10. カレーの「汁」
著者: 稲田俊輔
人気の南インド料理専門店「エリックサウス」総料理長にして、レシピ本から食文化にまつわるエッセイまで文筆家としても活躍中の稲田俊輔さんが、その原点である料理=「カレー」について考える連載です。おうちカレーから南インド料理の衝撃まで、私的な経験をベースにその進化や変遷を語っていきます。「もはやカレーは文化である」を合言葉に、国民的料理の真髄に迫る「活字カレー」の決定版!
「肉系カレー」の本質
今回もカレーレシピ本 “The Curry Secret” のレシピをとっかかりにして始めていきます。どんだけこの本が好きなんだよ⁉︎って話ですけど、ええ好きですとも、と開き直っておきましょう。
さて、この本で紹介されるカレーと現代日本で主流なタイプのインドカレーが同系統のよく似たものであるということは、前節まででなんとなくおわかりいただけたのではないかと思います。しかし両者には、決定的な違いもあります。それはカレーにおける「肉の比率」です。
チキンカレーを例にとってみましょう。同書におけるチキンカレーのレシピをざっくり解析すると、肉(加熱済み)と汁(カレーソース)の割合はだいたい1:1です。肉比率50%。しかしこんなに「肉だらけ」のインドカレーは、日本にはそうそうありません。一般的な日本のインドカレー店のチキンカレーだと、肉比率はせいぜい20〜25%といったところでしょうか。
なぜこのような違いがあるのか。その根本には、日本人にとってのカレーという料理の認識が大きく影響していると感じます。
日本人にとってチキンカレーのチキンは、言うなれば「辛くてうまい汁に入っている具」です。もちろんこれはマトンカレーやビーフカレーでも同様です。
しかしインドの感覚は違います。カレーの汁は、肉を調理した際に得られる副産物なのです。
チキンカレーを作る際、最もオーソドックスな工程としては、最初にマサラを作ります。この場合のマサラとは、香味野菜と油、スパイスの混合物です。そしてこのマサラは「肉に味をつける」ためのものです。つまりタレですね。
マサラが完成したら、それと共にチキンを炒めます。炒めるというよりは「油で煮る」という方が適切かもしれません。そのまま加熱を完了させる場合もありますが、大抵の場合は何らかの水分が加えられます。その方が火を通しやすいからです。この加えられた水分は煮込みの過程であらかた蒸発することになりますが、肉の加熱が完了した時点で、鍋の中には、チキンから染み出した肉汁と香味野菜、スパイス、油が混然となった、濃度のある汁が生成されます。
この汁は副産物ではあるのですが、肉そのものを凌駕しかねないほどにやたらめったらうまい。これがチキンを始めとする肉系カレーの本質です。
汁の名は。
インドではこの汁をグレイヴィと呼びます。グレイヴィという英語は本来肉を焼いた際の焼き汁、ないしそれを使用したソースを指しますが、カレーの汁にこの言葉が自然に転用された理由は、ここまで読めば何となくイメージできるのではないかと思います。どちらも肉を加熱調理する過程で得られる(おいしい)副産物、という明確な共通点があります。それを余すことなく利用する、というイメージも共通です。
オニオングレイヴィを使ったカレーは、調理工程を大きく変えることで、調理時間を大幅に短縮しつつ同様の結果を得ようと工夫されたものと言えます。だから肉とグレイヴィの比率も、それをシミュレートしたかのようなものになるわけです。
オニオングレイヴィが日本に最初にもたらされた時代のカレーは、これと同様のものだったはずです。実際、当時から続く老舗インド料理店のカレーは、今でもそのようなカレーを提供していることがあります。
しかしその後、主にネパール人によってより日本人好みに改良されたものは、まさしく「汁(グレイヴィ)が主役で、そこに肉が具として加えられたもの」に変化していきました。オニオングレイヴィがそういう比率のカレーを作るのにもたいへん適していた、ということも言えるでしょう。
前に触れた「うっすらインド」なカレースタンドのカレー、特に名古屋地下街系カレーの、材料と工程自体はインドのカレーとそう大きく違いはなかったはずです。しかし肉比率と油の量は圧倒的に少ないものでした。つまりこれも、「具入りの汁」が最初からイメージされていたということなのではないかと思います。
そういう話を聞くと、読者の皆さんはこう思うかもしれません。
「肉たっぷりなんて最高じゃないか、日本のカレーも全部そうなればいいのに」
しかし案外、それが手放しで歓迎されるとも限らないのです。僕がそれを痛感したエピソードをお話しします。
エリックサウスの前身となる〔エリックカレー〕という店で、初期の頃作っていたチキンカレーは、肉6kgからカレー12kgが完成するレシピでした。ざっと言うと60人前です。肉は煮ると縮みますから、この場合の肉比率は約40%くらいになります。ただしこれは保温しながら販売している内に少し煮詰まりますから、最終的に50%程度にまで近づいていきます。インドカレーとしては概ね標準的ということになるでしょう。その際、肉とグレイヴィをバランス良く盛るのは当然です。鍋が空になる最後、肉とグレイヴィが同時に無くなるのが理想、といいますか、そうでないとあっという間に赤字になります。
しかしそんなチキンカレーを提供していたら、次第にお客さんから「肉少なめ、ルー多めで」というリクエストが殺到するようになりました。それを断るのはなかなか困難です。それだけではありません。スタッフもついつい半ば無意識に最初から、規定より肉少なめグレイヴィ多めに盛ってしまいます。これはクレームを未然に防ぐというだけではなく、自分が素直に食べたい、おいしそうに見える盛り方をした結果ではなかったかと思っています。
結果どうなるかは歴然としていますね。最後鍋の中には、肉ばかりが残ります。60人前取れるはずが50人前で終わり、そして賄いは毎日その肉です。もちろんスタッフには「均等に盛ってロス率ゼロを目指しましょう!」とハッパをかけます。スタッフたちも別にそれを無視するつもりはなかったでしょう。でもなぜか結果は自然とそうなってしまうんですね。
そんなわけで、肉は仕込みの段階から徐々に減らされることになり、最終的には4.5kgとなりました、仕上がりの肉比率としては約30〜35%。インドで許される下限ギリギリ、日本で許される上限ギリギリといったところでしょうか。とりあえずそれが、お客さんが求めるちょうどいいラインだった、ということは言えそうです。
*次回は、10月2日金曜日更新の予定です。
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稲田俊輔
料理人・文筆家。南インド料理専門店「エリックサウス」総料理長。鹿児島県生まれ。京都大学卒業後、酒類メーカーを経て飲食業界へ。南インド料理ブームの火付け役 であり、近年はレシピ本やエッセイなど、旺盛な執筆活動で知られている。著書に『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分!本格インドカレー』(柴田書店)『おいしいものでできている』(リトルモア)、『お客さん物語』(新潮新書)、『ミニマル料理』(柴田書店)、『異国の味』、『東西の味』(ともに集英社)、『稲田俊輔のおそうざい十二カ月 旬を味わう一汁三菜』(暮しの手帖社)など。
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とは
はじめまして。2026年7月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、松本太郎と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。
2002年7月4日、季刊誌「考える人」が創刊されました。
目次には当代随一の執筆陣がずらりと並び、B5判240ページの誌面の隅々から知の香りが立ちのぼってくるかのようでした。
当時、入社3か月の営業部員だった私は、見上げるような思いで手に取り、発売日には編集長の松家仁之さんと創刊のご挨拶のために書店にうかがいました。
まだ書店訪問にも慣れておらず、編集長ともほぼ初対面の中、次のお店の約束の時間に間に合うだろうかと時計ばかりが気になって、終始、そわそわしていました。そんな私に松家さんがやわらかな笑顔で接してくれたこと、そして、新雑誌の門出を祝うようなすっきりと晴れた一日だったことを覚えています。
あれから四半世紀が過ぎ、ウェブマガジンとして衣替えした今でも、創刊時に掲げられた「Plain living, high thinking(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という言葉は古びていません。AIに尋ねれば瞬時に答えが返ってくる時代だからこそ、それらしい言葉に飛びつくのではなく、自分の頭で考え、心の声に耳を澄ませることの大切さは増しているように感じます。
創刊号には、養老孟司さんのロングインタビューが掲載されています。養老さんはその中で、恩師である中井準之助先生の口癖だった「人の心がわかる心を教養という」という言葉を紹介しています。
読んだ瞬間に立ち止まり、さまざまな思いが湧き上がってくるような文章に、楽しみながら出会える場であり続けたいと思っています。
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著者プロフィール
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- 稲田俊輔
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料理人・文筆家。南インド料理専門店「エリックサウス」総料理長。鹿児島県生まれ。京都大学卒業後、酒類メーカーを経て飲食業界へ。南インド料理ブームの火付け役 であり、近年はレシピ本やエッセイなど、旺盛な執筆活動で知られている。著書に『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分!本格インドカレー』(柴田書店)『おいしいものでできている』(リトルモア)、『お客さん物語』(新潮新書)、『ミニマル料理』(柴田書店)、『異国の味』、『東西の味』(ともに集英社)、『稲田俊輔のおそうざい十二カ月 旬を味わう一汁三菜』(暮しの手帖社)など。
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