シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

カレー物語

2026年10月7日 カレー物語

11.最後はダール

著者: 稲田俊輔

人気の南インド料理専門店「エリックサウス」総料理長にして、レシピ本から食文化にまつわるエッセイまで文筆家としても活躍中の稲田俊輔さんが、その原点である料理=「カレー」について考える連載です。おうちカレーから南インド料理の衝撃まで、私的な経験をベースにその進化や変遷を語っていきます。「もはやカレーは文化である」を合言葉に、国民的料理の真髄に迫る「活字カレー」の決定版!

カレーマニアの入り口

 ダールとはインドで“豆”を意味しますが、豆を煮込んだ料理もまたダールと呼ばれます。料理としてのダールには様々なバリエーションもありますが、基本的にはごくシンプルで、使われるスパイスも最小限です。

 僕がひとりのマニアとして「インド料理沼」に歩を進め始めた頃、既に首までどっぷり沼に浸かっていたような先輩諸氏から、しばしばこんな台詞を聞きました。

「結局、最後はダールに行き着くんだよなあ」

 この台詞に続けて、もうダールさえあればいいような気がしてきた、とまで言う人もいました。もはや仙人です。

 僕はこの時点では、彼らの言わんとすることがあまりピンと来ていませんでした。なぜなら確かにインド料理は好きになり始めていましたが、ダールのおいしさはよくわかっていなかったからです。むしろ苦手な料理でした。

 人は、よくあるタイプの(それこそオニオングレイヴィ的な)インドカレーに飽き足らなくなった時から、マニアへの道を歩み始めます。まろやかさや食べやすさにはこの時点でうんざりしていますから、先ず求めるのは、とにかくスパイシーで、ビビッドで、エッジの効いた味わいのカレーということになります。スパイシーならスパイシーなほど嬉しく、前回お話ししたような、あくまで汁より肉が主体の、つまりより本場的なカレーを高く評価します。少し懐かしいインド料理マニア用語で「ビシバシ系」というワードがありました。これはまさにそういった要素を満たした料理を指す概念です。

 ビシバシ系の代表は、マトンカレーです。マトンカレーには、ひときわふんだんにスパイスが使われます。よく「マトン肉はクセが強いからスパイスをたっぷり使って臭み消しをするのだ」ということが言われますが、個人的にはこれは少し違うのではないかと考えています。そのことについて書き始めるとどこまでも脱線して戻って来られなくなりそうなので詳しくは触れませんが、なにしろスパイスをしっかり効かせたマトンカレーというのは、大層おいしいものであることに間違いありません。

 そんなマトンカレーの魅力に取り憑かれるあたりまでが「マニアの入り口」といったところでしょう。ここを超えると、少し落ち着きます。視野が広がると言いますか、このあたりでおそらく、ベジの魅力に気が付きます。ベジ(VEG)というのはベジタブルの短縮形ですが、インド料理では野菜料理を意味します。肉や魚介の動物性食材は、ブイヨンなどのダシも含めて一切使われません。ただし乳製品はむしろ積極的に使われます。いわゆる「ラクトベジタリアン」ですね。野菜料理ですから、比較的優しい味付けが中心となります。

 インド料理の「沼」に嵌まり始めた時点では、それらのベジ料理はビシバシした肉系カレーの添え物的な脇役と見做されがちですが、次の段階では、むしろこっちの方が主役なのでは?と気付き始めることになります。

 視野が広がるという意味では、インド各地の地方料理や、パキスタンやスリランカといったインド周辺地域、つまり南アジア全域の料理にも強く興味を惹かれ始めます。と言いますか、それまで漠然とインド料理・インドカレーとして受容してきたものに、地域ごとの特徴を見出すことが楽しくなってくるということですね。

「カンスト」勢の到達点

 そうやって世界がどんどん広く、深くなっていくと、最終的にあることに気が付きます。あらゆる場面で、あらゆる地域で、そこにはひっそりとダールが寄り添っているのです。

 フランス料理やイタリア料理のマニアとインド料理マニアが少し異なる点として、インド料理マニアの場合、色々な店を巡るだけでは飽き足らず、自作に歩を進める率が異常に高いということが言えるかもしれません。そして彼らはなぜかとことん「凝り性」である上に情報リテラシーがやたら高いことが多いので、最終的にはお店一軒出せるレベルで一通りのインド料理をマスターしてしまうことも決して稀ではありません。言うなればこれが「カンスト」の段階です。とことんまで極めました、ってことですね。

 インド料理マニアはよく、参加者を募り、公民館やキッチンスタジオなどを借り切って、インド料理会を開催します。カンスト勢が中心になって料理を作り、カンスト手前の民も彼らの導きで頑張って腕を振るい、そして食べるだけの民も一定数参加します。僕も何度かその種の集いに参加させてもらったことがあるのですが、とにかくそのレベルの高いことと言ったら! またお店のように「ある程度誰からも嫌われないものでなくてはならない」「原価や手間をかけすぎるわけにはいかない」という制約がありませんから、結果的にお店よりおいしいものが食べられることも少なくありません。

 そんなカンスト勢が最後に行き着くのがダールです。ダールは南アジアの日常食ですから、作ること自体は極めて簡単です。ざっくり言うと、豆をたっぷりの水と共にお粥のように柔らかく煮て、そこに最小限のスパイスや香味野菜と塩で味付けするだけ。この時「最小限の」というのは重要なポイントです。それによってダールは、極端な話、一生毎日食べても飽きない料理になるのです。そう思えるようなダールを作れるようになったマニアは、しみじみとこう言います。

「結局、最後はダールに行き着くんだよなあ」

*次回は、10月16日金曜日更新の予定です。

稲田俊輔『お客さん物語』

2023/09/19

レストランは物語の宝庫だ。そこには様々な人々が集い、日夜濃厚なドラマを繰り広げている――。

人気の南インド料理店「エリックサウス」総料理長が、楽しくも不思議なお客さんの生態や店の舞台裏を本音で綴り、サービスの本質を真摯に問う。また、レビューサイトの意外な活用術や「おひとり様」指南など、飲食店をより楽しむ方法も提案。食にまつわる心躍るエピソードが満載。人生の深遠さえも感じる「客商売」をめぐるドラマ!

amazonはこちら。

公式HPはこちら。

この記事をシェアする

ランキング

MAIL MAGAZINE

「考える人」から生まれた本

もっとみる

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき
  •  

考える人とはとは

 はじめまして。2026年7月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、松本太郎と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。

 2002年7月4日、季刊誌「考える人」が創刊されました。

 目次には当代随一の執筆陣がずらりと並び、B5判240ページの誌面の隅々から知の香りが立ちのぼってくるかのようでした。

 当時、入社3か月の営業部員だった私は、見上げるような思いで手に取り、発売日には編集長の松家仁之さんと創刊のご挨拶のために書店にうかがいました。

 まだ書店訪問にも慣れておらず、編集長ともほぼ初対面の中、次のお店の約束の時間に間に合うだろうかと時計ばかりが気になって、終始、そわそわしていました。そんな私に松家さんがやわらかな笑顔で接してくれたこと、そして、新雑誌の門出を祝うようなすっきりと晴れた一日だったことを覚えています。

 あれから四半世紀が過ぎ、ウェブマガジンとして衣替えした今でも、創刊時に掲げられた「Plain living, high thinking(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という言葉は古びていません。AIに尋ねれば瞬時に答えが返ってくる時代だからこそ、それらしい言葉に飛びつくのではなく、自分の頭で考え、心の声に耳を澄ませることの大切さは増しているように感じます。

 創刊号には、養老孟司さんのロングインタビューが掲載されています。養老さんはその中で、恩師である中井準之助先生の口癖だった「人の心がわかる心を教養という」という言葉を紹介しています。

 読んだ瞬間に立ち止まり、さまざまな思いが湧き上がってくるような文章に、楽しみながら出会える場であり続けたいと思っています。

「考える人」編集長
松本太郎

著者プロフィール

稲田俊輔

料理人・文筆家。南インド料理専門店「エリックサウス」総料理長。鹿児島県生まれ。京都大学卒業後、酒類メーカーを経て飲食業界へ。南インド料理ブームの火付け役 であり、近年はレシピ本やエッセイなど、旺盛な執筆活動で知られている。著書に『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分!本格インドカレー』(柴田書店)『おいしいものでできている』(リトルモア)、『お客さん物語』(新潮新書)、『ミニマル料理』(柴田書店)、『異国の味』、『東西の味』(ともに集英社)、『稲田俊輔のおそうざい十二カ月 旬を味わう一汁三菜』(暮しの手帖社)など。

連載一覧

著者の本


ランキング

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき

  • ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら