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御つくりおき――京都のひととモノとのつきあいかた――

2019年7月26日 御つくりおき――京都のひととモノとのつきあいかた――

最終回 比良の「中川木工芸」さんに暮らしの句点みたいな蓋を誂えていただく

著者: 入江敦彦

京都のイケメン職人チームGO ON 所属で、リーダーである開化堂の八木隆裕くんに紹介してもらったのがナレソメ。わたしはチームで一番かっこいいと思う。奥様曰く「形が似てる」とのこと。あれ? 自己愛?

 「こんなもんできたんですけど、これ、なんでしょう?」
 自然木の丸太に(なた)を充てがい(つち)で叩いて割ったときに出現する木目の凹凸をそのまま生かした、それは箱でした。木の内部に埋まっていたものを取り出した形。ただそれだけで完成している美。中川さんが「作った」ではなく「できた」という言葉を選ばれたのがすべてを物語っていると思いました。
 しかしズブの素人をつかまえて「なんでしょう」といわれても困ります。ところがこのズブときたら駅への道順を問われたときのように、それがなんなのかを製作者本人に説明してしまったのだから困ったどころじゃない。
 「ははあ、これは依代(よりしろ)ですね」
 日本古来の神社神道ではカミサマが降りてくるのは人間の手が触れていない自然物とされています。もっとも一般的なのは、いわゆる鎮守の森に御座(おわ)すご神木というやつですね。この箱は、そういった聖なる力が宿ることのできる無垢の棲処である気がする。つまりはカミサマの〝いれもん〟。【依代】。作り手の自我はおろか何の作為もない。すごいもん(こしら)えちゃいましたねえ。
 よくもまあ思いつきで、そこまで断定できたもんだと我ながら呆れますが「ああ、そうですわ。これ依代ですわ」と納得して、そのままこのシリーズに【依代】の名を与えてしまった中川周士なる作家、職人も大したもんだと言えましょう。ただ、彼の手から生まれてくるものは、どれも基本的に雄弁なのも事実です。
 「考えるんじゃない感じるんだ」なんて考えることを惜しむ知的に自堕落な人々の言い訳が世に蔓延(はびこ)ってひさしいですが、あるべき思考・思索というプロセスをすっ飛ばしてまともな創作など誕生するわけなどない。
 たとえば人間国宝である中川さんのお父様、中川清司氏から受け継がれた「(まさ)合わせ」。数百からときには千を越す木片を繋げて幾何学文様を描きだすパガニーニのごとき超絶技巧。感じるだけでこんなものができたら苦労はいらん。ごめんで済んだら警察はいらんくらいいらん。
 けれど、なにもかもを理詰めで計算していたら依代は生を享けることなどなかったでしょう。それも本当です。材木の内部にどんな形象が息づいているかなんて、それこそ神のみぞ知るですから。考えて考えて考えたうえで理性から肉体を解き放たなければならない。わたしが中川さんを尊敬してやまないのはそれができる稀有なクリエーターだからです。
 そんなわけで彼の木工はタイトルがついていなくても前段階でぎりぎりまで言語化されていることも多いがゆえに雄弁だし、こんなふうにしゅっと正解が導き出されたりもするわけですね。
 依代の名称が正解だったという答え合わせは実際にその箱を頂戴してからでした。というか中川さん自身「でもこれ、なんのいれもんでしょう? なんに使こたらええんでしょう?」とおっしゃっていた。けれど、それに対してもわたしは即答したもんです。
 「依代なんやしカミサマいれたらええん違いますか?」
 日本のカミサマは八百万。お米一粒にすら八十八もカミサマがいるゆうやないですか。誰でもなんやかやカミサマと同居してるのが日本人。けど、カミサマの居場所って存外普通の家にはなかったりするから…。
 依代箱は最初から目的を持って買う必要はありません。などと、またもやわたしは断言してしまいます。
 もちろん玄関先において家や車のキーを納めておくのに使ったってぜんぜんかまわない。「香りの博多人形」を置くよりはずっと素敵です。でも彼の依代シリーズを目にする手に取れる機会があったら「欲しい!」と感じた(こういうときこそ考えるんじゃなくて感じる、でいいんです)ものを選ぶことをお勧めします。驚くほどぴったりとくる用途がみつかりますから。
 うちにある依代はただいま六つ。ロンドンに来られるたび拙宅に泊っていただいてるんですが、そのときに「宿代ですー」と持ってきてくださるのです。形もサイズもそれぞれですが、これがもう見事に我が家に雑居していたカミサマのおうちになっているんですよ。

積極的に〝外〟に向け仕事を発信されているから中川作品に触れる機会は存外多い。また奥様が工房の横にショップ「草庭」を構えておられる。依代は有無をお問い合わせの上、どうぞ。

 左端の木曽檜箱にはツレの亡くなった義父さんの遺品(メメントモリ)が。英国空軍の技師をされていたのですが、そのときに貰われた勲章や認識証ネックレス。ずっと引き出しの隅で埃をかぶっていたそれらがぴたっ。隣の高野槙箱は件の金継ぎ茶碗「拾喰」を請け負ってくれた骨董店、画餠洞(わひんどう)さんで求めたホトケサマの〝残欠〟の社に。こういう細かな蒐集物の整理は難航も多いので、すんなり納まってくれたときは不思議な気分でした。
 次の木曽檜箱は最初にいただいたもの。それこそ用途から逆算したらまずチョイスしない形態ですが、これがまるで誂えたみたいなガラスペンの(しとね)になってくれました。たぶんこれからもふくめ生涯で得ることのできた最良の友人、吉野朔実さんに貰った最後のクリスマスプレゼント。美しく、美しさのぶんだけ繊細で脆い一茎の形見。怖くてめったに表に出せなかったのですが、いまは手の届くところにいつもあります。
 その横の褐色がかった箱はなんと神代杉でできています。これは麻の茶巾を畳んで寝かせるとふわりと収納されて、それ用だと聞かされたら信じてしまいそうなくらいです。材質ゆえに清潔感もあって重宝至極。極端に細長いやつは、これだけは購入させていただいたもの。そしてする仕事も決まっていたもの。中川さん作の茶杓を買ったとき誂えてくださいました。材は杉。
 右端の木曽檜箱。ミニチュアで硬貨一枚入らない。が、これも意外に早く役割が見つかりました。いつも新年に干支御籤を送ってくれる友人がいるのですが、これを読んだあとの始末に悩んでいたんですよね。日本にいれば神社の境内の木に結びにゆけるんですが。というわけでこの依代にはお御籤の結願を託することに。

たとえなにも納めなくても、カミサマのおうちが家にあるっていいもんだ。昔の住まいには神棚があって「何事のおはしますかは知らねども」子供たちは畏れや敬いを学んだ。この木箱はそういう役割を果たすのではないか。歳徳神が訪なう恵方に置き無業息災を祈るも由。

 中川さんの作品といえば神器めいて優雅なドンペリの公認(オフィシャル)シャンパンクーラーだったり、V&A博物館のパーマネントコレクションに選ばれた端正な神代杉のスツールなどを思い浮かべる方が多いでしょう。けれどわたしが愛してやまないのは、やはりもっと日常に近いものたち。依代も、あれだけアートに寄っていながら〝いれもん〟である本質から逸脱していないのがわたしを惹きつけてやまない真因なのです。
 そんなわたしが彼に初めてお願いした御つくりおきは木蓋でした。丹波焼のうるか壺に合わせたものを作っていただきました。丹波の壺を買うときは花器としてがほとんどなので、これを発見したときはそんなつもりはなかったのです。しかし購入した数日後に吉野さんの訃報が届き、それからしばらくのあいだこの壺に弔花を挿して祭壇としていたので、そのせいでしょうか。
 なんというか閉じておきたくなった、のでした。その小壺には吉野さんの一部が残っているような気持ちがして、だったら彼女に心地よくいてもらおう…なんて。だってドアがない家なんて落ち着かないでしょ?
 できあがってきた木蓋が面白いことに、なんとまあ吉野さん好みで感動しきりでしたね。そんな話を中川さんにしたわけじゃないのに。無患子(ムクロジ)の実の黒い丸い摘みがまるでドアノブのよう。ほら、あれだ。「ロード・オブ・ザ・リング」に登場するホビット村の家の玄関みたい。こんなにオーガニックなデザインでありながらちっともガタつかず見事に壺の口にフィット。中川さんの技術力に感嘆!

英国は法律が整備されていて散骨が可能です。お墓参りはするけれどお墓に入ることには興味がないので。わたしも散骨してもらう予定。でもさ、骨壺って碌なのがないのよね。ということで暫定的ですがこれは私の骨壺でもあります。まさに人生の句点ですね。うん。

 蓋を取ったら彼女がジャジャジャジャーンと飛び出してくれるんじゃないかとか益体(やくたい)もない夢想をして何度も開けたり閉めたり。でも残念ながら彼女はハクション大魔王ではないのでした。おろろーん、ですよ。これがほんとの。
 しかしです。嬉しい誤算と申しましょうか、このうるか壺はわたしが想像していたよりもかなり頻繁にロンドンの卓上に登場してくれることになりました。花器としてではなく茶事につかう水指として。木蓋が載ったことで風情と品格が日用雑器である丹波に備わって、ただの見立て以上の景色を創ってくれるようになったのです。
 わたしの茶は〝道〟とは無縁の野っ原みたいな茶ですが、だからこそ目の前の風景はそれなりに麗しくあってもらわねば困ります。奇矯でも素っ頓狂でもかまわないけれど、楽しくて清潔でストレスフリーであってほしい。ほぼ毎日のことですから。吉野蓋付きうるか壺はもはやなくてはならぬ(しつら)い。それにね、見るたびに彼女を想うので、まるで一緒に茶を喫しているみたいに胸がぬくくなる。ありがたいなあ。
 一見だけでは、あってもなくてもいいようなものでいて、蓋があるだけでこんなにも世界は変わります。

この連載も今回でおしまい。単行本にまとまったらまた宜しくね。大団円の思いを込めて茶を点てた盌に、ふと見れば笑い顔がぷかり。

 蓋というのは文章における句点のようなものかもしれません。頭に乗るものだけど句点。そんなもの打たなくたって一文ごとに間を空けてやるなりすれば文意は伝わります。いまどきのテキスト文なんて区切るときは改行ですから実際に普段はマルを使わない人だっているかもしれない。けれど句点のない文章はやはり締まりがない。
 本来蓋があるべきところに蓋がない道具も同じ。使えても締まりがない。ちゃんとしてない。
 この連載の第1回が清課堂さんで御つくりおきしてもらったティーポットのための錫製の蓋でしたが、あれなんかもそうでしたね。シャンパンクーラーはバケツでもいいけれど自分の生活を支えてくれる身の回り品ほどちゃんとしててほしい。句読点の抜けていない読みやすい文章みたいな暮らしがしたいと思います。
 ところでわたしはすでに中川木工芸さんにお願いする次回の御つくりおきが決定しているのでした。それは木蓋。そう。またもや木蓋なのです。けれどこんどは目的が全然異なる。句点というよりはロンドンライフの【てにをは】にかかわる大事な蓋。それは鉄鍋のための木蓋です。
 この話はロンドンのうちで一緒に飯を喰いながら湧いてきたアイデアが元になっています。これも以前に書かせていただいた「たる源」さんのおひつが極度乾燥にやられていよいよメンテできないほどヤバくなってきたので、どうしましょうと相談したのが切っ掛け。
 うちの飯炊き釜はStaub 社のココット鍋。カストアイアンだから重いけど抜群に旨いごはんがふっくら出来上がってくれます。炊き立てはね、それでいいんです。問題はそのあとなんですよ。鉄鍋ごはんを丁寧におひつに移しておくと翌日には甘みが凝縮した上等の冷や飯が完成するのです。蒸れすぎず、乾きすぎず、余分な水分の抜けた塩梅のいい冷や飯。これがないと実に実に困る。おひつは必需品なのです。わたしにとって。
 お茶漬けだって焼きメシだって仕上がりがダンチ。わたしは残りカレーを煮なおさず冷や飯にかけた冷や冷やカレーが好物なのですが、これもおひつごはんだと大変結構なんでございます。
 そこで中川さんが発案してくださったのが木蓋でした。ご飯が炊けたらおひつ移動させずにお杓文字(しゃもじ)でふんわりと返し、お米を空気に触れさせて、そうしたらもとの鉄蓋ではなく分厚めの木蓋に取り変えてやる。それだけでかなりの≪おひつ効果≫が望めるのではないか? というのが彼の提案。もう乗らないはずがありません!

関連サイト

イケズの構造

2007/08/01発売

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

入江敦彦

いりえあつひこ 1961年京都市西陣生まれ。多摩美術大学染織デザイン科卒業。ロンドン在住。作家、エッセイスト。主な著書に、生粋の京都人の視点で都の深層を描く『京都人だけが知っている』、『イケズの構造』『怖いこわい京都』『イケズ花咲く古典文学』や小説『京都松原 テ・鉄輪』など。『秘密のロンドン』『英国のOFF』など、英国の文化に関する著作も多数。最新刊は『読む京都』。(Photo by James Beresford)

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