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やりなおし世界文学

2020年3月27日 やりなおし世界文学

(16)旅と尻たたきの果てのカンディード――ヴォルテール 『カンディード』

著者: 津村記久子 , 100%ORANGE

 表紙がいきなりしりを蹴られている人としりを蹴っている人なので、なんだこりゃと思うのだが、読んでみるとまったく偽りはないことがわかる。なんだったら自分が読んできた光文社古典新訳文庫史上、もっとも内容とリンクした表紙であるとすら言える。そして本書は、人生で読んだ中でもっとも主人公がしり叩きの刑に遭う本でもある。わずか十六ページまでの間に、住んでいたお城のお姫様と懇意にしているところが見つかってしりを蹴られて追い出され、その後兵士としてリクルートされ、やはり棒で叩かれつつ仲間から一目置かれるようになり、ある日散歩に出かけると脱走扱いされて連隊全員に三十六回ずつ棒で叩かれるか鉛の弾を頭に撃ち込まれるか選べと迫られるという異常なまでの展開の早さから、ほぼコントを見ているような感覚になるのだが、脚本リリアン・ヘルマン音楽レナード・バーンスタインによるオペレッタ『キャンディード』は本書が原作らしい。
 ツンダー・テン・トロンク城の非嫡出子の若者カンディードは、境遇に染まらず素直な若者に育ち、お城の教育係パングロス先生の「足は靴下を履くためにある。石は切り出されてお城になるためにある。すべては最善である」という教えを信じながら、お城の跡継ぎである若君の妹クネゴンデ姫と過ごす日々に幸せを感じていた。カンディードのことを憎からず思っているクネゴンデは、パングロス先生が茂みでかわいくて愛想のいい召使いパケットと事に及んでいるのを目撃し、それに影響されて自分も衝立の裏でカンディードと事に及びそうになるのだが、それを城主でありクネゴンデ姫の父親の男爵に見つかってカンディードはしりを蹴られてお城を追い出される。折しも世の中は、アバリアとブルガリアという二つの国が戦争を始める直前であった。その後なんやかんやで、カンディードは梅毒に感染して乞食となったパングロスに再会して愛するクネゴンデがブルガリア兵に強姦され腹を刺されて殺されたということを知り、リスボンに渡って大地震に遭い、宗教裁判にかけられてパングロスは絞首刑カンディードはしり叩きの刑、そして実は生きていたクネゴンデと再会し、その後なんやかんやでパラグアイに渡ってブエノスアイレスでクネゴンデと別れ、エルドラドに行って富豪になったり、その財産を出会う人々に詐取されたりした後、本当になんやかんやで最後はトルコにたどり着く。
 もうそのなんやかんやの中身がひどい。クネゴンデ絡みで二回ぐらい人は殺すわ、「実はあの人は生きていた」が三回ぐらいあって、そのたびに一応感動の再会をしつつやっぱりカンディードと利害が一致しなくてぶっすり刺してしまったり、殺したと思ったその人がまた実は生きていたり、最初にパングロスと事に及んでいた召使いパケットがいきなり再登場して知らない修道士といちゃいちゃしていたり、その後修道士もろとも落ちぶれたり、もうめちゃくちゃである。特にパングロス先生は何回死んだことになり何回実は生きていたことになるのか。保証するけれども、本書はほぼギャグ漫画と同じ気分で読める。
 心やさしい素直な若者カンディードは、ヨーロッパの東西から南米の奥地までを渡り歩きつつ、人間の行使するおびただしい暴力を見聞きし、晒され、そして自らも暴力に手を染めながら、ただクネゴンデとの再会だけを望みに長い旅を続ける。興味深いのは、実は生きていたクネゴンデに仕えている実はローマ教皇の娘であるという出自の老婆や、主に南米パートで活躍する従者のカカンボ、カカンボの後任である家族全員から金を盗まれたり殴られたりの迫害を受けた老学者マルチンなど、カンディードに同行する、カンディードよりは地位の低い人たちがだいたい賢明で現実的であることだ。特にマルチンの、「この世界はいったいどういう目的でつくられたのでしょう?」というカンディードの疑問に対する「何だこれは、と私たちを憤らせるためですよ」という返答は心に沁みる。
 それに対して、カンディードが尊敬するパングロス先生は、ほぼ役に立たない上に、まるで大人が不条理な出来事の仕組みを知りたがる子供に向かって何かにつけて「これは運命なのだ」と適当に説明するような思考停止具合で最善説を振り回す。本書の大きな主題は、ヴォルテールが六十一歳の時に起こったリスボン大地震に際しての「〈すべては善である〉とかいうけど、自分たちはこんなもの受け入れないといけないのか?」という強い疑問にあり、パングロス先生の幾多の無神経な発言は、どんなひどい出来事に対しても「すべては起こるべくして起こっている」というポジショントークをしてしまうような勢力を象徴していて、ヴォルテールはそういう側に力一杯「バカ!」と言っているような印象を受ける。本当に力一杯だ。カンディードとクネゴンデや周囲の人々が不条理な暴力や欺瞞に巻き込まれるたびに、ヴォルテールの声量と青筋は増していくように感じる。
 しかし一方に存在するのは「バカ!」としか言えない無力な我々である。できることには限りがある。カンディードは、パングロス先生の言う状況としての「最善」を初めは信じているが、いろいろな出来事に出会ううちになんか違うなと思い始め、最終的には自分なりの「最善」にたどり着くことになる。
 「結末」と添えられた最終章である三十章の地味さは、地味ゆえに特筆に値する。旅で道連れになった人々と地味に農地を耕して暮らすカンディードは、経験相応というか年相応というかで活力はなくしてしまっているし、苦難と労働を重ねたクネゴンデももはや美しくないしがみがみ言う。そんなところに、お金を援助したのに便りもなかった元召使いパケットと修道士ジロフレーのバカップルが落ちぶれて転がり込んできたりして、本当にもうなんなんだろうという感じがする。けれどもふとしたきっかけで、カンディードは静かに息を吹き返す。暴力と偶然に満ちためちゃくちゃな遍歴を経て、恋い焦がれた誰かが元の姿ではなくなっていく事にも接して、カンディードは「やはり畑を耕す」ということにたどり着く。カンディードの周囲の人々もまた、それぞれの領分を見つけて生きていくという結びはなんだか感動的だ。
 「ありうる世界のうちで最善の世界、すなわち、この現実の社会において、できごとはすべてつながっております」という、「バカ!」と反射的に遮りたくなるパングロス先生のいつもの口上が、最後だけは少しだけいいものに思える。そしてカンディードと同じぐらいの波乱に満ちた遍歴をするクネゴンデの強さが印象に残る。姫として生まれたのに守られず、遭遇する物事や男たちに従属しながらも人生を乗り切っていく彼女の姿に、ヴォルテールの公平さを感じた。

カンディード

ヴォルテール/ 斉藤悦則  

2015/10/20発売

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

津村記久子
津村記久子

1978(昭和53)年大阪市生まれ。2005(平成17)年「マンイーター」(のちに『君は永遠にそいつらより若い』に改題)で太宰治賞を受賞してデビュー。2008年『ミュージック・ブレス・ユー!!』で野間文芸新人賞、2009年「ポトスライムの舟」で芥川賞、2011年『ワーカーズ・ダイジェスト』で織田作之助賞、2013年「給水塔と亀」で川端康成文学賞、2016年『この世にたやすい仕事はない』で芸術選奨新人賞、2017年『浮遊霊ブラジル』で紫式部文学賞を受賞。他の作品に『アレグリアとは仕事はできない』『カソウスキの行方』『八番筋カウンシル』『まともな家の子供はいない』『エヴリシング・フロウズ』『ディス・イズ・ザ・デイ』など。

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100%ORANGE

イラストレーター。及川賢治と竹内繭子の2人組。東京都在住。イラストレーション、絵本、漫画、アニメーションなどを制作している。イラストレーションに「新潮文庫 Yonda?」「よりみちパン!セ」、絵本に『ぶぅさんのブー』『思いつき大百科辞典』『ひとりごと絵本』、漫画に『SUNAO SUNAO』などがある。『よしおくんが ぎゅうにゅうを こぼしてしまった おはなし』で第13回日本絵本賞大賞を受賞。

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