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やりなおし世界文学

2020年2月27日 やりなおし世界文学

(15)配られた人生に恩寵を――ディーネセン 『バベットの晩餐会』

著者: 津村記久子 100%ORANGE

 ノルウェーのフィヨルドの山麓にある、おもちゃのような家が建ち並ぶ町ベアレヴォーに、もう若くはないけれどもとても美しかった姉妹が住んでいた。姉はマチーヌ、妹はフィリッパという。監督牧師の娘である、今もおそらくはきれいな彼女たちのところには、バベットという家政婦がいる。彼女は小説の現在軸から十四年前である1871年にフランスのパリからやってきた亡命者だった。パリ・コミューンで、夫と息子を亡くしたコミューン支持派の女性であるとのことで、本国ではペトロレース(家々に石油をかけて放火して回った女)として逮捕されたがそれを逃れてノルウェーに渡った。姉妹も裕福ではなく、むしろ貧しいぐらいだったけれども、慈悲深くそれを受け入れた。バベットはとても有能で、姉妹は家事から解放され、基本的には好意的にバベットと関わっているのだけれども、底知れないなあと思うようなところもまだ残っている。そしてある時、フランスの宝くじに当選し、一万フランを得たバベットは、信徒たちを集めた監督牧師の百年祭の祝宴に、本物のフランス料理のディナーを作らせて欲しい、自分が費用を出すので、と姉妹に申し出る。
 映画は観ていない。ベアレヴォー(Berlevåg)てどこなんやと調べてみたら、北も北というイメージのあるノルウェーという国の中でもさらに北、北極海に面した北の中の北、という場所で、バベットはパリからとんでもなく遠い場所に逃げてきたのだなということがわかる。バベットは、父の牧師が健在であった頃に姉妹のところに一時的に身を寄せていて、妹フィリッパに恋をしていたアシーユ・パパンという感情過多だけどいい人っぽいフランスの有名な歌手の紹介状を持ってベアレヴォーにやってくるのだが、この遠さを受け入れるということで、いかにパリ・コミューンでの出来事が彼女を傷付けたかということが理解できるような気がする。ナポレオンが流されたセント・ヘレナ島がフランスからどれだけ遠いか(アフリカ大陸のアンゴラより2800キロ西)を具体的に知った時の衝撃を思い出した。
 バベットは姉妹の元で淡々と働く。金銭的な余裕があるわけでもない姉妹の元でうまくやりくりして、ほとんど容易に仕事をこなしているように思える。そこには「余生」というか、本筋の人生をやった後の、更に言うならそれに挫折した後の諦念が漂う。姉妹が彼女の運命について同情の言葉を口にしたときに、バベットは肩をすくめて「そういう運命なのです」と答える。この、無理に活き活きと生きるんでもなく、偏屈になるのでもない、有能な女性の運命に対するクールな態度には、不思議な救いがある。挫折の扱い方を心得ているような知性さえ感じさせるのだ。それでも人生は続き、宝くじが当たるという起伏がバベットの人生に訪れる。バベットの晩餐会には、どうも最近仲違いしがちになっていた信徒たちをはじめ、姉妹の姉マチーヌに若い頃恋をしていたレーヴェンイェルム将軍も訪れる。晩餐会の章はこのレーヴェンイェルム将軍の視点で進行する。
 本書を読んでいると、誰かの選択しなかった人生、というものを強く思い出す。姉妹は若い頃に名誉ある男性たちに恋をされたけれども、それに応えることはなくベアレヴォーで静かに年を重ねてゆく。レーヴェンイェルム将軍は「この世で得ようと努めたものはすべて、ありあまるほどに獲得してきた」けれども、心底幸せではないことに気が休まらない様子だ。バベットと姉妹を仲介したアシーユ・パパンもまた、歌手として成功しながらもっとも愛した人と一緒になることは叶わなかった。亡命者バベットの人生は言わずもがなだ。ワイン、海亀のスープ、ブリニのデミドフ風、うずらの石棺風パイ詰めと食事を進めながら、レーヴェンイェルム将軍は、パリで参列した見事な晩餐会と、それに参列していたガリフェ大佐がシェフを絶賛していたことを思い出し、貧しい牧師の娘たちである姉妹が、毎日優しい心で救いの手を伸ばしているという話を聞く。お互いにうまくいっていない様子だった信徒たちは、すっかり和んでレーヴェンイェルム将軍とも打ち解けている。そしてレーヴェンイェルム将軍はスピーチを始める。
「さて、みなさん、われわれ人間は先が見えないものです。この宇宙には神の恵みがあることを、われわれはよく知っております。しかし、先を見ることのできない人間は、神の恵みを限りあるものと思うのであります」「われわれはこの人生でなにか選ばねばならないときに、だからこそおののくのです。そしてなにかを選んでしまうと、こんどはその選択が正しくはなかったのではないかと怖れおののくのです。しかし、われわれの目が覚まされるときはかならずやってくるのです」。
 選択しなかった人生を受け入れることはとても困難なことだ。最良の選択をしろ、と人間はお互いに迫り、自分は最良の選択をしたと言い張り合う。でもどれだけそんなことをしても、相手にも自分にも満足する人はそうたくさんはいないだろう。バベットの晩餐会を通して、レーヴェンイェルム将軍は、選択しなかった人生と和解し、恋が叶わなかったマチーヌに対して、ある感動的な決意をして去ってゆく。
 国を追われたことを「そういう運命なのです」と言っていたバベットはどうなのだろう。出席者の誰もが自分の人生や周囲と和解するかのように浄化されて帰って行った晩餐会をお膳立てしたバベットは。料理を終えた台所で台の上に座っているバベットは、戦いを終えた後の戦士のように記述される。一万フランを料理にすべて使ってしまった、ということに同情する姉妹に「わたしはすぐれた芸術家なのです。すぐれた芸術家が貧しくなることなどないのです」とバベットは宣言する。彼女は、芸術の力を行使することで、もはや自分の手には届かない自分の夫と息子を殺した「パリの貴族やお偉がた」に対して、間接的な復讐を果たしたようにも思える。胸が詰まる。
 個人的には、バベットが持たされたパパンから姉妹への手紙がとても好きだった。大仰でちょっとおかしな物言いの中に、思いが叶わなかったことの寂寥と、それでもフィリッパと関わることができたことの幸福感が同時にある。追記として書かれている楽譜のページを見ると、とても温かい気持ちになる。一生痛み続ける選択しなかった人生と選択できなかった人生は、日々の暮らしと周囲の人々との関わりの中で、それでも少しずつ石のようなものになってゆく。その過程を、本書は食事という営みを通して教えてくれたように思う。
 併録の『エーレンガート』は、「中年の画家が美しい娘を指一本ふれないで誘惑する」というあらすじを読むと、あー苦手だと即答してしまうのだが、読んでみるとなるほどディーネセンだなという話だった。有能でたくましいバベットに惹かれた人は、美しくたくましいエーレンガートのことも知ってください。

バベットの晩餐会

ディーネセン/ 桝田 啓介 

1992/2/24発売

とにかくうちに帰ります

とにかくうちに帰ります

津村記久子

2015/09/27発売

うちに帰りたい。切ないぐらいに、恋をするように。豪雨による帰宅困難者の心模様を描く表題作ほか、それぞれの瞬間がはらむ悲哀と矜持、小さなぶつかり合いと結びつきを丹念に綴って、働き・悩み・歩き続ける人の共感を呼びさます六篇。

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

津村記久子
津村記久子

1978(昭和53)年大阪市生まれ。2005(平成17)年「マンイーター」(のちに『君は永遠にそいつらより若い』に改題)で太宰治賞を受賞してデビュー。2008年『ミュージック・ブレス・ユー!!』で野間文芸新人賞、2009年「ポトスライムの舟」で芥川賞、2011年『ワーカーズ・ダイジェスト』で織田作之助賞、2013年「給水塔と亀」で川端康成文学賞、2016年『この世にたやすい仕事はない』で芸術選奨新人賞、2017年『浮遊霊ブラジル』で紫式部文学賞を受賞。他の作品に『アレグリアとは仕事はできない』『カソウスキの行方』『八番筋カウンシル』『まともな家の子供はいない』『エヴリシング・フロウズ』『ディス・イズ・ザ・デイ』など。

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100%ORANGE

イラストレーター。及川賢治と竹内繭子の2人組。東京都在住。イラストレーション、絵本、漫画、アニメーションなどを制作している。イラストレーションに「新潮文庫 Yonda?」「よりみちパン!セ」、絵本に『ぶぅさんのブー』『思いつき大百科辞典』『ひとりごと絵本』、漫画に『SUNAO SUNAO』などがある。『よしおくんが ぎゅうにゅうを こぼしてしまった おはなし』で第13回日本絵本賞大賞を受賞。

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