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あなたには世界がどう見えているか教えてよ 雑談のススメ

2024年9月18日 あなたには世界がどう見えているか教えてよ 雑談のススメ

11. 「ちゃんと聞く」とは――いかに聞いてもらえていないか

著者: 桜林直子

悩み相談やカウンセリングでもなく、かといって、ひとりでああでもないこうでもないと考え続けるのでもなく。誰かを相手に自分のことを話すことで感情や考えを整理したり、世の中のできごとについて一緒に考えたり――。そんな「雑談」をサービスとして提供する“仕事”を2020年から続けている桜林直子さん(サクちゃん)による、「たのしい雑談」入門です。

「聞く」はとてもむずかしい

 「人の話を聞くことができていますか」と問われて、「できている」と自信をもって答えられる人はどのくらいいるだろうか。それだけ「話を聞く」ということは簡単なことではないと思っている。

 誰かと雑談をするときは「話す」と「聞く」を繰り返している。その際、自分が話せたかどうかは自覚しやすいが、聞くことができているかどうかはいまいちわかりにくい。

 人の話に意識を向ければ耳には入ってくるので、「聞く」は簡単なことだと思われがちだが、耳に入っていれば「聞くことができている」とは限らない。会話をする際の「聞く」について言えば、耳に入っているだけでは「できている」とは言えないだろう。

 しかし、自分が人の話を聞くとき、少なくとも聞いているつもりでいる。「わざと聞かない」ということはほとんどないはずだ。だからこそ、ちゃんと聞くことができているかどうかを確認するのが難しいのだ。

 そもそも「ちゃんと聞く」とはどういうことか。

 誰かに話をしたときに「ちゃんと聞いてもらえたな」と感じることもあれば、「なんだか聞いてもらえなかったな」と感じることもある。聞いてもらえたときはホクホクとした気持ちが残り、満たされたように感じる。聞いてもらえなかったと感じるときはモヤモヤとしたものが残り、満たされていない。いったい何が足りないのだろうか。

 「ちゃんと聞く」とはどういうことかを考えるために、一旦、日常の会話を思い出しながら「なんだか聞いてもらえていないな」と感じるときに何が起こっているのか、聞き手がやってしまいがちなことを書き出してみることにする。

相手の話をお題にして自分の話をする

 話を聞いていたらそれに関連した自分の経験を思い出し、「わたしの場合はこうだった」などと自分の話に持っていってしまうことがある。

 最近、バラエティ番組でも、誰かの話を聞いた後で「それで言うと〜」と別の人がトークのバトンを受け取るように話し出す場面をよく見かける。話がきれいに繋がっているとも言えるし、単に話題泥棒とも言える。

 話を聞いていて自然に湧いてくるのだから「聞けている」とも言えるのだが、話した側からすると、自分の話は宙に浮いたまま、相手の話にすり替えられたように感じてしまう。

 会話が途切れずスムーズに続いていても、キーワードだけ拾う連想ゲームのように、話題はどんどんずれていき、「あれ、今何の話してたんだっけ?」となる。どうでもいい話をしているときは、むしろそれが醍醐味で楽しいと思えるのだが、聞いてほしかった話が流れてしまうと、ちゃんと聞いてもらえたとは感じられない。同じお題で会話ができていても、「相手の話をちゃんと聞く」ができているとは言えない。

アドバイスやジャッジをする

 「それはちがうんじゃない?」「もっとこうしたらいいんじゃない?」などと、相手の話をどう判断したかを伝えることがある。自分ならどうするか、どうすべきかを提案する。これはかなりよくあるパターンだろう。

 話し手からすると、アドバイスや意見がほしいときはありがたいのだが、まず一旦話を聞いてほしい場合、自分の話がしっかりキャッチされずに打ち返されてしまうと、受け取ってもらえなかったと感じてしまう。

 こういうことを言うと「女性の話にはアドバイスは不要で、同意や共感をしてほしいだけだろう」などとトンチンカンな意見も出てくるが、それもちがう。男女関係なく、「ちゃんと聞く」をしてほしいのだ。共感や反感はその後だ。

 ただ、これには話す側にも問題があるのではないかと思っている。

 話し手が「相手がどう思うか」を気にしながら話してしまうと、そのリクエストに応えるようにアドバイスをするのが自然な流れになる。自分がどう感じてどう考えているかを自分でもわからないまま、誰かに答えをもらおうとすると「どう思う?」「どうしたらいい?」と相手の反応をもらうために話すことになる。そういったコミュニケーションに慣れてしまうと、「いいアドバイスをするために聞く」になってしまうのもわかる。

 ちゃんと聞いてもらうには、相手がどう思うかよりも、自分がどう思っているかを伝えることを優先して話をする必要がありそうだ。

相手が気にいる反応をしようとする

 相手が褒めてほしそうなら褒め、一緒に怒ってほしそうなら怒る、というように、どう反応したら相手が気持ちよく話すことができるかを重視してしまい、ちゃんと聞くことよりもうまくリアクションを返すことを大事にしてしまっている。

 そうした反応を求める人もいるのでやっかいだが、わたしはリアクションを重視されてもうれしくない。聞きながら「正解の反応はどれか」と探っているのは、ちゃんと聞けているとは言えないだろう。

 わたしの学生の頃はこのやり方が主流で、相手の話にどんな反応をするのが正解か、探り合うような会話をしている人が多かった。わたしはそれが苦手でできなかったので、よく不正解の反応をしてしまい「空気の読めないやつ」になっていた。しかし、今では、正解を探るのが上手にならなくてよかったと思う。相手が気持ちよくなる正解のリアクションをするよりも、ちゃんと聞きたいと思っているからだ。

「わかる」と共感する部分しか拾わない

 「わかるー!」と共感できることに対しては反応するが、わからないことや共感できないと反応が薄かったりスルーしたりしてしまう。

 わからないことに「わからないからもう少し教えて」と興味を持って先をうながすことができれば、話す側も話し続けられるが、スルーされてしまうとそれ以上は話せない。

 「わからない」と言われたら否定されたと感じる人がいて、そういう人は相手にも「わからない」とは言えないのだろう。共感されると安心し、共感されないと不安になる人同士の会話は、共感できるかどうかで成り立つ。

 「わからない」を怖がる人は一定数いる。

 わたしは、わからないことがあったとき、その先に進みたいと思う。つまり「もっと知りたい」となるのだが、そう考える人ばかりではないようだ。

 はっきり見えないことや理解できないことが、能力不足に感じられて、自分を責めてしまうのだろうか。自分のわかることなんてほんの一部なので、仕方がないことなのに。それよりも、わかることだけで身の周りを固めていくのは狭い世界に自分を閉じ込めることになるので、わたしにとってはその方がずっと怖い。

 「バカだと思われたくない」というプライドも関係しているのだろうか。その感覚があると、わからないと認めるのが怖いと感じて避けるようになるのかもしれない。

 「わからない」の先には「わかる」「知る」がある。それを繰り返すことで視野や知識が広がるので、わたしは「わからない」は宝だと思っている。しかし、わかる範囲だけの狭いところにいるのが落ち着くという人もいるのだろう。

 また、よくわからないものや興味を持てないものの話を聞くのが苦手な人がいる。その人は、相手がどう思い何を感じているかに関心を持てず、自分が興味を持てるかどうかだけを大事にしていると言える。

「つまり何が言いたいのか」まとめたがる、「何を言いたいのか」を思い込みで決めつける

 「それってつまりこういうこと?」「つまり何が言いたいの?」と総括しようとする。それによって、話し手はまとまっていないことを話していいと思えなくなり、意味や結論を持っていないと話せなくなってしまう。結論が出ないことや意味がないことを話す楽しさが失われてしまう。

 「つまりあなたはこう思っているんだよね?」と把握したがるのは、相手のためではなく自分がスッキリしたいからだ。雑談において、まとまらないモヤモヤを一緒に眺めることはとても大事だが、ゆっくり時間をかけることができないと、パッと形が見えずにイライラしてしまう。

 雑談をしにきてくれた人の中には「学生の頃から、とめどない話をしていると『結論は?』とか『オチは?』と言われた経験があって、話せなくなった」という人も多い。

 わたしが雑談をしながら話を聞くときは、まとまっていないものをそのまま眺めることにしているので、話してくれた人に「まとまってなくてすみません」と言われると、「まとまっててたまるかよ」と思うのだけど。

相手の意見との違いがあったときにどちらが正しいか決めようとする

 ただ話す、ただ聞く、を交換するのであれば、互いに出したものがちがっても怖くはないのだが、「どっちが合っているか」を決めようとする人がいる。正しさを求めるために会話をするわけではないし、話し手も「間違っているかもしれない」と恐れる必要はないのに。

 相手と意見や考えが違うとき、「わたしはこう思う」「あなたはそう思うんですね」で済まないのはなぜだろうか。人と違うことはよくないことだとされてきたからか。

 小学校で「どっちが悪いか」「どっちが正しいか」でよく口論したり喧嘩になったりしていたが、大人になってもそれを続けている人がたくさんいて驚く。

 意見や見解が違っても互いを尊重し合うことはそんなに難しいのだろうか。何にでもひとつの正解があると思っているなら、そんなわけがないと言いたい。100人いたら100人それぞれに違うのが前提だというところから知る必要がある。

聞きたくない内容だとシャットダウンする

 自分にとって都合が悪いことに耳をふさいでしまう人がいる。「聞いていない」というより、もはや「聞きたくない」とばかりに意図的に閉じている。自分に向き合う習慣がないと、受け入れるキャパがどんどん狭くなり、受け取ることすら難しくなってしまうのだろう。

 嫌な言葉や攻撃は受け取らないというポーズをわざと取る必要もあるが、単に自分に都合の悪いことを受けとらない人に「ちゃんと聞いてくれた」と感じることはない。

間や沈黙を怖がって埋めようとする

 雑談が苦手だという人の中には、沈黙が怖いという人が多い。話す側が怖がることが多いだろうが、聞く側もシーンとした空気にならないようにとにかく間を埋めようとする。

 相槌を必要以上にうつこともある。以前、ファーストフード店で隣の席の二人組の雑談が聞こえてきたとき、ひとりの人の相槌が高速で「うんうんうんうんうん…」と1回につき「うん」を少なくとも8回は連発していて、気になって仕方がなかった。本人にとってはサービスなのだろうが、過剰すぎると話しにくいだろうなと思った。

聞きながら自分の考えがはじまっている

 相手の話を聞いてはいるが、次に何を話そうかと自分の考えが始まってしまうと集中力は半減する。半減どころかもっと減るかもしれない。相手が話し終わったらテンポよく返したい気持ちはわかるが、それよりちゃんと聞いてほしいと思う。

 この、話を聞きながら自分の考えがはじまってしまうことが、その先で、今まで書いてきたような「ちゃんと聞けていない」行動につながっている。

 ちゃんと聞かずに考えを進めてしまうから、聞かれていないのにアドバイスをしてしまうとか、キーワードをつなぐ話題泥棒になってしまうとか、相手の反応を気にしてリアクションの正解を探してしまう。

他のことを考えているから、聞く意識が分散するのだ。

 たとえば、話を聞きながらスマホの画面を見ている場合、意識が話を聞くこととスマホの画面に分散されているのは明確だ。こういうときに話し手が不安になり「聞いてる?」と尋ねると、「大丈夫、聞いてるよ」と返ってくる。半分の意識で聞いているのを「ちゃんと聞いてくれた」とは感じられず、どうにも虚しさや寂しさが残ってしまう。

話の内容に興味を持つのではなく、相手に関心を持つ

 「聞いてもらえた気がしないな」と感じるときに起きていることをざっと書き出してみたが、はじめにも書いたように、わざと聞かないようにしているわけではなく、よかれと思ってしていることが多い。

 「ちゃんと聞いてもらえていない」と感じるとき、不足しているものはなんだろうか。「ちゃんと聞く」をするためには、どうすればいいのだろうか。

 「聞いてもらえていない」と感じるとき、聞き手は集中して聞いていない。よかれと思ってだとしても、他のことを考えたり気にしたりしている。だから、話し手は「自分への関心がない」と感じるのではないか。

 モヤモヤが残る会話に不足しているのが「関心」なのだとすれば、「ちゃんと聞く」ためには「相手に関心を持つ」ができればいい。

 聞き手が話している人にちゃんと興味を向け、関心を持ち続ければ、出た言葉をよく見ようとするし、言葉が出ないときも表情から何かを受け取ることもできる。ちゃんと聞くために、あれはダメ、これをしないと意識するよりも、まずは相手に関心を持つことを意識する。

 話の内容に興味を持てるかどうかではなく、相手が何を考え、何を大事にして言おうとしているのか、その人に関心を向ける。そこが雑談のスタートラインなのだと思う。

 

*次回は、10月16日水曜日更新の予定です。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

桜林直子

1978年、東京都生まれ。洋菓子業界で12年の会社員を経て、2011年に独立。クッキーショップ「SAC about cookies」を開店。noteで発表したエッセイが注目を集め、テレビ番組「セブンルール」に出演。20年には著書『世界は夢組と叶え組でできている』(ダイヤモンド社)を出版。現在は「雑談の人」という看板を掲げ、マンツーマン雑談サービス「サクちゃん聞いて」を主宰。コラムニストのジェーン・スーさんとのポッドキャスト番組「となりの雑談」( @zatsudan954)も配信中。X:@sac_ring

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