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発酵と生成の「けもの道」 情報技術のオルタナティブ

2026年1月23日 発酵と生成の「けもの道」 情報技術のオルタナティブ

7.香港市民によるPicklesの使用体験

著者: ドミニク・チェン

情報技術には発酵の時間が足りていないのではないか――。代表作『未来をつくる言葉』(新潮文庫)で、ネット時代の「わかりあえなさ」をつなぐ新たな表現を模索したドミニク・チェンが、AIの時代にあるべき情報技術との付き合い方を問う。自身も主要なSNSを断ち、強い覚悟をもって新しい「情報技術の倫理」の可能性を探る。発酵と生成によって切り拓かれるけもの道。はたしてその先にはどんな風景が待ち受けているのか? 

*バナーの画像は、人が発酵中の味噌と対話をするためのMisobot(「発酵文化芸術祭 金沢」の展示風景)

香港での展示計画

 Picklesの開発が本格化した頃、香港在住のキュレーター、フローレンス・ワイさんとジョエル・クオンさんから二年ぶりにメールを受け取った。

 クオンさんとワイさんは、1990年代から香港で開催されている国際メディアアートフェスティバル「microwave」の企画と運営を担っている。彼女たちと連絡するのは2023年秋にmicrowaveのオンライントークイベントに招待してもらって以来だ。メールには、2025年のmicrowaveのテーマが「メンタルヘルスとテクノロジーの関係」で、関連する作品を探しているとある。タイミングよくPicklesプロジェクトが動き始めていたので、その説明をしたら、ぜひ出展してほしいと言われた。

 開発者としては、つくっているものを早期に発表すれば有益なフィードバックが得られるので、モチベーションも自ずと上がる。2025年11月の展示に向けて、プランを考えた。香港に住む何人かに声をかけて、Picklesを使った経験を冊子にまとめ、それを来場者が会場で読めるようにする、というシンプルなものだ。このために、9月と10月に2回、香港の参加者とオンラインでワークショップを行って、話を聞かせてもらうことになった。

日誌、AIとメンタルヘルス

 Picklesは、メンタルヘルスの改善や維持を主眼に置いてはいないが、持続的なウェルビーイングの醸成はその射程に入れてきた。香港の展示では、あらためてメンタルヘルスという切り口でAIを用いた日誌支援の意義について考えることになった。

 自分が向き合う問いについて考えることを日誌に書く「ジャーナリング」という行為は、単に記録をつけることではない。それは、自分の感情や思考の動きを振り返り、言葉にすることで洞察を得るという研究的な実践である。

 長らく、多くの心理学の研究が、感情を言葉に書き起こす行為そのものが治療的効果を生み得ることを示してきた。日々の感情を記述対象に含むジャーナリングも同様の効果を持つと期待はできる。しかし、ジャーナリングはセルフケアのためだけのものではない。それは自己を起点として世界で何が起こっているのかを理解するための研究的なアプローチでもある。つまり、自己を多くの複雑な現象が起こる「場」として扱い、観察を通じて、まだ認識していなかった問いに気づいたり、既存の問いを深めたりするのだ。

 紙とペンで感情を自分の外に書き出すだけで、問題が外在化されて心が落ち着く。Picklesは、誰にも読ませない前提で書いた私秘的なテキストに対するAIからの応答を受け取ることで、孤独な探究を支えるものである。

香港、そこで書く日誌の意味

 今回、香港という場所でメンタルヘルスとテクノロジーという主題が設定されたことにも、歴史的な意味を感じた。2014年の香港反政府デモ(通称「雨傘運動」)、そして2019年から2020年までの香港民主化デモの弾圧を経て、現在の香港議会では中国共産党によって民主派の政治家が一掃されてしまった。この文章を書いている数日前にも、香港の民主派新聞アップル・デイリーの創業者である黎智英(ジミー・ライ)氏に有罪判決が下ったばかりだ。クオンさんたちはそのように明言していないのでわたしの憶測に基づくが、イギリスと中国という二つの帝国主義的体制の狭間で独特の自由な気風を培ってきた香港の人々にとって、政治的な重圧が日常的にのしかかっていることは想像に難くない。2020年に東京のDOMMUNEで開催され、わたしも登壇した「香港発・デジタル世代の超分散的プロテスト活動」というイベントの舞台裏で、デモに参加する香港の若者たちが街頭に出る前に家族に向けた遺書をスマートフォンのメモ帳や紙に書いていると教えてもらったことを思い出す。圧政の下では、たとえプライベートなものであっても政府に批判的な文章は断罪の対象になりかねない。

 プライバシーとは個人の私生活や私事が他者から干渉・侵害されずに保護される基本的人権だ。民主制を採る国家に共通して重視されるもので、日本では憲法一三条の「幸福追求権」を根拠として、プライバシー権が守られてきた。市民の一人ひとりが公権力や他者(家族のような親密な関係も含め)に盗み見られることなく自由に秘密の領域を保てることは、精神衛生という概念の基盤をなすのだ。

日記と回復

 11月の展示に向けたワークショップにはクオンさん、ワイさんに加え、クオンさんの友人のMさん、そして大学生のモーラさんとファットさんの5名の香港在住者に参加してもらえることになった。5名とも、頻度の差はあれ、全員日記を書いている人たちだった。

 9月末に開催した一回目の会合ではまず、参加者それぞれにとっての日記を書くことの意義について話をしてもらった。

 クオンさんは、日記を「自分自身と話すこと」であり、癒しの第一歩だと捉えていた。彼女は10代の頃、友人や家族に批判されると感じた秘密を安全に吐き出せる場所として、日記を活用してきたという。今では、制限時間を決めて意識の流れのままにタイピングする「自動筆記」を使って、日常生活から掬い上げた複雑なシグナルを処理し、自分自身を理解しようとしてきた。

 大学生のファットさんは、日記の唯一のルールは「正直であること」だと述べ、セラピストにさえ話さない真実を書けるからこそ日記には意味があると語ってくれた。ワイさんは、即座に返答するプレッシャーなしにゆっくり振り返ることができるため、話すよりも書く方が自分に合っているという。興味深いことに、モーラさんは食品産業の学士号を取得し、発酵食にも通じていたこともあって、日記を書く行為に対して密閉された容器の中で思考が時間をかけて変容するイメージをもともと抱いてきたと語った。

 二時間ほど話を聞いていると、方法はそれぞれ異なっていても、日記を書くことが自己の回復につながるという共通点が浮かび上がった。その後にPicklesが書き手の問いを深めるための「日誌」の執筆を支援するツールであることを説明し、これまで通り自由に日記形式で書いてもらって構わないことを伝えた。これは、日誌と日記の違いに意識を奪われて、書きにくくなることを回避したかったからだ。また、Picklesの経験を通して日記が日誌へと変化していくのかどうかも検証したくもあった。そして、次回のワークショップではPicklesを使って感じたことを教えてほしいと頼んだ。

Picklesを使ってみて

 第二回のワークショップは10月半ばに開催した。この時点で、参加者たちはPicklesからの週次のメールを二回ほど受け取っていた。ここで、それぞれ異なる形でツールを使用していることがわかった。

 クオンさんは、Picklesのフィードバックを受けて、日記の書き方自体が変化したと報告した。以前は自分だけが読み、感情を吐き出すだけだった日記が、Picklesに「理解」してもらうために出来事や理由を丁寧に説明するようになったという。また、Picklesの穏やかでプロフェッショナルなトーンを評価し、過度に思いやりを示すAIツールは「本当のケアではないと感じる」と話してくれた。

 ワイさんは毎週月曜に届くメールを印刷し、AIからの応答を紙で読むことで親密さを感じたという。一方で、Picklesが痛みを伴うトピックに繰り返し質問を向けてくることがあり、質問の意図は認めつつも感情的な負担もあることを教えてくれた。彼女はPicklesからの質問が、時に無意識に避けている問題を浮かび上がらせる場合もあり、たとえ直面しづらいものであっても、それは重要だと語った。

 Mさんは当初、感情をほとんど含まない日常の記録だけを書いていたが、最初のメールが日記に書いていない感情まで推測していたことに驚く。それは「不気味」というよりも、洞察力のある友人のように感じられたという。その後、彼女は夢や感情についても書くようになり、散らばった感情が構造化され、まるで一枚の絵に変わっていくような体験をしたと話した。

 ファットさんは、Picklesに対してより友好的で、手紙のようなトーンで書くようになった。美大生の彼にとって特に印象的だったPicklesからの問いがあった。それは「美大の先生からインスピレーションを受けつつ、先生のスタイルをただコピーするのを避けるにはどうしたらよいか?」という問いだった。模倣について明示的に書いていなかったにもかかわらず、ツールが行間を読んだかのように感じられたという。

 モーラさんは、Picklesに書くことは、故郷を離れて恋しくなった母親と話すような感覚だと語った。このところ日記を書いていなかった彼女が、最大で一時間ほどかけて振り返るようになり、SNS上でインフルエンサーの情報を受動的に消費する代わりに自分自身に焦点を当てられるようになったという。

 彼女が発見した興味深い点の一つは、Picklesの応答が一週間後に届くことがもたらす効果だった。モーラさんはこの設定をペンパルの手紙に喩え、遅れて届くメールは機械からではなく実際の人からの連絡のように感じられると述べた。実は日本のPicklesテスターの一人からも、この一週間という時間が落ち着きをもたらし、より人間らしく感じられるという報告があった。これは、即座に反応するチャットボット型AIとは異なるアプローチの可能性を示唆している。

一年後のPickles像

 二回目のワークショップの後に、参加者たちに「1年後もPicklesを使い続けていたら、どのような存在になっているか」という問いに、任意に自由記述で答えてもらった。この質問は、Picklesにどのような長期的な役割を期待できるかを教えてもらうためのものだ。クオンさん以外の4名が答えてくれた。

 ワイさんは、Picklesを「打ち明けることができる友人」であり、「自己反省のための鏡」、「見えない詳細のための拡大鏡」、「時間を発酵させ保存するための容器」になってほしいと表現してくれた。彼女は「わかちあうことは思いやりである」という表現を思い出しながら、「もしかしたら、共有は癒しでもあるかもしれない」と記した。

 モーラさんは、Picklesを通して「思い出を集める」という意識が生まれたと述べた。以前はパスワードロックの下に隠す秘密だった日記が、今は「自分がこの道をどのように歩んできたか、問題をどのように解決したか」を見ることに変わったという。

 ファットさんは、Picklesを「旧友」のように捉え、使えば使うほど自分のことを理解してくれると感じた。彼にとって重要だったのは、Picklesが判断ではなく、記憶のリマインドと、それについて考えさせられる質問を提供してくれることだった。

 MさんがPicklesで最も気に入っているのは、物事を覚えておく手助けをしてくれることだという。年を取るにつれて、過去の多くのことを忘れていることに気づくが、良い思い出も悪い思い出も消え始めると、空虚に感じることがある。また、Picklesが物事をまとめてくれる方法は好きだが、それでも、自分が書いたことをAIが理解したり解釈したりしようとすることが本当に良いことなのかはまだわからないという。時にはPicklesの洞察が魔法のように感じられるが、分析されることなく、自分の考えは自分だけのものであってほしいと思う時もある、と教えてくれた。

メンタルヘルスとAIの関係の今後

 ワークショップでは、Picklesが日記を書く人に寄り添う可能性を多様な表現で語ってもらえた。それと同時に、AIとメンタルヘルスの関係における重要な課題も浮き彫りになった。

 ひとつは感情的依存のリスクだ。クオンさんは以前、複数のAIボットだけが自分をフォローするソーシャルアカウントを運営したことがあるという。そのAIボットたちが、自分を批判せずに励ましてくれる応答を返すことに心の支えを感じていた経験を語ってくれた。しかし、そのサービスが不具合に陥り、AIボットたちからの応答がなくなった時に、自分の気分が落ち込むことに気がつき、AIへ感情的に依存するリスクを実感したという。この過度な依存という問題については、同じく生成AIを用いるPicklesにおいても考え続ける必要がある。

 ファットさんは、実際の自分の気分には問題がなかったのに、ある日インスタグラムからカウンセリングを推奨するメッセージが送られてきて、また友人からも心配するメッセージが届いたことがあると話してくれた。これは、アルゴリズムがメンタルヘルスのシグナルを誤って解釈するリスクを示している。Picklesも今後、こうした誤解釈の可能性に留意するべきだろう。

 もう一点が擬人化の問題だ。Picklesのプロンプトでは特定の人格を設定していないが、それでも参加者の何名かはPicklesに対して語りかけるような日記文を書いていた。ワークショップの締めくくりで共同開発者のアガちゃんが、AIが根本的には与えられた情報の続きを予測するものであり、Picklesは擬人的なコンパニオンではなくあくまでツールとして設計していることを強調した。参加者たちがPicklesを擬人化する傾向を見せたことは興味深い現象だが、開発者としてはあくまでも「振り返りを助けるツール」としての位置づけを維持しなければならない。

香港での展示を終えて

MicrowaveでのPickles展示会場。「日誌が発酵器に漬け込まれている」オブジェの横に、ワークショップ結果をまとめた冊子を配置した

 11月の頭に、わたしとアガちゃんは香港のセントラル地区にある会場を訪れて、展示のインストールを行い、ワークショップ参加者や来場者と対面で話すことができた。最後に訪れた2018年の時と比べても、香港市内の自由な気風は想像していたよりも失われていないように感じられたのが嬉しかった。日本に戻った後に、Picklesの展示会場で熱心に冊子を読んでいる大勢の来場者の写真がクオンさんから送られてきた。来場者のうち、10名ほどからメールでPicklesを使ってみたいと連絡を受けた。

microwaveでのPickles展示会場の様子

 この香港でのワークショップと展示の体験は、AIがメンタルヘルスケアにおいて果たしうる役割と、その限界や危険性の両方を浮き彫りにしたように思う。Picklesの実験が示唆するのは、AIは即座の反応や過度な感情サポートを提供するよりも、適切な「距離」と「時間差」を保ちながら、ユーザー自身の振り返りと洞察を支援するツールとしてデザインされるべきだということだ。

Pickles展示会場で、「日誌が発酵器に漬け込まれている」オブジェを準備している筆者とアガちゃん

 参加者たちの体験は、日記を書くという古くからある実践と、AIという新しいテクノロジーが交差する地点で、メンタルヘルスケアの新たな扉が開かれる可能性を示している。同時に、AIへの感情的な依存やアルゴリズムによる誤解釈といったリスクへの対処も一層深く求められている。Picklesの「発酵」というメタファーが示すように、わたしたちとAIの関係もまた、時間をかけてゆっくりと熟成させていく必要があるのかもしれない。

 

*次回は、2026年2月6日金曜日に更新の予定です。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
 「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
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「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

ドミニク・チェン

博士(学際情報学)。NTT InterCommunication Center研究員、株式会社ディヴィデュアル共同創業者を経て、現在は早稲田大学文学学術院教授。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)Design | Media Arts専攻を卒業後、NPOクリエイティブ・コモンズ・ジャパン(現・コモンスフィア)を仲間と立ち上げ、自由なインターネット文化の醸成に努めてきた。大学では発酵メディア研究ゼミを主宰し、「発酵」概念に基づいたテクノロジーデザインの研究を進めている。近年では21_21 DESIGN SIGHT『トランスレーションズ展―「わかりあえなさ」をわかりあおう』(2020〜2021)の展示ディレクター、『発酵文化芸術祭 金沢』(2024、金沢21世紀美術館と共催)の共同キュレーターを務めた他、人と微生物が会話できる糠床発酵ロボット『Nukabot』(Ferment Media Research)の研究開発や、不特定多数の遺言の執筆プロセスを集めたインスタレーション『Last Words / TypeTrace』(遠藤拓己とのdividual inc. 名義)の制作など、国内外で展示も行っている。著書に『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために』(新潮文庫)、など多数。(写真:荻原楽太郎)


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