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発酵と生成の「けもの道」 情報技術のオルタナティブ

2025年10月24日 発酵と生成の「けもの道」 情報技術のオルタナティブ

2.「つくりながら書く」

著者: ドミニク・チェン

情報技術には発酵の時間が足りていないのではないか――。代表作『未来をつくる言葉』(新潮文庫)で、ネット時代の「わかりあえなさ」をつなぐ新たな表現を模索したドミニク・チェンが、AIの時代にあるべき情報技術との付き合い方を問う。自身も主要なSNSを断ち、強い覚悟をもって新しい「情報技術の倫理」の可能性を探る。発酵と生成によって切り拓かれるけもの道。はたしてその先にはどんな風景が待ち受けているのか? 

*バナーの画像は、人が発酵中の味噌と対話をするためのMisobot(「発酵文化芸術祭 金沢」の展示風景)

SNSに抱いたジレンマ

 わたしはテクノロジーを研究する者だが、それと同時に多くのテクノロジーサービスの利用者でもある。学生時代から長年、各種SNSを使ってきたが、それら企業の経営方針が受け容れられず、日常生活でジレンマを感じることが年々増えてきた。

 2024年11月には、ドナルド・トランプが合衆国の大統領選で再選された。テスラやスペースX、Xなどを経営するイーロン・マスクは、選挙戦を通してトランプ陣営を金銭的にサポートし、終盤においては一部の州で投票者に懸賞金を配るといった暴挙にも出た。

 2025年1月の大統領就任式には、アップル、グーグル、メタ、マイクロソフト、アマゾン、バイトダンスといった巨大IT企業の経営者たちが勢揃いした。中には過去に第一次トランプ政権を批判した人もいるが、この時は全員が大統領に取り入るために参列していた。そして、イーロン・マスクに至っては祝賀集会にて、感極まった様子でナチス式敬礼を二度してみせた。ドイツの極右政党AfDを支持する彼なりの政治的な秋波だったのだろう。

 この一連の光景を目にしながら、その時点でわたしの中で既に尽きかけていたテクノロジー産業に対する信用は、消滅した。経営者があけすけに差別的かつ独善的な自説を拡散し、自分のAI企業の学習データとして活用するための道具と成り果てたプラットフォームに、もう1ポスト分、1インプレッション分の貢献もしたくなくなった。

 わたしはメタ社の無責任なサービス運営には以前から批判的だった。同社が行った悪名高い情動伝染実験がある。約69万人のフェイスブック利用者を実験対象にし、一週間の間、半分にはポジティブな印象の情報を提示し、もう半分にはネガティブな印象を与える情報を流した。結果として、前者ではポジティブな投稿が増え、後者ではネガティブな投稿が増えた。2014年にこの結果を取りまとめた論文が公開され、すぐに批判が集中した。問題は、事前に対象となった利用者たちの同意を一切取らなかったことだ。ネガティブな情報を提示されたグループの精神衛生を悪化させる可能性があることを考慮しなかった倫理観の欠如が透けて見える。メタ社のプライバシーへの配慮の欠如を象徴するこの事件は、大学初年度の学生に向けた授業でアルゴリズムの社会的な問題の事例として毎年取り上げている。

 2017年には、ミャンマー国軍と急進的仏教民族主義グループによる少数民族ロヒンギャに対する迫害がフェイスブック上で展開された。しかも、内部告発によって、複数の市民団体による警告をメタ社が数度にわたって放置したことが明らかになった。その結果、ミャンマー国内のロヒンギャに対する迫害はエスカレートし、2017年8月には治安部隊によって「掃討作戦」と称される集団虐殺が行われる事態に至った。

 そしてトランプ再選に伴って反DEI(多様性、平等性、包摂性を尊重する民主党の政策を撤廃することを目標とする一連の行動)の機運が高まると、ザッカーバーグはすぐに歩み寄り、「もっと男性らしい攻撃性を称賛する文化が必要」などと有名ポッドキャストで宣い、同社のファクトチェック(フェイスブックやインスタグラムに投稿された政治的な内容のメッセージの第三者機関による事実確認)体制を中止した。

 このような問題を認識しながらも、わたしはずるずるとXやフェイスブックのアカウントを維持していた。なぜなら、個人的につながっていた友人や知人たちの活動を知ったり、文化的、または技術的な動向を追う上で有用だったからだ。利用者が増えるほどサービスの価値が高まるというネットワーク効果を肌身で痛感していた。知人と話しても「信条としては使いたくないけど、なにしろ生活や仕事の根本にまで根を下ろしてしまっていて、他のサービスに移行できない」という人が少なくなかった。またある程度のフォロワー数があり、活動の告知をするために重要なツールとなっている人も多い。攻撃的な言葉が渦巻く場所のなかで、それでも良心的な発信を続けることに意義を見出している人もいる。

 また、大事な友人との接点になっていたり、ゆるいつながりが心の支えになっていたりなど、別の理由でSNSを必要としている人もいる。だから、わたしにはXを使い続ける人を非難する気持ちはないし、ましてやその資格もない。問題はあくまでプラットフォームの経営にあるのだ。わたしのジレンマは、友人知人とのネットワークと情報へのアクセスを人質に取られながら、差別や分断を推し進める経営とガバナンスを許容することができなくなったということに尽きる。

 もう一つわたしが抱えていた葛藤としては、自分の子どももPCやスマホに触れるようになり、SNSの光と影について時折話すようになったことがある。子どもからすると、マスクやザッカーバーグがどれだけ問題のある経営者なのかということをよく口にする親が、それでもXやインスタグラムをしょっちゅう開いてしまっているのを見たら、「そんなものなんだ」とか「それでいいんだ」と思うかもしれない。整合性に欠ける自分が情けないと思うし、別様の可能性があることを信じたいし、それを子どもに示したいという気持ちもあった。

SNSアカウントの削除

 2025年4月、わたしは思い立ってX、インスタグラム、フェイスブックのアカウントを削除した。Xにはその時点で2万人弱のフォロワーがいたが、ほとんど投稿をすることもなくなっていた。時々タイムラインを眺めていても知的好奇心が満たされることはもはやなく、疲れた時に油断すると、無限にどうでもいい情報をスクロールしてしまうなど、精神衛生に悪影響を及ぼす経験しかしなくなっていたので、何も逡巡することはなかった。

 10年以上使ってきたインスタグラムと約20年使ってきたフェイスブックでは、あわせて5000人以上の人たちとのつながりがあり、親しい友人や知人たちとの交流の記録が残っていたので、さすがにアカウントを削除することがためらわれた。

 それでも、それぞれのサービスで最後に投稿したお別れのメッセージには、あわせて千人ほどからの反応や多数の共感的なコメントが集まった。テクノロジーと密接に関わる仕事をしている人も含めて、思っていた以上に多くの人たちが「SNSを止めたいけれども止められない」と表明したことに驚いたが、背中を押してもらったようにも感じた。SNSを止めたくらいで大事な人間関係は壊れないし、壊れるべきではない。そう考えて、データのバックアップを取った後に、フェイスブックとインスタグラムのアカウントを完全に削除した。

 それから半年ほど経ったいま、特に不便は感じていない。それどころか、各サービスのタイムライン閲覧に費やしていた時間を取り戻し、スマホの視聴時間(スクリーンタイム)も如実に減少している。読みたい本を読み、作りたいものをつくり、そして大切な人たちと共に時間を過ごすことに、より時間を割り当てられるようになったと感じる。

 生活リズムの変化が最も顕著に表れたのは、5月11日に開催された文学フリマ東京にブース出展するために、5冊の新刊本を同時に編集し、デザインできたことだ。それぞれの本に載せる文章をつぶさに読み返し、文意が読者に伝わるように組版とレイアウトを調整し続ける。何十時間もの静かだが密度のある時の流れのなかで、疲労が蓄積するのと同時に、体の奥底でふつふつと熱が沸き立つのを感じていた。作り終えた本は、文学フリマ会場で、それまで出会ったことのない多くの人たちに手渡すことができた。5冊の本たちはいまも自宅と作業場の本棚で静かに息づいていて、その紙幅に費やした時間の厚みを湛えているようだ。

文学フリマ東京40に「學*酵」名義でブースを出展した

技術を巡る新しい言葉とは

 しかし、当然ながら、主流SNSを使わなくなることで、テクノロジーが孕む問題を極私的には避けられたとしても、情報技術の秘める可能性からは遠ざかってしまうだろう。ましてや、自分の周りの人びとの状況が良くなるわけでもない。情報技術は、望むにせよ望まぬにせよ、個々人の意志を超えて社会に浸透していくからだ。

 ただ、遠くに旅をすることで普段の自分の立ち位置が浮かび上がってくるように、渦中にあってはわからないことが距離を置いてみることではじめて見えてくる時がある。また、巨大なIT企業を相手にドン・キホーテのように単騎で立ち向かっても敵わないのだとしても、視線の向く先を思いきり私的でミクロな範囲に狭めてみれば、少なくとも自分の生活圏の範囲において別の切り口を見つけられるだろう。

 だから今、わたしが試みたいのは、いまいちど現代の情報技術と和解するための言葉を、その方策と共に紡ぎだすことである。それも、情報技術を投機の対象としてしか見なさず、その人間への影響を顧みようとしないIT産業やビジネスとは全く異なるやりかたで、だ。

 もっと単純な言い方をすれば、テクノロジーを、無意識に隷属するものではなく、わたしたちがよりよく共生するためにつくり、使うものとして捉え直したい、ということだ。そのためには、テクノロジーの使用を止めたり、距離を置いたりという対症療法に満足していては不十分だ。もっと踏み込んで、情報技術が孕む問題と可能性を腑分けする必要がある。そして、テクノロジーの別様の在り方を塑形しながら、そのプロセスを通して技術の意義を語る新たな言葉をつかみとりたい。

 このためにさしあたってわたしがここで採る方法とは、「つくりながら考えたことをすぐに書いていく」というものである。これは一見、当たり前のことのように見えるかもしれない。だが、そうではない。

つくりながら書くということ

 デザインや芸術の紹介にせよ、または研究やビジネスの解説書にせよ、ほとんどの言説は制作が完成してから振り返るかたちで語られる。わたし自身、これまで著書や論文で自分の関わったプロジェクトについて書く時には過去の、一旦は制作の区切りがついたことについて述べてきた。この従来の方法では、過去の出来事と一定の時間的な距離を置いて振り返るため、熟考に基づく省察が可能となる。

 ただ問題としては、ひとつひとつの制作に時間がかかる。そのために途中で生じた思考が記録されづらい。また、事後的にひとつのわかりやすい物語の構造に落とし込む際に、その過程に含まれる多様な気付きがノイズとして捨象されてしまう。

 しかし現在は、主に二つの理由によって、特に情報技術に関連する場合は、つくりながら考えたことをほぼリアルタイムに語ることが可能だし、有効だといえる。

 ひとつめの理由は、生成AIを用いた「ヴァイブ・コーディング」や「エージェンティック・コーディング」といった新しい開発スタイルが、以前とは比較できないほど高速なプログラミングを可能にしているからだ。

 ヴァイブ・コーディングでは、実現したいことのイメージや雰囲気(vibe)をAIに説明してコードを出力させる。それを人間が見て、動かして、さらに修正をAIに要求するという対話的なやり取りを繰り返す。対してエージェンティック・コーディングは、最初に人間が目標をAIに詳細に伝えると、計画から実行と結果の検証までをAIが自動的に行う方式を指す。

 いずれにせよ、AIに「任せる」という開発方法がものすごい勢いで広まっている現状を見ると、ある程度のプログラミングの知識と経験があるなら、ソフトウェア開発に限って言えば実現できないアイデアはないように感じられる。

 そしてもうひとつは、テクノロジーが認知や思考に対して与える影響については統計的な分析が足りておらず、まだよくわからないからだ。このような時、研究者は統計とは異なる方法を採ることがある。それは、小さな規模や人数で起こる事象をつぶさに観察する、ということだ。自然科学のように物的証拠をもって普遍的な事実を明らかにするのとは別のやりかたで、局所的に起こった現象と向き合った人間にとっての真実を明らかにする。(*1)

 SNSアカウントを削除した後にこのようなことを思いながら、わたしは生成AIを用いた高速の開発手法を試しつつ、生成AIの問題と可能性を同時に検証するためのソフトウェアを構築することにした。

 

*1 近年のHCI(ヒューマン・コンピュータ・インタラクション)のようなテクノロジーを用いたデザインの研究分野では、統計分析を多用する工学や心理学に偏重する時代から、徐々に数十人、十数人、そして時には一人の人間が新しいテクノロジーとどのような関係を結ぶのかということを社会学や人類学の方法論を用いて観察し、分析する研究が増えてきた。最近では、研究者が自らを観察の対象とし、主観的なデータを集めて論じるオートエスノグラフィの方法を用いた研究も注目されはじめている。
 もちろんSNSでは、様々な制作物がほぼリアルタイムに投稿され、注目を浴びている。ここでの試みもSNSで発信すれば良いのではないかという指摘も聞こえてきそうだ。しかし、SNSでは一定の時間と文章量をもって省察を行うということは難しい。SNSを使っていると、不特定多数の反応を引き出すために強い刺激やわかりやすさを重視して情報をまとめようという力学が働く。その演劇的な状況においては、少なくともわたしには、自分の思考をまとめるための孤独が担保できない。

 

*次回は、11月14日金曜日に更新の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
 「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
 どうして自分が「考える人」なんだろう―。
 手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
 それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

ドミニク・チェン

博士(学際情報学)。NTT InterCommunication Center研究員、株式会社ディヴィデュアル共同創業者を経て、現在は早稲田大学文学学術院教授。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)Design | Media Arts専攻を卒業後、NPOクリエイティブ・コモンズ・ジャパン(現・コモンスフィア)を仲間と立ち上げ、自由なインターネット文化の醸成に努めてきた。大学では発酵メディア研究ゼミを主宰し、「発酵」概念に基づいたテクノロジーデザインの研究を進めている。近年では21_21 DESIGN SIGHT『トランスレーションズ展―「わかりあえなさ」をわかりあおう』(2020〜2021)の展示ディレクター、『発酵文化芸術祭 金沢』(2024、金沢21世紀美術館と共催)の共同キュレーターを務めた他、人と微生物が会話できる糠床発酵ロボット『Nukabot』(Ferment Media Research)の研究開発や、不特定多数の遺言の執筆プロセスを集めたインスタレーション『Last Words / TypeTrace』(遠藤拓己とのdividual inc. 名義)の制作など、国内外で展示も行っている。著書に『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために』(新潮文庫)、など多数。(写真:荻原楽太郎)


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