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「反東大」の思想史

2019年12月2日 「反東大」の思想史

第16回 帝大に多様性を持ち込んだ「成城ボーイ」

著者: 尾原宏之

知育の偏重と個性の尊重

 1918(大正7)年、公立・私立の(旧制)高等学校開設を認め、また修業年限を本則7年(中学に相当する尋常科4年・高校に相当する高等科3年)とする(第二次)高等学校令が制定された。この法令によって、日本に4校の私立7年制高等学校が誕生する。
 いうまでもなく高等学校は、東大を頂点とする帝国大学にダイレクトに接続する「予備教育機関」(天野郁夫『高等教育の時代』)としての役割を実質的に担う学校である。私立の学校が制度的に学校体系の最高点にたどりつけるルートを、手に入れたことになる。
 1922(大正11)年に武蔵高等学校(東京)、1923(大正12)年に甲南高等学校(兵庫)、1925(大正14)年に成蹊高等学校(東京)、1926(大正15)年に成城高等学校(東京)がそれぞれ開校した。このうち、甲南・成蹊・成城の3学園は、それぞれ平生釟三郎、中村春二、澤柳政太郎という独特の教育論を持つ人物によって創設されており、甲南幼稚園・小学校、学生塾「成蹊園」・成蹊実務学校、成城小学校という、幼稚園・小学校や各種学校を起源に持つ。甲南、成城の場合は、小学校の卒業生を受け入れるために中学校を作り、中学校の卒業生を受け入れるために高等学校を作る、という発展経路をたどった。

旧制甲南高等学校の1号館と生徒たち(甲南高等学校・中学校HPより)

 前回見たように、彼ら私立7年制高校の創立者たちは、「試験地獄」と評された高校入試をはじめとする受験のための教育にきわめて批判的で、その打破を訴えていた。たとえば、甲南学園の平生釟三郎(東京海上常務)は、「小学校は中等学校の、中等学校は高等学校の、高等学校は大学の予備校と変じ各種学校本来の目的が忘却せらるる」現状や、結果として「凡人」を生み出す「知育偏重」「詰込主義」「画一主義」を批判し、人格教育、健康の増進、個性の尊重といった理念を掲げた(『平生釟三郎講演集』)。これらの理念は、「個性尊重の教育」「心情の教育」を掲げる澤柳の成城小学校、「画一教育」を批判し、「人物教育」を唱えた中村の成蹊実務学校と共通する部分がある。
 だが、「知育偏重」を排して人格教育や健康増進、または個性尊重に重点を置くことは、それほど簡単なことではない。もし彼らの学校が今後とも小学校や各種学校にとどまるならば、独自の理念に基づいた教育を続けることも可能だろう。だが彼らの学校は、帝国大学に直結する高等学校に〈発展〉する道を選んだ。ほとんどの生徒が帝大とくに東大への進学を熱望する以上、彼らの学校も帝国大学の「予備教育機関」を目指すほかはないのではないか。
 だとするならば、第一に問われるべきは健康や個性ではなく、やはり学力である。つまりこれらの私立学校は、「知育偏重」打破という教育理念を掲げつつも、一方でナンバー・スクールをはじめとする官立高校に匹敵する教育を提供しなくてはならないことになる。
 これは、実際のところかなり手強い課題といえる。生徒の「個性」が必ずしも学業に向かない場合、「個性」と学業のどちらを標準として対処するのか、むずかしい舵取りを強いられるからである。

私立高等学校の不良学生

 その実例をあげてみよう。毎日新聞出身のニュースキャスターとして活躍した古谷綱正(1912~1989)である。古谷は成城高等学校の第4回卒業生で、成城第二中学校が東京府下の砧村(現世田谷区成城の一帯)に移転し、高校に改組されていく過渡期を経験した。
 古谷は、尋常科つまり中学のときに「非行」に走った。まずはお決まりの喫煙である。同級生の仲間4、5人と砧の広大な校地の雑木林に隠れてタバコを吸うことを覚え、やがてタバコ屋での万引に手を染めるようになった。喫煙のほうはすぐに担任教師にバレたが処分は甘く、保護者に通知されただけで済んだ。
 そのうちエスカレートして、学校帰りにカフェ−で女と遊ぶことを覚えた。酒こそ飲まないが、ぴったりと隣に座って接待する女給と親しげに話したり、料理を食べさせてもらったり、誘惑されたりという経験をした。まだ中学生、14歳から15歳である。
 そうこうしているうちに「非行」にも飽きてきたが、その間学業は遅れに遅れた。やがて学校に行きたくなくなり、朝になると砧とは逆方向の浅草に行き、映画館に入りびたるようになった。

カフェーが立ち並ぶ夜の新宿(1930年代)

 問題が露見したのは、翌年に高等科への進学を控えた、尋常科4年の2学期である。担任の自宅に呼び出された古谷は、いまのままでは進学が不可能であることを通告され、1年落第するか、進路を変更するかの二択を迫られた。

挽回可能なドルトン・プラン

 ところが、これも許されてしまった。成城高校が採用していた特殊な教育システムを最大限に活用すれば、やりようによってはこれまでの不勉強(無勉強)を挽回できたからである。
 その教育システムとは、アメリカの女性教育者ヘレン・パーカーストによって開発されたドルトン・プラン(ダルトン・プラン)である。ドルトン・プランは時間割にそった一斉授業を廃止し、生徒の自学自習を基礎とするメソッドで、成城小学校の5年以上、成城第二中学校の全学年で採用され、やがて成城高等学校尋常科に引き継がれた。生徒は各自で学習すべき科目を選び、教師のサポートを受けながら進度表にそって教科書や参考書、辞典などを頼りに自学自習を行う。その後、教師の口頭試問を受け、合格すれば学習完了の検印をもらうことができる(『成城学園五十年』)。
 古谷のような生徒にとっては、このシステムが吉と出た。画一的な時間割に基づいた授業ではないので、休み返上で自学自習を続ければ追いつくことが理屈では可能だからである。担任も「なんとか進学させてやろうという気だった」らしく、ひどく遅れている科目は1学期分まとめてテストするようほかの教師に口添えしてくれた。東洋史では『黄河の水』という本を1冊読み、形式的な口頭試問だけでなんと1学年分も及第にしてくれたという。便宜を図ってくれない英語、数学、国語などの科目は、冬休みに入ってから教師の自宅をひたすら訪問してテストを受け続けた。こうして古谷は4年分の科目をなんとかクリアして高等科に進学できたのである(『私だけの映画史』)。

逮捕されても放校にならない

 ところが、古谷の「非行」は高等科になってもおさまらなかった。ただし今度は遊興ではなく、左翼運動である。当初組織にこそ入っていなかったが、逮捕された同級生の処分反対運動に決起したことで、ズブズブ深入りしていく。組織の下働きや秘密機関紙発行などの活動が警察の知るところとなり、検挙され、留置場に入れられた。
 退学は免れたものの事実上停学になった古谷は落第を覚悟したが、ここでもさらに救いの手が伸びた。卒業式の10日ほど前に学校から呼び出され、突如卒業を通告されたのである。登校していないので3年次の2学期と3学期は期末試験すら受けていない。
 それなのに卒業できたのは、放校処分にして反対運動が起こるのも困るし、さりとて復学も困る学校当局の思惑があったのではないか、と古谷は推測する。こうして古谷は再三再四にわたる成城高校の甘く寛大な処分によって実にいい加減な形で高等学校を卒業し、定員に満たないため無試験で入学できた京都帝国大学文学部哲学科美学専攻に潜り込んだ。その回想が誇張なしの真実であれば、古谷は変則的に中学を修了し、高校の3分の1は出席せずに帝国大学に進学したことになる(同上)。

私立高校に対する視線

 成城学園は、澤柳の下で学校の運営にあたった小原國芳によってリベラルな校風が維持されていた。制服や制帽もないので生徒たちは背広とソフト帽で通学し、教師に会えばあたかも友人に会ったかのように「やあ、やあ」と気楽に挨拶した。小原は、生徒が学校当局を批判することを奨励さえしていた(『成城文化史』)。

小原國芳(1887 - 1977)

 官立学校とはまるで異なった、成城をはじめとする私立高校の教育には疑いの目が向けられた。たとえば甲南高等学校の場合、1924(大正13)年7月に東大運動場で開催される全国高等学校リレー大会に出場を申し込んだところ、7年制高校の存在自体知らなかった主催者によって参加を拒否された。正式な高校と認知されていなかったのである。高校として認められていないということは、帝大への進学も認められないことにつながるので、甲南高校は主催者に抗議し、ようやく出場を認められた。甲南の父兄と生徒の間には、卒業後に官立高校と同等に「帝大進入」できるかどうか不安がる声が絶えなかったため、校長の丸山環が文部当局に確答を求める一幕もあった(『甲南学園50年史』)。
 また、成城に関しては、不正転入疑惑もあった。1932(昭和7)年5月16日、東大の学生新聞である『帝国大学新聞』は、地方官立高校1年を修了したのち1年間休学した理科2年の生徒が、4月に成城高校の3年次に転入したことを報じた。1年休学したのに、なぜか転校して進級したのである。『帝国大学新聞』は、官立高校では転校が認められていないこと、成城高校は毎年1〜2名、官立高校の落第者を受け入れていることを指摘し、「平等なるべき官公私立高校にかゝる特別規則の存在を認めることは不当なりとの非難の声が高い」と記事をまとめている。ちょうどこの時期、私立医大や医学・薬学専門学校の不正入試が全国的に摘発されており、文部省は次に私立高校の不正を狙っていると噂されていた。
 制度上は同じ高等学校なのだから、官立で不合格・落第になったのに私立で合格・卒業というのでは、たしかにつじつまがあわない。古谷綱正がもし通常の公立中学から官立高校という進路を歩んだとすれば、まず公立中学で落第、官立高校入試は不合格、高校在学中の左翼運動で放校、と3度にわたって落伍する可能性が高い。古谷は、成城独特のドルトン・プラン、小学校や中学校からエスカレーター式に進学できる「私立」「7年制」という制度、そして個性尊重を標榜するリベラルな校風に助けられ、最後は無試験入学に助けられて、帝国大学に進学できたことになる。

私立高校卒業生と東大

 1926年、甲南高校が最初の卒業生を出したのを皮切りに、私立7年制高校の帝大進学が始まる。創立年は武蔵高校が早いが、甲南は先に中学校を開校していたので、卒業生を出すのが早かったのである。
 甲南は、少人数教育を標榜するだけあって第1回卒業生は43名だった。進路は東大8(法2・薬2・工1・文1・理1・農1)、九大医学部1、金沢医大1のほかは、京大が圧倒的で33名(法6・工4・文3・理6・農1・経13)である(『甲南高等学校一覧』)。京大合格者の過半は、当時無試験入学が通例とされた法学部と経済学部に該当する。
 それ以降成蹊・武蔵・成城と、私立高校の卒業生が続々帝大に進学するが、最初に指摘されたのは、官立高校卒業生の多くが東大を志望するのに対し、私立高校をはじめとする7年制高校の東大受験者の割合が少ないことだった。『帝国大学新聞』は「七年制高等学校が割合に東大志願の少いのはどうした訳か」(1928年4月16日)、「七年制私立の諸校が連年受験者が少いことが特に目に立つ」(1929年4月15日)と報じている。試みに、1927(昭和2)年以降の私立7年制高校卒業生の東大法学部志願者と合格者の数をあげると次のようになる(参考のため、第一高等学校の数もあげておく。ただし生徒数が違うので単純比較はできない)。

1927(昭和2)年 甲南(志2・合0) ※一高(志146・合111)
1928(昭和3)年 甲南(志4・合1) 成蹊(志7・合3) ※一高(志147・合95)
1929(昭和4)年 甲南(志2・合1) 武蔵(志5・合5) 成蹊(志10・合4) 成城(志2・合2) ※一高(志158・合112)
1930(昭和5)年 甲南(志4・合2) 武蔵(志13・合13) 成蹊(志11・合4) 成城(志6・合3) ※一高(志154・合102)
1931(昭和6)年 甲南(志4・合3) 武蔵(志19・合13) 成蹊(志11・合10) 成城(志10・合5) ※一高(志155・合100)
1932(昭和7)年 甲南(志2・合1) 武蔵(志25・合20) 成蹊(志9・合5) 成城(志6・合3) ※一高(志157・合98)
1933(昭和8)年 甲南(志4・合1) 武蔵(志19・合15) 成蹊(志10・合5) 成城(志15・合6) ※一高(志168・合95)

(『帝国大学新聞』各年発表の「高校別本学入学者一覧」による)

 『帝国大学新聞』の東大入試に対する関心は、各高校の合格者数と合格率に集中していた。この点「毎年不振の甲南」(1935年3月25日)を筆頭に、成蹊、成城ともあまりかんばしくない状態であったことがわかる。
 私立7年制のうち武蔵は例外で、1929〜30年には合格率100%を記録し、その後もコンスタントに高い合格率と一高以外のナンバー・スクールに匹敵する合格者を出した。武蔵はほかの3校とは違ってスパルタ式受験教育と厳格な規律、第1回入学定員80名のうち7年後に卒業できたのは38名という容赦のない落第で知られていた(秦郁彦『旧制高校物語』)。また東大合格が危ぶまれる者は、自発的にか強制的にか受験を諦めて「都落ち」しているという説があった(『帝国大学新聞』1930年3月25日)。教頭のち校長の「独裁官」山本良吉が生徒間にスパイを放っているとか、教師が塔上から望遠鏡で生徒の挙動を監視しているという噂さえあった(同1931年4月27日)。

旧制武蔵高等学校(現武蔵大学3号館)(はめす/Wikipedia Commons)

私立学校の変質

 帝国大学進学という旧制高校の至上命令は、古谷綱正のような生徒をたやすく卒業させるリベラルな校風の成城をも徐々に変えていくことになる。卒業生の間からは、入試がふるわず東大においてマイノリティであり続けることの不利が指摘されるようになった。たとえば、成城から東大経済に進学した森島孝は、『成城学園時報』第4号に「(東大)法経にはなるべく多勢で入られた方が全ての点で便宜です 又高等学校からのグルツペ(グループ)があつてなかなか友達を作る事が出来ません 小人数では押され気味です」(1930年3月3日)と寄稿している。
 成城の教育システムや校風にも変化があらわれた。卒業生で同盟通信記者として知られた大屋久寿雄は、昭和初期の学園の変質を次のように語っている。「ダルトン・プランの進度表の代りに時間割が刷つて渡され、時間毎の鐘が高圧的な響きで鳴りわたつた。教師は教室で講義をするものであり、生徒はそれを鵜呑みにするものである、時々は生徒を撲るものである…お前達は成城を出たならば又次に「成城でない」大学へ夫々分れて行かねばならぬ準備期の学生なのである。黙つて必要なだけのことを憶えろ!七年制高校といふ機構がさう無言の抑圧を加へつゝ頑張つてゐるのである」(『成城文化史』)。
 ドルトン・プランの自学自習にかわって時間割による授業が、教師と生徒が親しく対等に語りあう校風にかわって体罰が、そして受験教育が、徐々に浸透していく。
 このような変質は、1918年の(第二次)高等学校令を受けて学園を高等学校に改組することを選んだ時点で、避けがたい運命ではあった。平生釟三郎にせよ、成城学園を指導した小原國芳にせよ、中村春二にせよ、最高学府たる大学を自前で創設することを最終的な目標にしていたといわれている。みずからの学園で教育を完結しなければ早晩理念が危機に瀕することは、彼らも承知だった。だが甲南の場合は、大学設立の発起人にしてパトロンである久原房之助(のち逓信大臣、立憲政友会久原派総裁)の久原商会が第一次世界大戦後の恐慌で破綻し、また伊藤忠兵衛(伊藤忠)ら学園経営に参画する財界人も苦境に陥ったことなどが原因で頓挫した(『甲南学園50年史』)。成城の場合は、「東洋一の大学」を作ることを熱望した小原とは対照的に、保護者からなる「後援会」が大学ではなく高等学校の設立を決議したという経緯があった(『成城学園六十年』)。『成城文化史』は、「私学出身者は何処に行つても官学出身者より低く評価されるのが日本の社会的しきたりで、この陋習が打破されるのは今明日のことではないといふことも既に見透しがついてゐることである」と語る。つまり、社会的評価の低い私立大学になるよりも、帝国大学への「一道程」としてみずからを位置づけたほうがはるかに得策と考えられた、ということである。
 そのかわり、私立高校の卒業生たちは、東大を頂点とする帝国大学をバラエティ豊かなものにするという点で役に立ったと思われる。新宿のデパート嬢をナンパする「エロボーイ」成城、阪神間のモダンな空間でウィンクをする「近代青年」甲南ボーイは、地方官立高校から出てきた学生とは明らかに異質な存在で、彼らの挙動はときに面白おかしく描かれた。とくに、成城はナンパだけでなく学生運動(プロレタリア)もさかんで、さらにエロ学生や左翼学生を憎む反動(テロ)学生の活動も活発だった。この自由な学園の姿は、『帝国大学新聞』によって「エロ・プロ・テロと騒々しい三重奏」(1931年5月4日)と評された。
 成城から京大へ進学した古谷綱正は、大学に対する思想弾圧事件である1933(昭和8)年の瀧川事件に遭遇し、学園闘争の中心人物のひとりとなった。その古谷は、京大における成城高校同窓会が終始闘争をリードしたことを指摘する。「少くとも経済学部、文学部では成城高校は指導的な一員だつた。しかもともすれば引込み思案になる中央部の一部分に対する急進的な反対者であつた」(『成城文化史』)。
 そして、古谷はこういう。「成城時代に暴れ廻つた経験がどんなにかこの事件に生かされたことだつたらう」(同上)。
 成城流のリベラルな教育は、帝国大学に官立高校のそれとは違った新鮮な自由の風を吹き込んだ、とはいえるかもしれない。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

尾原宏之

甲南大学法学部准教授。1973年生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本放送協会(NHK)勤務を経て、東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。専門は日本政治思想史。著書に『大正大震災ー忘却された断層』、『軍事と公論―明治元老院の政治思想』、『娯楽番組を創った男―丸山鐵雄と〈サラリーマン表現者〉の誕生』など。 (Photo by Newsweek日本版)

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