英語では園芸上手を称して「緑の指」を持っているといいます。とにもかくにも庭と植物が大好きな彼らにとって、これは相当に尊敬される才能。そこへいくとわたしの指なんざさしずめ黒か灰色、あるいはツメでもしたかのごとき鬱血色といった塩梅で、触れるそばから草木が枯れてしまう。とんだミダス王でございます。
なにしろエアプランツはおろか水に挿しておくだけでOKなチャイニーズバンブーですら殺してしまうのだから、これはこれで立派な才能といえるかもしれません。もっとも(それゆえか)人一倍の植物好きで庭を巡ったりフラワーアレンジに精を出したりは大切な日常の娯楽になっています。なぜか切り花ならそれなりに長生きさせてやれるし。
けれど、やはり「育てる」という行為には憧憬があります。アボカドの種から上手に芽を吹かせたりしている奥様なんかをみるとすっごく尊敬してしまう。聡明な女性は家事がなんたらとかって本がありましたが個人的には聡明な女性は緑の指をしている印象があるな。園芸と家事の間には深くて暗い河があるような気もするけれど。
わたしはいま庭のない暮らしをしています。いずれにせよ指の緑化計画は難しい環境。精々鉢植えの青紫蘇を死なせないようにがんばるくらいしかない。のですが性懲りもなく欲しい植物性の御つくりおきがあるんですよ。なまのプラントを英国に持ち込むのは至難の業なので半分は夢なんだけど、よしんば先々法律が変わらないとも限らない。そしたらいちばんに手に入れたい代物。
それは「Space Colony」。早い話がテラリウムの一種なんですが、まるい、昔の浮きみたいな硝子球(古い電球だとか)に数種類のプラントが混ぜ植えされており、これがいつまで眺めていても飽きないくらい素晴らしいのです。上部にLED照明が仕込まれ、あたかも空中庭園のごとく部屋の中に吊るされた作品は、なんというか禅的な慰撫、慰謝を観る者に与えてくれる。しかもこれが丈夫で長生き、メンテもあまりいらないんですって。
透明なボールに水草と小海老だかメダカだかを閉じ込め、食物連鎖を利用して半永久的に飼うというのがかつてありました。あれはなんだか残酷な気がして嫌だったんですが植物ならば大丈夫。スペースコロニーの作者である村瀬貴昭さんは、どうやら豊富な経験知と独自の感性、そして野性の勘所みたいなもので限られた空間の中に食物連鎖めいた調和を創造しているみたいで、それがローメンテナンスでも丈夫で長生きする理由であるようです。
ああ、あれだ。中東さん。京都が誇る世界で最も予約が取れない割烹「草喰なかひがし」のご主人はいまでも毎日のように野山を巡って料理の素材を調達しておられますが、彼の手にかかるとどんなに複雑な調理過程を経ても本来の味わいを損なわないのです。ちょうど村瀬くんの植栽もそんな感じ。
中東さんは表面的な風味だけでなく奥底に眠っているような味覚までをも微妙な温度の具合や食べ合わせの妙で引き出してしまわれるのですが、そこいらへんの塩梅も似ているかもしれません。
そもそも【楽園】という言葉は古代ペルシャ語で【pairi=囲われた】【diz=壁(に)】、すなわち庭園を意味していました。それをソクラテスの弟子だった哲学者のクセノポンがひとつの単語にまとめて【Paradeisos=楽園】なる世界観を定義したのです。のちに旧約聖書の『創世記』に引かれ、いわゆる「エデンの園」と同一視されて理想郷の代名詞となりました。つまり庭というのは人を拒むからこそ美しいものとして設定されていたのです。
そういう意味で、もしかしたら村瀬くんのスペースコロニーというのはこの世のどんな場所よりも本当の意味で楽園、エデンに近い存在なのかもしれません。そして霧吹きで水を与えるときに持ち主が自然、あるいは神様の役割を果たす以外、閉鎖空間だからこそわたしにだって育てられるかもしれないという確信があるのです。
たとえば日本には盆栽という素晴らしい芸術があります。しばしば村瀬くんの硝子球は盆栽に喩えられ、比較されてその魅力が語られるようです。が、わたしは盆栽とはむしろ正反対の性質を持っていると思ってんですよね。なぜって盆栽は〝開かれている〟から。
英国には風景式庭園というやつがあります。かのケイパビリティ・ブラウンを筆頭とする風景建築家によって緻密に植栽され構築された広大な庭園。あれこそが盆栽。サイズがマクロとミクロで異なるがゆえ両者は対照的に考えられがちですが、あれは本質的には対照ではなく対称なんです。鏡対称。景色を映すのに景色と同じサイズの鏡は必要ないでしょ? コンパクトにだって壮なる眺めが納められてしまう。
手垢のついた表現ですが「芸術は自然の模倣」っていうじゃないですか。間違って捉えられていることも多くて、ちょっとイラッとしたりもしますが自然を模倣するのは並大抵の技術ではありません。風景式庭園や盆栽は、まさに超絶テクで模倣された自然。対するにスペースコロニーはむしろ自然を拝借している。作為がないといっていいかもしれないし、無作為の作為と利休を気取っても叱られないでしょう。
先に答を言ってしまったかもしれません。村瀬くんの作品に似たものがあるならば、それは茶室ではないかとわたしは考察しています。彼の植栽は、まさに【しつらい】そのものですから。芸術性の在り方も然り。開放されていないがゆえに無限を内包することに成功した楽園球。きっと内側では目に見えないアダムとイブが一服している気がします。
すでにワールドワイドで高い評価を得ている村瀬くんなので、彼の植民地は日本各地をめきめき占領中だけれど、やはりとりわけ京都では出会う機会が多い。主張の激しいアートではなく、かといってただの小洒落たインテリア装飾品でもない。それでいて花を飾るのとは違ったインパクト。
そりゃまあホンモノの楽園を自分の店に吊るしておけたら、どんだけいいかとは思います。縁起がいいと申しましょうか(笑)。神の宿る依代なるものは古来、岩石とか樹木とか人間の手が触れていない自然物に限ります。しかし、こちらの球になら降ろせそう。つまりは神棚的な役割をも果たしてくれる。縁起よさそうなのも道理です。神社で拝受される商売繁盛の縁起物を飾る習慣は廃れないでほしいですが、えべっさんの顔がついた熊手とか福笹は場所を選びます。
またこのスペースコロニーってやつが一見シンプルな構造でいながら置かれる空間によって見事に別の表情を見せる。だからどんなに席巻しようと見飽きないし「どこにでもある」風情にならない。このごろは低俗なパクリ球がぶら下がってたりもするんですが、そっちは招き猫や鮭を咥えた木彫りの熊を鎮座させたみたいな印象なのですぐにわかります。
学食っぽい気安さが身上の「CAFÉ INDÉPENDANTS」(カフェ・アンデパンダン)で見かけたスペースコロニーは、独特に無国籍な雰囲気を演出するのに一役買っていました。それこそ宇宙コロニーの食堂にいるみたいな気分。「清水 京あみ」や「OTOWA」といった観光地のど真ん中でお商売をされている店にあると、それだけでおのぼりさん御用達ではなく地に足がついた、ちゃんとした仕事をしておられる好印象が生まれています。
まるで結界でもあるように前庭にこんもりと植物を繁らせた「mole」では客の静粛を促すように睨みをきかせていたのが面白かったですね。とても居心地のいいカフェなんですが、その安寧を護る役割を果たしている。「germer」なんかでもそうでした。ここは一言でいうと「パンとフランス惣菜の店」なんですが、驚くほどよく出来ている。というか只者ではない。ここではスペースコロニーがその稀なクオリティを物語っている看板娘のようです。
「22 PIECES」はお洒落の吹き溜まりみたいな京都の最新スポットですが、ここでも存在感はピカいち。ただ興味深いのは、あんなに目立っていながら他を圧していないというか和合しているんですよね。むしろまとめ役というか全体のイメージを統べるみたいなアンビアンスを発散させています。
かくのごとく様々なシーンごとに豊かな眺めを提供しているスペースコロニーですが、たぶん京都を煮〆たような町屋の通り庭や軒先に揺れていてもこの上なく風景に寄り添うでしょう。百年前からあったみたいに馴染むでしょうね。
しかし、わたしが知っている範囲では「ギャラリーYDS」のショップにあるものがとりわけ端正で、また端的に概念と禀性を伝えている気がします。ここのオーナーである高橋周也さんの美意識が抜きんでているからかもしれません。と、エラそうなことをいっていますが、わたしがこちらを知ったのはつい先日。それも村瀬くんの個展に伺ったのが最初。
それにしても「再生」と名づけられたこのエキジビションの蠱惑的だったこと! 観る者の精神を勾引かし拘束して離さない。陶芸家が世に送り出すのをとどめた作品、盆栽家が仕立てを諦めて放置していた植物を再構築したインスタレーションは、遠い過去に滅びた文明の遺構のようでもあり、遠い未来に滅びる人類の遺跡のようでもある。
わたしは、なるほどスペースコロニーが割れるとこんなものが飛び出すのか、などと勝手な空想を愉しんでいました。そりゃあ、こんなものが隠されているのだとしたら欲しくもなるはずだわ、とか。
このときに村瀬くんと交わしたのが、作り手以外にとっては陶芸も植栽も失敗作なんてないよねという話でした。焼き物でも園芸植物でも、それを作品として、あるいは商品として表に出すとき作家の名のもとに気に染まぬものを見せたくない気持ちはよくわかる。けど、それらにだって美は――それこそ依代のごとく――籠っているし香っている。と。
「廃墟だってそうですよね。もはやそれらは住居には適さなくなった建築ですがたくさんの人を惹きつけるでしょう? その理由はやっぱり美しいからなんですよ。ステレオタイプな美しさではないだけで」
いつか、けど必ず御つくりおきをお願いしようと決意した瞬間でした。わたしの条件はエクストラ丈夫で長生き。ただそれだけです。
関連サイト
『Re:planter』HP
『CAFÉ INDÉPENDANTS』HP
http://www.cafe-independants.com
『OTOWA』HP
『清水 京あみ』HP
https://ameblo.jp/cafe-sweets-kyoami/
『mole』HP
『22 PIECES』HP
『germer』HP
『ギャラリーYDS』HP
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入江敦彦
いりえあつひこ 1961年京都市西陣生まれ。多摩美術大学染織デザイン科卒業。ロンドン在住。作家、エッセイスト。主な著書に、生粋の京都人の視点で都の深層を描く『京都人だけが知っている』、『イケズの構造』『怖いこわい京都』『イケズ花咲く古典文学』や小説『京都松原 テ・鉄輪』など。『秘密のロンドン』『英国のOFF』など、英国の文化に関する著作も多数。最新刊は『読む京都』。(Photo by James Beresford)
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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