優等生・池田留吉の「赤門生活」
1913(大正2)年刊行の『赤門生活』(南北社)という本に、東京帝国大学法科大学(いまの東大法学部)の学生の暮らしを描いた小説風の読み物が掲載されている。明治の末期、岡山の第六高等学校を卒業した池田留吉が、上京して新橋駅のホームに降り立ってから東大法科を卒業するまでの物語である。この本の「緒言」に、「本書を書くには六名の学士を煩はした」と記されているので、そのうち誰かの実体験がもとになっているのだろう。主人公の池田は、いかにも東大法科の学生らしく(?)自分より頭の悪い人間を見下しており、そのことを自認してもいる。一緒に上京してきた政治学科の友人、黒澤に対しても「少し頭の悪い人でこつこつ勉強するわりには、そんなによく出来ない。この男はまあ嘘を云つて知らない奴をだまかす位が関の山」と容赦がない。

池田の学生生活は、お決まりの浅草や吉原の見物、日比谷公園の散策、運動会なども出てくるが、基本的には大学の講義と定期試験が大きな比重を占めている。当時東大法科は「学年制」を採用しており、6月(最終学年は5月)に行われる定期試験で1科目50点以上、平均で60点以上を獲得しなければ進級できなかった。たとえば第1回試験では、憲法、民法、刑法(総論)、ローマ法、イギリス法・フランス法・ドイツ法のいずれかひとつ、さらに経済学の試験がある(『東京帝国大学一覧』)。この時期法科大学は4年制なので、池田は4回の定期試験をクリアし、最後の卒業試験に合格しなければ法学士となることはできない。
とくに1年次の試験は緊張と懸命な勉強を強いられる。池田は「全く試験の為めに生きてたやうなものだ」「あゝつまらない、これぢやまるで試験の為めに学校へ入つたやうなものだ」と嘆息するものの、結果は首席で特待生となった。
2年次にはこれもお決まりのごとくビリヤードなどの娯楽にも心を向ける毎日を送るが、ある時大学の掲示板で懸賞論文の募集を知る。「世界の平和」に関する論文である。池田は応募してみることにした。
図書館に行かない優等生
驚くべきことに、池田が東大図書館に足を踏み入れたのは、入学から一年以上経ったこの時がはじめてだった。東京帝大の優等生ともなれば、図書館に籠もって万巻の書を漁る印象がある。だが、必ずしもそうではなかった。池田がいうように、教室で講義を聴いて入念にノートをとり、下宿で試験勉強に邁進すれば話は済むからである。むしろ、興味のおもむくままに書棚を巡り、一冊を手にとって読みふける時間が無駄といえる。前回、関東大震災で東大図書館が丸焼けとなった損失について触れたが、そもそも池田のような人間にとってそれほど必要のある施設でもなかった。
池田自身、自分の勉強について疑問を持たないではなかった。中学でも高校でも優秀な成績を収めているから、勉強は嫌いではない。だが、自分は「学問それ自身のために、学んで居ない」ため、「非常な努力」をする気にはなれない。深く学んでいないので、深く考える力もない。池田はそのことに悩みつつも、「着々勉強」を続けるのである。
懸賞論文の準備で東大図書館にはじめて入った池田は「やはり図書館も要るものだなァ」と感心し、10日ほど執筆の時をすごした。審査の結果は当選で、賞金50円の獲得に成功する。その金は友人たちと芸者を上げて使い切った。
こうして「勉強」を続けた池田は、卒業式で天皇から「賞品」を拝領して学生生活を終えた。恩賜の銀時計である。記述からすると次席卒業のようだ。進路は東大法科に無試験特権が設定されている司法官試補であった。
「点取主義」と「惰気」
池田の傑出した学業成績とその反面の凡庸な生活の記録には、大学批判と自嘲のニュアンスが含まれている。というのは、学士6名によって書かれた『赤門生活』という書物は、「学問のための学問」とかけ離れた東大生の「点取主義」とくに法科のそれを痛罵してやまないからである。
「点取主義は法科大学に於ては卒業後まで続く、競争試験に勝つんだからとか、何とか、法科一流の理屈はいふやうだけれど、それでもその人のあたまのからつぽなのがわかるやうで寝覚がわるい。ことに法科大学の場合には、教へる方にも責任はある。彼等教授ともいはれる人々で試験委員になりたがつたり、学生を教ゆるに受験的に教へたりしてる傾があるんだから。点取主義には勉強が要る。勉強しない人には点が取れない、つまらないこと、その勉強は何にもならないための勉強なんだ」(『赤門生活』)
東大生とくに法科の学生は、パンを得るために点を取る。学校でなるべく高い点を取って、仕事を供給してくれる「パン屋さん」に取り入るためである。彼らの「点取主義」は、結局のところ他人を蹴落とす「我利我利主義」であり、文官試験その他競争的試験を通して卒業後も続く。それが大学という学問の府を侵していることを、『赤門生活』の著者たちは嘆くのである。
彼らが「点取主義の末路」として紹介するのは、天皇機関説批判で知られる憲法学教授の上杉慎吉である。上杉は「学校にゐる中は勉強してもその結果を見てくれる人があつたからよかつたが、出てからの勉強は一向つまらない、誰れにもわかりはしないから云々」と語ったという。上杉ですら勉強の結果が点数で明示された学生時代を懐かしがっているのだから、東大生が「点取主義」に支配されるのは当たり前だ。彼らはそういいたいのだろう。

『赤門生活』がもうひとつ東大の「悪弊」として指摘するのは、「点取主義」の反面の「惰気」の蔓延である。勉強自体を放り出し、野球やボート、テニス、ビリヤード、囲碁、トランプ、カルタ遊びの類にひたすら精を出す学生が多い。上述の池田も2年次にこれらの遊びに耽ったものの、結局は「点取主義」と「惰気」の間をうまく泳ぎながら恩賜の銀時計を勝ち取った。いずれにせよ、『赤門生活』の著者たちがあるべき東大の学風と考えた「真摯」「篤学」とは無縁である。
受験競争の時代
「点取主義」や試験のための勉強を痛罵するこの本が明治から大正に移り変わる時期に書かれたことは、歴史的な意味がある。ちょうどこの時期、受験競争が激しさを増し、高等学校の入学難が社会問題化していたからである。
試験のうち最も苛烈なのは、帝国大学への進学が保証される旧制高校の入学試験である。1908(明治41)年に名古屋の第八高等学校が開設されて以来、高校の数は8から増えなかった。財政難のためだという。にもかかわらず、高校入学志願者数は1911(明治44)年から1918(大正7)年の間に8082名から11833名に増え、競争率も3・68倍から5・22倍に上昇した。最も人気がある高校はいうまでもなく第一高等学校である(吉野剛弘「大正前期における旧制高等学校入試」)。

1886(明治19)年の中学校令では、地方税の支出や補助を受ける(尋常)中学校は一府県につき一校に制限されており、区町村費による設置も認められていなかった。ところが1891(明治24)年の中学校令改正で緩和され、文部大臣の許可があれば各府県に複数の中学校を設立することが可能になった。事情があれば、郡市町村でも設置者になれた。1899(明治32)年の改正では私立中学の設立も認められた。
つまり、高校に進学しうる生徒の数は増大の一途をたどったのに対し、受け入れられる数は増えないという不均衡が生じた。中学校の卒業生は1895(明治28)年の1170名から急激に増え、20年後の1915(大正4)年には20852名に達する。「学校へいけばいくほどさらに上級の学校進学への欲望がかき立てられる」現象が大規模に発生することとなり、高校入試を激化させる要因となった(竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』)。
1918年でいえば、高校志願者11833名のうち合格者は2267名である。大多数の9566名は涙を飲んで諦めるか、来年また来年と合格するまで受験を繰り返すしかない。少年の希望を挫き、いたずらに修学年限を引き延ばすことは、大きな社会的損失と考えられた。
「大正自由教育」の波
東大卒業生ですら「点取主義」に対する批判を強めたこの時期、日本の教育の画一性や詰め込み主義を批判し、「個性の尊重」を呼号する新しい教育の波が生じつつあった。「大正自由教育」「大正新教育」などと呼ばれる教育運動がそれである。私立学校では、中村春二の創設した成蹊学園、澤柳政太郎の創設した成城学園などがその代表例とされる。

東大出の文部官僚である澤柳が私立学校のお粗末な教育とそこから輩出(排出?)される人物を批判したことは、すでに触れた(第12回)。だが澤柳は、私立学校の存在そのものを否定したわけではない。設立者が独自の「教育上の理想」を抱き、その理想を実現するに足る「物質的条件」(資産)を所有し、官公立学校にはない「独特の主義固有の特色」を持つ学校であるならば、現実に存在するかしないかは別にして、意義を認めていたのである(『退耕録』)。そして1917(大正6)年、澤柳は「個性尊重の教育」「自然と親しむ教育」「心情の教育」「科学的研究を基とする教育」を掲げ、成城小学校を創設した。
その澤柳は、入学試験のありかたや試験のための教育にきわめて批判的であった。たとえば高校入試について、「一回の試験がよく各自の能力を正確にあらはすものといふことは出来ない」と評し、生徒を「試験勉強の奴隷」「受験学の達人」にする入試中心の教育を批判した(「高等学校入学試験の集合制度を排す」1917)。
またアメリカや日本の研究を示しながら、答案の採点という行為がいかに不確実で恣意的なものであるかを説き、「成績考査の方法に一大変更を加ふることの必要」「入学試験の上に革新を行ふことの急務」を主張した(「成績の考査について」1921)。
試験嫌いの教育者たち
澤柳は、試験の不確実性や恣意性以前に、青少年を試験勉強に駆り立てること自体が害悪だと考えていた。「試験勉強の弊は今日に於て実に甚だしきものがある。之れが為めに青年の元気を銷沈せしめることは尠なくない。何れも大きな器の人物となることを得ず、伸び伸びしたものとならずしてこせこせしたものになる」(『随感随想』)
また1919(大正8)年、神戸に甲南中学校を創立する平生釟三郎(東京海上常務、のち廣田弘毅内閣で文部大臣)は、教師が「学生を鞭撻する道具」として試験を利用することを禁止した。平生は、学校設立に奔走した時期、現代教育のあり方をこう嘆いたという。
「一生の間において最も貴重なる青年時代の英気を、帳簿と参考書との暗記によりて蕩尽せしめ、年二十五乃至三十にして頭脳体力共に消耗疲衰して、校舎を出ずるの止むを得ざるに至らしめており、それゆえ、大学即ち最高学府の卒業生の多数は「気宇狭小、元気軟弱、人格野卑、単に小理屈を並ぶる小才子にあらざれば半病人のみ」で、実に痛嘆の至りである」(河合哲雄『平生釟三郎』)

成城学園の澤柳、甲南学園の平生の両者が警鐘を鳴らす現代教育の危機とは、試験のための勉強、そして最高学府たる大学ですら継続される詰め込み主義が、国家と社会を牽引すべきエリートを矮小にし、また「半病人」にさえしていることであった。
受験競争の犠牲者
試験偏重教育の弊害は、エリートだけにとどまらない。1914(大正3)年に中村春二らが創設した成蹊中学校の「設立趣旨」は、既存中学校が進学実績を伸ばすために「中以下」の生徒を切り捨てていることを批判する。「智力」の劣る生徒を相手にすると、どうしても授業の進度が遅れる。授業の進度が遅れれば、上級学校の入試に悪影響が出る。したがって合格可能性の高い「上又は中の生徒」だけをターゲットに授業を進めることになる。

「中以下の者は、所謂犠牲にせられて、疎放不親切なる取扱ひをうけ、教へられたる事の大部分は全く咀嚼し得ず、従って学科に対する興味などは起らず、勢ひ記憶力にのみ訴ふる結果、応用の能力頗る欠乏し、半知半解にて、凡ての学科を通過するなり。かの高等専門学校の入学試験を三、四年かかりて猶不合格なるものは多くこの様なる取扱いを受けたるものにて、知識の土台が確かに築かれ居らざるを以て、何度繰返しても失敗するなり」(「成蹊中学校設立趣旨」『成蹊学園六十年史』)
「上又は中の生徒」を確実に進学させるために「中以下」の生徒は教師からネグレクトされ、「半知半解」のまま中学を卒業する。在校中にしっかりした「知識の土台」を作ることができなかったので、その後上級学校の入試を何度受けても失敗を繰り返す。「設立趣旨」はこう指摘する。
そこで、中学教育の「改良」を企てる成蹊中学は次のような方針を立てる。「中以下の成績の生徒を充分親切に教育し、中等教育を完全に授けること」(同上)。
中村春二たちの企ては、試験中心に編成された日本の教育体系に対する異議申し立てなのであった。
「新教育」のもたらすもの
澤柳、平生、中村らの教育批判、とくに澤柳と平生のそれは、すでに見た東大卒業生による大学の「点取主義」や「惰気」への痛罵と強く共鳴する。まだ若い東大卒業生は、内心不満を抱えつつも唯々諾々と敷かれたレールの上を走るしかない。だが、高名な教育者である澤柳、中村、そして財界人の平生は、少なくとも状況に一石を投じうる立場にあった。
だから、彼らは新しい学校を作ることになった。いずれも「個性の尊重」をスローガンに掲げる彼らの学校は、試験の積み重ねによって若者を選別する東大を頂点とする教育体系に対してのアンチテーゼを含んでいた。そしてそれは、日本の教育を根本から変革する可能性を秘めていたのである。
成城、成蹊、甲南といった大正期に設立された学校群は、戦前の社会になにをもたらしたのか。そして、東大的なものに抗して、自己の意志を貫き通すことができたのか――これが次の課題となる。
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尾原宏之
甲南大学法学部准教授。1973年生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本放送協会(NHK)勤務を経て、東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。専門は日本政治思想史。著書に『大正大震災ー忘却された断層』、『軍事と公論―明治元老院の政治思想』、『娯楽番組を創った男―丸山鐵雄と〈サラリーマン表現者〉の誕生』など。 (Photo by Newsweek日本版)
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
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- 尾原宏之
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甲南大学法学部准教授。1973年生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本放送協会(NHK)勤務を経て、東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。専門は日本政治思想史。著書に『大正大震災ー忘却された断層』、『軍事と公論―明治元老院の政治思想』、『娯楽番組を創った男―丸山鐵雄と〈サラリーマン表現者〉の誕生』など。 (Photo by Newsweek日本版)
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