第17回 戦後のアメリカで
著者: 井上章一
「玄関で靴を脱いでから室内に入る」。日本人にとってごく自然なこの行為が、欧米をはじめ海外ではそれほど一般的なことではない。建築史家であり『京都ぎらい』などのベストセラーで知られる井上章一さんが、このなにげない「われわれのこだわり」に潜む日本文化の隠された一面を、自らの体験と様々な事例をもとに考察する。
日本びいきの喜劇王
チャーリー・チャップリンは20世紀を代表する喜劇王である。出演した映画は数多く、いくつかの作品は、今なおくりかえし鑑賞されている。もとはイギリスで生まれそだった人だが、のちにアメリカへうつりすんだ。
そのアメリカで、1916年にチャップリンは、ひとりの日本人とであっている 。渡米に人生の可能性をかけた高野虎市と遭遇した 。チャップリンはこの日本人を気にいり、まず運転手としてやとっている 。のちには、自分の秘書とした。
よほど、高野のはたらきぶりがよかったのだろうか。チャップリンは、だんだん日本びいきになっていく。1926年のチャップリン邸には、合計17人の使用人がいた。その全員が日本人であったという。
1931年に、喜劇王は世界一周の旅へでかけている。これには高野も同行した。ふたりは、もちろん、日本にもたちよっている。
東京では相撲を見物し、歌舞伎を観劇した。やはり、伝統的な日本の娯楽に興味をいだいたようである。歌舞伎鑑賞のあとチャップリンは、その楽屋をおとずれた。兄のシドニー・チャップリンもともない、たずねている。1932年5月16日のことである。この訪問記録を、『毎日新聞』が写真におさめている(図1)。両者が、演者の中村吉右衛門(初代)をはさむ構図になっている。

写真中央の吉右衛門は、座布団の上に腰をおとしていた。チャーリーとシドニーの兄弟は、うしろにひかえている。どちらも椅子にすわっていた。この時、シドニーははいていた靴をぬいでいない。楽屋の床は畳じきになっていたが、土足のままあがりこんでいる。
チャーリーの履き物がなんであったのかは、不明である。スリッパめいて見えないわけではない。しかし、この写真だけからそう断定するのは困難である。靴であった可能性も否定しきれない。
いずれにせよ、兄の足先をつつんでいたのは、まちがいなく靴であった。そして、それを弟はたしなめてない。当人じしんは、日本的な生活習慣に気をつかい、スリッパへはきかえていたろうか。それでも、兄の無作法をとがめようとはしなかった。そのまま、笑顔で写真撮影におうじている。
くりかえすが、チャップリンは日本びいきの人であった。来日のころには、おおぜいの日本人をやとっている。とりわけ、秘書の高野には全幅の信頼をおいていた。
しかし、そんな高野らも雇い主に、強くは忠告していない。畳の上を靴で歩くなと、念をおさなかったようである。この旅行には、同行していたのだが。
20世紀初頭のアメリカでは、日本人移民の排斥が展開された。在米邦人の多くは、彼地では目ざわりになる振舞を、さけるようつとめただろう。アメリカ流からの逸脱は、できるだけひかえようとしたにちがいない。おのずと、日本文化への配慮を主人にもとめる気持ちも、弱くなる。この写真からは、邦人たちのひっこみじあんだったろう様子も、読みとりたい。
気になる絵が、一枚ある。「屋上のパーティー」と題された油彩画である。アメリカ在住の日本人、臼井文平が1926年にえがきあげた(図2)。家具木工を仕事とする職人だが、絵もたしなんだ人である。

すまいはニューヨークのアパートにかまえていた。そこは、近くでくらす日本人たちの、たまり場にもなっていたらしい。アパートの屋上でこういう宴席をもうけることも、しばしばあったのだろうか。
興味深いことに、画中の女たちは、みな靴をぬいでいた。その場にひろげられた敷物の上へ、土足ではあがっていない。足先をストッキングだけでつつむ状態になりながら、パーティーへは参加した。彼女らが足からはずした靴も、一足だけだが、描写されている。
いっぽう、男たちは、全員靴をはいていた。日本人だけの無礼講なのに、アメリカ流の生活習慣から解放されようとはしていない。アメリカへきた以上、くらしぶりもアメリカにあわせる必要がある。この考え方は、女たちより男たちのほうを、強くしばったのかもしれない。
太平洋をこえた花嫁たち
戦争花嫁という言葉がある。日本に駐留するアメリカ軍の軍人や軍関係者と結婚する。そして、本国へかえる夫にともなわれ渡米した。そういう日本人女性をさす通称である。敗戦後から、20世紀のなかばすぎごろまでは、そうよばれたらしい。
彼女たちのために、在日米軍はアメリカ生活のマナー講習をほどこすことがあった。図3は、その様子をうつした写真である。アメリカのティー・パーティーになじませる予行演習が、おこなわれている。一種の花嫁学校が、臨時に開設されたということか。

この場にのぞんだ花嫁たちは、靴をはいていた。家のなかを靴履きのまますごす生活になれさせることも、もくろまれたようである。
こういうレッスンもへて、彼女たちはアメリカの家庭にはいっていった。そんな彼女らは、靴のあつかいをどうしただろう。アメリカ流にしたがい、家のなかでも靴をはいたのか。それとも、日本流がすてられず、家では土足を禁じたのか。
ざんねんながら、そういうことをしらべた研究はない。私も、たしかなことは言いかねる。
さいわい、手元に『アサヒカメラ』の増刊号(1980年12月)がある。これが、渡米した日本女性の現状(1980年)をつたえる特集号に、なっていた。なかには、家のなかで撮影された家族の写真もある。そう多くはないが、足先の様子までわかる映像記録も、ふくまれる。
見れば、アメリカ流にあわせ、土足を家のなかでもうけいれたケースが、けっこうある。ミサコ・ゴーディー(図4、P165)やミツコ・ローリー(図5、P169)の場合が、そうである。どちらも、夫は、日本的に見れば外履きと言うしかない皮靴を、屋内でもはいている。
ただ、ミサコもミツコも、フォーマルな外履きにはなっていない。つっかけ、あるいはサンダル履きで、写真にはおさまっている。


たしかに、彼女たちは家庭内での靴履きを受容した。だが、自らの室内履きは軽装ですませている。スリッパなみの履き物なら、屋内でも着用できたということか。家の外では、外出用の履き物にはきかえた可能性もある。そこに、日本的な生活への未練は、うかがえるのかもしれない。
キミコ・ランドルフの家族は、靴をはかない状態で撮影にむきあった(図6、P217)。長男長女のみならず、夫も靴下だけで写真におさまっている。かんじんのキミコは足先の様子がわからない。しかし、こういう家族にあって、日本出身のキミコだけが靴をはくことはないだろう。家のなかで靴をぬぐよう家族をしつけたのは、彼女以外にありえまい。

シズ・ウィリアムズも裸足になっている(図7、P97)。夫はサンダル姿だが、これも一種の室内履きだったろう。シズは履き物をぬがすところまで、夫を調教しきれなかった。だが、日本流をおしとおすようつとめたことは、まちがいない。

おもしろいのは、チヨノ・スカァブローの家族写真である(図8、P131)。長男長女は裸足になっていた。母のチヨノに、そうしつけられたせいだろう。そして、それを夫もよしとした。だが、夫じしんはフォーマルな靴をはいたまま、たっている。アメリカそだちの男は、この点に関するかぎり、日本文化とはおりあえなかったらしい。

不可解なのは、ミツ・バーネットとその娘たちである。図9(P177)を見てほしい。日本生まれのミツは靴をはいている。だが、長女はサンダル履き、そして次女は裸足である。妻はアメリカ流にしたがった。でも、子どもたちには日本流がとどいている。事情説明はできないが、こういうケースのあったことも、きちんと書きとめたい。

いずれにしろ、日本的な履き物のあつかいかたは、アメリカへつたわった。日本出身の妻をとおして、20世紀中盤以後のアメリカに影をおとしている。
それで、アメリカ家庭のくらしぶりが劇的にかわったとは言わない。だが、日本的な生活様式についての情報は、まちがいなくひろまったろう。うちの妻は家のなかで靴をはきたがらないんだ。そんな夫の口吻をとおして、認知度は高まっていったと考える。
話を極東へ転じる。旧満州の日本軍兵は、敗戦後少なからず、ソビエトにとらえられている。彼らは、シベリアでの抑留生活をしいられた。捕虜のひとりとなった高杉一郎に、その記録がある。『極光のかげに――シベリヤ俘虜記』と題され、1950年に刊行された。
ロシア語のできる高杉は、現地の女性、マリヤ・アンドレーヴナと知りあう。彼女の家にも、まねかれている。その家へあがるために、靴の紐をほどきだした時、彼女は彼のうごきをいぶかった。靴ははいたままはいってこいと、うながしている。このさそい文句にたいし、高杉は靴をぬぐのが日本人の習慣だと応答した。
返事を聞き、マリアはおどろく。その場で父に、こうつげた。「おとうさん、日本では誰でも靴を脱いで家に入るのですって」。こういう応酬をへて、日本の生活習慣はソビエトでも、少しは知られたろうか。
ただ、シベリア抑留中にロシア女性と所帯をかまえた日本兵は、ほとんどいない。いっぽう、在日米軍を経由し、アメリカでは相当数の日本女性が家庭をいとなんだ。日本的なくらしぶりを外国へつたえるメッセンジャ―の数量が、圧倒的にちがう。情報の伝達ぐあいでは、アメリカがロシアを、はるかに上まわろう。
おしゃれで知的なニッポン
20世紀のなかばに、アメリカ経済は世界を席巻した。世界大戦でダメージをうけた諸国を尻目に、消費生活の華を謳歌する。
のみならず、そうした資本主義まみれの姿勢に反省をせまる声も、浮上した。のちに、ヒッピーとよばれる人びとの出現をささえたのは、そういう戦後の気運である。
このムーブメントは、アメリカに禅宗のブームをひきおこす。禅的生活、ひいては日本文化へのあこがれめいた気分を、かきたてた。
占領期の日本で、多数のアメリカ人がくらしたことは、すでに記述ずみである。そんなアメリカ人のなかには、帰国後日本文化の精神性をつたえた者もいた。圧倒的な戦勝による精神的なゆとりが、日本文化への肯定的な評価をもたらしたのだろう。まあ、いわゆる知識人たちにかぎった現象かもしれないが。
1954年には、ニューヨークのMoMAという美術館が、日本家屋を設営した。中庭に松風荘という書院をもうけ、日本的な生活様式を喧伝している。『ライフ』や『ヴォーグ』をはじめとするグラフ雑誌も、しばしばこれをとりあげた。
テレビも、けっこうとびついている。そして、松風荘を紹介する番組では、女優の山口淑子が解説役をつとめた。これらをつうじても、土足をきらう日本家屋のくらしぶりは、全米へつたえられたろう。渡米した日本人妻が、しばしば家のなかで靴をぬげた一因も、この啓蒙にあったろうか。
おしまいに、日本熱のさきがけとなったパーティーを、ひとつ紹介しておこう。図10に目をむけてもらいたい。1950年にサンタ・モニカでひらかれた、スキヤキ・パーティーの写真である。主催者は家具デザイナーのチャールズ・イームズ。そして、この席には山口淑子とチャップリンもまねかれた。



この年に、山口はハリウッドでデビューをはたしている。戦前は李香蘭として、中国の映画界にかがやいた。そして、戦後はシャーリー・ヤマグチの名で、アメリカに進出する。チャップリンとは、そこでであった。イームズは日本的な会へ、日本出身の女優と日本びいきの喜劇王をまねいたことになる。
パーティーの場に、イームズは畳と座布団を用意した。そこに、チャップリンたちは正座ですわっている。靴はもちろん、スリッパやサンダルもはいていない。そして、当時はこの光景が、尖端をゆく人たちのつどいとしてうつった。ヒップなパーティーだ。と。
十八年前にチャップリンは、中村吉右衛門の楽屋をおとずれた。畳の部屋へ、靴もしくはスリッパをはいたまま、あがりこんでいる。その訪問とは好対照をなす映像だと考え、披露におよんだしだいである。
*次回は、8月11日月曜日に更新の予定です。
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井上章一
1955(昭和30)年、京都府生れ。京都大学大学院修士課程修了。国際日本文化研究センター所長。『つくられた桂離宮神話』でサントリー学芸賞、『南蛮幻想―ユリシーズ伝説と安土城』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。著書に『京都ぎらい』『学問をしばるもの』『美人論』『関西人の正体』『ヤマトタケルの日本史 : 女になった英雄たち』などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
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- 井上章一
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1955(昭和30)年、京都府生れ。京都大学大学院修士課程修了。国際日本文化研究センター所長。『つくられた桂離宮神話』でサントリー学芸賞、『南蛮幻想―ユリシーズ伝説と安土城』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。著書に『京都ぎらい』『学問をしばるもの』『美人論』『関西人の正体』『ヤマトタケルの日本史 : 女になった英雄たち』などがある。
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