます。「野」に接尾語の「ら」がついた形です。つまり、「のら猫」は野にいる猫。同様に、「のら犬」は野犬、「のらギツネ」は野ギツネ、「のらネズミ」は地ネズミです。こう考えて初めて、「のら○○」ということばが統一的に説明できます。
野原の意味の「のら」は、古くから例があります。「万葉集」から引きましょう。
〈紅の浅葉の野らに刈る草の束の間も我を忘らすな〉
この「浅葉の野ら」は、「浅葉という名の野原」ということです。
「のら」は後に、田畑のことも表しました。そう、「野良仕事」の「野良」です。「のらに出て働く」は、「野外で働く」→「田畑で働く」と意味が移っていきました。
一方、「のらりくらり」の「のら」は擬態語です。「のろのろ」「のらのら」(ともに動作が鈍い様子)と同語源です。野・野原を表す「のら」とは関係がありません。
のらりくらりして、遊び好きの息子のことを「のら息子」と言います。もしかすると、番組に出てきた識者は、「のら猫」の「のら」と、「のら息子」の「のら」を同一のものだと考えて、「のら猫=のらりくらりしている猫」と解釈してしまったのかもしれません。でも、それは無理のある解釈です。
番組の内容はやがて、「のら猫」と「どら猫」はどう違うかに移りました。識者は、「のら猫」が盗みをすると「どら猫」と呼ばれるようになる、と解説しました。つまり「どら猫」とは「盗みをする猫」のことだ、と。
これは、完全に否定すべき説とまでは言えませんが、誤解を招く説です。盗みをしなくても「どら猫」と言うし、「のら猫」も盗みをすることがあります。
「のら猫」と「どら猫」の違いは、後者のほうが罵倒する気持ちが強い、というところです。「のら猫」もけっこう猫に失礼な呼び名ですが、「どら猫」はもっと失礼です。
同様のことは、退出を表す「のく」と「どく」にも言えます。「のく」は「立ちのく」と言うように、普通の場合にも使います。一方、「どく」は、「ちょっとどいてよ」「どきやがれ」などと、「のく」よりもぞんざいな言い方になります。
つまり、ことばの初めが「の」→「ど」と変化することで、ことばが表す対象の価値が下がるのです。
ことばの初めではありませんが、「おのれ」「おどれ」も似た例です。古典では、目下の相手に向かって「おのれ」と言うことがあります。江戸時代の上方では、これが変化した「おどれ」が現れます。「おどれ」「おんどれ」となると、もはや罵倒語です。
「の」→「ど」だけではありません。「彼が走るさま(様)を見ろ」は普通の言い方ですが、「あのざまを見ろ」は罵る言い方です。あるいは、「たま(玉)」は単なる丸いものですが、小麦粉を水で溶いてかき混ぜるときにできる「だま」はいやなものです。
このように、ことばの初めを濁音にして、指すものの価値を低くすることがあります。日本語学者の遠藤邦基は、これを「濁音減価」と表現しました。
「のら猫」を罵る気持ちが強くなると「どら猫」になります。これも濁音減価の例です。盗みをする猫はたしかに「どら猫」でしょうが、盗まなくても「どら猫」と罵られる可能性はあります。19世紀には「のら犬」を罵って言う「どら犬」もありました。もちろん、盗みをしない犬でもそう呼ばれました。
濁音減価で「のら猫」が「どら猫」になるのと同じく、のらりくらりしている「のら息子」を罵ると「どら息子」になります。「のら猫」「のら息子」の「のら」はそれぞれ語源が違いますが、どらちも罵って「どら」と言う点では同じです。
先のテレビ番組では、「どら猫」「どら息子」の語源も取り上げていました。「打楽器の『銅鑼』から来ている」という説明でした。でも、これは苦しいでしょう。
江戸時代に「どらを打つ」という言い方がありました。「放蕩して金を使い果たす」の意味で、川柳にもよく出てきます。「金尽く」(金が尽きる)→「鉦突く」→「銅鑼を打つ」というしゃれだと考える説もあります。番組ではこれを踏まえて、「銅鑼を打つ〔=浪費する〕息子」だから「どら息子」だと説明していました。
でも、おそらく、実際は順番が逆だったのでしょう。「どら息子」がまずあって、その「どら」を「銅鑼」と掛けて(「金尽く」の連想もあって)「銅鑼を打つ」としゃれた、と考えるほうが自然です。そうでないと、「のら息子」の形が説明できません。
専門家だって、うっかり間違うことはあります。でも、「『のら猫』の『のら』は『のらりくらり』から」というような説明が、日本語学の基礎的な訓練を受けた人から出てくるとは思えません。テレビ番組は、分野違いの人を呼んでしまったのです。
「のら猫」の「のら」は野・野原の意味、それが濁音減価によって「どら」になった。これが最も穏当な考え方でしょう。テレビ的な面白さはないかもしれませんが。
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飯間浩明
国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 飯間浩明
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国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。
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