わたしはあまり京都の店に詳しくありません。食の本を書いたりしているので、さぞや博覧強記でしょうと期待されるのですが、どちらかというと惚れた店に憑くタイプ。いわゆる「喰い歩き」や新規店探訪には興味がありません。自分で料理するのも好きなので自ずと外食の機会も制限されますしね。
きっと京都好きの喰いしん坊のみなさんのほうがよほどたくさんの情報をお持ちだと思います。
それでもときにはかつて店主さんにお世話になったとか、ご縁があったりとかで新品の暖簾をくぐることもなくはありません。此度の帰国時には錦の老舗川魚店「大國屋」のご主人、山岡國男さんが七十にして開かれた鰻屋さん「大國屋鰻兵衛」で感激を味わわせていただきました。
いやー旨かった。困ったことにリピート決定。なぜ困るかというと物理的な時間も胃のキャパも限られているからです。進んで〝開発〟しない理由はそんな悲劇を避けたいがため。なんですが、これほど嬉しい苦悩はありません。リンダ困っちゃう♥って感じ。
リンダもろともわたしを懊悩の海に放り込んだこちらのメニューはただひとつ。地焼うなぎと御竈飯。これに香の物と汁ものがついたセットのみ。美味しい店というのはしばしば何もかも食べたくなって注文にも困っちゃう♥わけですが、その点については鰻兵衛では心配ないのでした。
今日日の鰻不足は深刻で値段も高騰していると聞き及び、蒲焼番長のわたしはかなりの出費を覚悟していたのですが、その点でも心配無用だったのは意外でしたね。もちろん安価だと言いたいのではない。「こんだけ美味しいにゃから、このくらいはしますやろ」という非常に適切なお値段だったのです。
食べもの屋だけの話ではなく、京都では【等価交換】であることがとても大切にされます。本来お高いはずのものが無暗に安いとなにか〝裏〟があるのではないかと疑心が湧いてくる。暗鬼の入り込む隙間のない適切なプライスであるほうが激安であるより余程評価される都市。それが京都。
だから京都人はものを「お値打ちやわー!」と褒めるのです。安けりゃいいってもんじゃないの。「お安いわー」って悪口なんですよ。
ともあれ以前から錦の店でも奥のほうでごはんに蒲焼を乗っけてお値打ちで食べさせてくださっていて、それはもうご馳走感満載の贅沢ではあったのですが、鰻兵衛でいただけるお膳は、これはもう次元が違いました。理由はシンプル。湖東焼「一志郎窯」の羽釜で炊かれたごはんが別格の味だからです。
幕末彦根藩の御用窯だったもののいちど廃絶してしまった窯を陶工の中川一志郎氏が復興させたのがこちら。御用窯らしい品格ある茶陶からカジュアルな皿小鉢まで様々な焼き物が作られていますが、中川一志郎と一志郎窯の名前を一躍有名にしたのはやはり土鍋と羽釜でしょう。というか、これで煮炊きされたもの、とりわけごはんの味わいが多くの人々を魅了し、口伝で名声が広まっていったわけです。
鰻好きなら誰もが賛同してくれるでしょうが、この魚の料理は白米とともに咀嚼されたとき掛け算で旨味が舌の上で昇華してゆきます。むろん酒とだって絶佳の陶酔を味わえますが、やはりごはんとの相性が素晴らしい。鰻兵衛の鰻とごはんは坂東玉三郎と片岡孝夫(現・仁左衛門)もかくや。唸らせられました。
一志郎窯や中川さんが修行なさった信楽の「雲井窯」の羽釜を使ってお米を炊く料理屋さんは京都を中心にどんどん増えています。そりゃあ味が全然違うんですから。でも知っている限りではこちらほど塩梅よいごはんはそうそうありません。たぶん一品、鰻のためだけに仕上げられているからでしょう。
あと、ご主人の山岡さんが主宰なさっている陶芸家と料理人の交流会「器覚倶楽部」を通じて中川さんと永いおつきあいされているのも大きい。つまり、あの羽釜を知り尽くしているからこその、あのごはんなのです。大國屋の鰻の味のためのオートクチュールご飯を一志郎窯が可能にしたわけですね。
わたしが中川さんの羽釜で炊かれたごはんの滋味を知ったのは「草喰なかひがし」さんでした。
こちらはそれこそわたしの最多リピート店のひとつ。というか自分にとってこちらでの食事はライフワークのひとつだと考えています。ご主人、中東久雄さんの料理は亡くなられたお兄様の「美山荘」を手伝われていたころから食べさせていただいていますし、こちらのお店も開店当初からお邪魔しています。結婚式の日本での披露宴もこちら。なかひがしさん自身の折り目の祝い席にもなんどか招いてくださいました。英国住まいにもかかわらず、ずいぶんと通っているものだと我ながら感心します。
いちどたりとて満足しなかったことはなく。ひとくちたりとも残したことすらありません。1回のコースで10皿以上あるのですから平気で500を超える料理を頂戴していてその全て全てが鮮烈に美味しいと感じられるって、なんなんでしょう。繰り返し供されるものだっていくつかあるのに、それらすらいつでも新たな味覚の歓喜を与えてくれる。
そのなかでも中東さんが「当店のメインコースでございます」と胸を張って出してくださるごはんは、どんなにおなかが膨れていても3膳はおかわりしてしまいます。この世で最良の【食】のひとつ。古来より日本では神棚にごはんをお供えしてきたわけですが、こちらでお茶碗を持つたびに、ああ、これは神饌なのだ、有り難い有り難いと思うのでした。
だから一志郎窯のことも大國屋の存在も最初に教えてくださったのは中東さんです。ただ正直、はじめはこちらのごはんと羽釜がうまく結びつきませんでした。中東さんの才能と研鑽があの味覚を完成させるのであって、大将が「羽釜のおかげで」「羽釜があればこそ」とおっしゃるのは謙遜だろうと考えていたからです。見当違いもいいところ。
ごはんというのは米と水でできています。材料はふたつっきり。料理人にできる仕事は、いい素材を選んでやることのほかは水と火の加減しかない。そのときにお竈さんで熾す特別な焔で米と水をなかひがしで出しておられるような形で融和させてやれるのは羽釜だけなんですよ。そして大将とご縁があったのは中川さんの土鍋だった、ってことなんです。
中東さんから「入江さん、羽釜、いらはりませんか?」というお申し出をいただいたのは、そういうことが理解できてきたちょうどその頃でした。「あきません。わたしには勿体ない」と即座にお断りしました。金額の問題ではなく値打の問題。わたしという料理の作り手としての値打の問題です。お前にはまだ無理だと本能が告げていました。
それでも中東さんは諦めませんでした。お店に伺うたびに丁寧にオファーしてくださります。
もちろん大将としては自分の気に入っているものを広めたい気持ちもあったでしょう。一志郎窯の羽釜が御つくりおきしていただけること自体はもう大國屋の山岡さんに聞いて知っていました。やはり錦市場にある東洋雑貨店の「pulau deco(プラウデコ)」で人気商品ゆえに時間はかかるけれど誰でも注文できるのだそうです。けれど、ゆえにそちらでお願いするのは角が立つ。うーん。困っ(以下略)
これはもう自分を羽釜に相応しいところまで引き上げてくしかないかと覚悟を固めて受け取らせていただく旨を伝えるととても喜んでくださって、どうして贈り物する側が……と恐縮頻りでした。「色も選べますよ。何色がええですか?」と弾むように訊かれるので、こちらも調子に乗って「黄色がええです。珉平焼みたいなん」とか答えました。
これにはちょっとだけ理由があって、なかひがしの羽釜(大國屋鰻兵衛もそうですが)は「三彩」と名付けられたもので地の色に加えて、それこそ唐三彩を想起させる緑と黄に彩られています。こちらに及ぶべくもないわたしのような人間が使うのだから、ひと色足りないのが分相応ではないかと、ちょっと遜ってみたのでした。完成してきたのは緑の二彩でしたが(笑)。いえいえ。中東さんが「入江さんにはこれやろ」と見立ててくださったのだから、どんな色でも嬉しくなかろうはずがありません。
三顧の礼で拝領してきた羽釜を持ち帰り、うちで包みを開いてあらためて造形美を堪能していたわたしでしたが蓋を取って「あっ」。名前が彫ってある。
入江敦彦さん江 なかひがし
ここで、ようやく恐縮や忝さを感謝と喜悦が上回って胸にこみあげてきました。
我が物と思えば軽しの精神で羽釜をロンドンまで手持ちで帰ってもう8年が経ちます。いまだにうちには釣り合わない気もして火にかけるたび若干の気後れがあったりもするのですが、4年前の大病を機にちょっと思い入れの在り方が変わってきました。それはこれでお粥を炊いてもらっていたからです。
病院食は不味いものと相場が決まっておりますが、英国の病院食はなかなかすさまじいものがありました。保守党政権が公共費をどんどんカットしてゆくので、もう食べものと言っていいかどうかの線まできています。そこで基本的には自宅から運んできてもらった料理でサバイバルせざるを得ません。わたしが生き残れたのは、このときの自宅デリバリーのおかげ。
当時お気に入りだったカフェの珈琲、「男前豆腐店」の「風に吹かれて豆腐屋ジョニー」、そしてなにより羽釜で炊いたお粥さん。これが三種の神器ならぬ三種の神饌でした。
実は現在でも羽釜はお粥さんのためにコンロに載る回数が圧倒的に多いのです。というのも近ごろのロンドンの夏は暑いから。日本の災害レベルの猛暑とは比べるもおこがましいけれど、この夏はとりわけ大変でした。そんなとき朝ごはんに啜る冷たいお粥の嬉しいこと! 前日の晩に仕込んで土鍋ごと室温にした白粥に氷をいくつか放り込んで梅干しでいただきます。二日分くらい炊くので、残りはタッパに入れて冷蔵庫できんきんに冷やします。
そういえば偶然にも同じ日に鰻兵衛で中川一志郎さんとお会いして、しばし四方山話に花を咲かせました。このときに中東さんにいただいた羽釜について書かせていただきますと挨拶すると「ああ、入江さん以外にもいくつか拵えましたよ」とのこと。数寄屋橋にある世界一有名なお寿司屋さんをはじめ錚々たる名前を聞いているうちに鳩尾が痛くなってきました。
世の中、知らなくていいこともありますね。知っていたらさすがに貰えなかったし、貰えていなかったら病気も猛暑も越せなかったかもしれません。
関連サイト
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入江敦彦
いりえあつひこ 1961年京都市西陣生まれ。多摩美術大学染織デザイン科卒業。ロンドン在住。作家、エッセイスト。主な著書に、生粋の京都人の視点で都の深層を描く『京都人だけが知っている』、『イケズの構造』『怖いこわい京都』『イケズ花咲く古典文学』や小説『京都松原 テ・鉄輪』など。『秘密のロンドン』『英国のOFF』など、英国の文化に関する著作も多数。最新刊は『読む京都』。(Photo by James Beresford)
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
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