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やりなおし世界文学

2020年8月24日 やりなおし世界文学

(21) 涎と悪魔と妄想の規律――コルタサル『悪魔の涎・追い求める男』

著者: 津村記久子 , 100%ORANGE

 

 「よだれ」というのはあまりにも強い言葉なので、小説の中ではめったに使わない、というか使ったことがないように思う。「涎」と漢字にしてみてもその威力は変わらず、一度文章の中に組み込まれると、最低でも前後三行分は何が書かれていても「よだれ」が猛威を振るう。世の中でどういう受け取り方をされているかはわからないけれども、「よだれ鶏」なんて笑顔で踊り狂いながら誤解を呼び込まんばかりのネーミングだと思う。頭の中にはもはや、よだれを垂らして地面に向かって苦しそうにうなだれている病んだニワトリの様子しか浮かんでこない。
 しかしこの文章を書いているうちに、「よだれ」をこれほど言葉として強いと思っているのは自分だけかもしれないという疑念も浮かび上がってくる。おそらくだが、子供の時、それも幼稚園に上がるか上がらないかの年齢の時に、「よだれを管理できているか否か」が子供と赤ちゃんの壁だと強く思いこんでいたことも関係しているように思う。人前でよだれを垂らさない自分は社会化になんとか成功した一丁前の子供であり、よだれを垂らしている者はまだまだ乳母車レベルの未熟で非社会的な赤ちゃんだ、という認識が今でも自分の中で根付いていて、「人前でよだれの話をする。よだれのことを考える」ことを忌避する根拠になっているのかもしれない。
 だからもう、小説のタイトルに「よだれ」が入ることなんてもってのほかだ。世の中の作家さんたちも、がんばって書いた小説のタイトルに「よだれ」を含めることは幸いにしてめったにないのだが、一つだけ知っている。『悪魔の涎』だ。「悪魔」と「涎」のコンボなんて、個人的には醤油の一気飲みと同じニュアンスできついのだが、あらすじを読むと直球でよだれの話であるというわけではないみたいなので読んでみた。
 一言で言って楽しい小説だった。ありがたいことに「悪魔の涎」とはある自然現象の名称であり、小説の中では比喩として使われ、よだれは一滴も垂らされない。というか「よだれ」入り口で読んだことはほとんど忘れてしまうぐらい楽しい短編集だった。最初の「続いている公園」のそっけない短さと不条理な結末を楽しめる人は、引き続き読んだ方がよいと思う。
 不条理ではあるもののでたらめではなく、不条理の中の規律のようなものに忠実な短編は、読んでいると異文化の中で作られた幾何学模様をじっと眺めているような気分になってくる。バイク事故に遭って負傷し入院している主人公が、夜な夜な人間狩りに追跡される夢を見る「夜、あおむけにされて」や、古代の闘技場の人間模様と現代の男女の倦怠感に満ちたやりとりが交錯する「すべての火は火」、劇場で第一幕の感想をたずねられてこきおろすと第ニ幕に出演させられてしまう「ジョン・ハウエルへの指示」、そして「悪魔の涎」は「続いている公園」の物語(現実)と現実(物語)が交差するというコンセプトのさまざま展開と言えるかもしれない。後述するけれども、個人的にものすごく好きだった「正午の島」や、終わらない渋滞に巻き込まれる人々の名称が人なのか車種なのかわからなくなっていく「南部高速道路」にも、「こちら」と「あちら」の比重の壁を取り払ってしまう心地よさがあって、本書の小説はあえて使い古された言葉で言うとだいたい「妄想と現実の区別がついていない」。けれども、幻想や物語に現実と同じだけの力を与えることによって輝く何かを確かに洗い出している。
 「悪魔の涎」は、翻訳の仕事をしているアマチュアカメラマンが、ある公園で見かけた不自然な年齢差のある少年と女を見かけて、彼らについて詮索しながらなんとなく写真を撮影し、文句を言われ、帰宅してからその写真を引き伸ばすと、そこに自分が介入しなかった場合のあり得たシチュエーションが写し出される、という話だ。自分は小説のあらすじが一方通行であることにちょっと不満を抱いていて、選択式のゲームブックを書いたりしたことがあるのだが、「あり得たけれども実現しなかったこと」について表現するのに、こういう手もあったか! と感心した。このアイデアは、いろんな小説家や映像作家の手で見たいと思わせる。
 そして個人的に「正午の島」は、こんな話をずっと読みたかった! と思えた小説だった。スチュワードの男が、自分が担当する路線で毎日正午になると見えてくる小さな島に、いつの間にか肩入れしている。そして実際にそこに行ってみる、という話なのだが、電車で毎日見えるけれども入ったことのない建物に入っていくことを夢想している人ならば、これこれ! と思えるのではないか。べつの島から船をチャーターして行くしか手段がないという島の詳しいスペックは読んでのお楽しみとして、島の住民たちが掛ける魚網が見えないと「侮辱されたような気分になる」だとか、飛行機に乗ったまま漁師に「こんにちは」と言ってしまうだとか、乗り物に乗っている時に通り過ぎる風景へのとらわれを持っている人には必ず強く響く喜びがある小説だと思う。「島が彼を飲み込み、このうえもなく親しみのあるものに変わったので、もはやものを考えたり、何かを選んだりすることができなかった」と主人公の心を説明する記述がすばらしい。自分の夢を誰か親しい人が実現してくれて、その詳しい話を気前よく聞かせてくれているような小説だった。
 先の見えない渋滞につかまる様子が延々と描かれる「南部高速道路」も、嗜好を満たす度合いが高い話だと思う。垂直ではなく水平方向に延びた『ハイ・ライズ』(J.G.バラード)のように、渋滞の中にいる人々が不意にコミュニティを形成していく様子も興味深いけれども、運転手(技師、若い娘、尼僧など)と車種(プジョー404、ドーフィヌ、2HPなど)のアイデンティティが時折混ざり合い、最終的には車種のほうが優位であるかのような記述になってゆくのが、人間が車を運転しているという様子の本質を突いているようでとてもおもしろい。
 他にも、子兎を口から吐き出す奇妙な体質の男が、彼の住居の貸し主であり留守にしている恋人に、自分が吐き出した子兎についての手紙を書く「パリにいる若い女性に宛てた手紙」など、刺さる人には恋のように刺さる小説がひしめいている。解説ではポーについての言及があって、なるほどあちらの「群衆の人」(尾行の話)や「大渦巻への下降」(タイトルどおりの話)を想起させる。解説でのフロイトを引き合いに出した小説の分析を読むと、自分がびっくりするぐらいプロットと文章そのものしか見ていない事に気付くのだが、そういう表層的な楽しみ方でも、本書はぜんぜん楽しく読める。

悪魔の涎・追い求める男 他八篇

木村榮一 訳

1992/7/16

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松村 正樹

著者プロフィール

津村記久子
津村記久子

1978(昭和53)年大阪市生まれ。2005(平成17)年「マンイーター」(のちに『君は永遠にそいつらより若い』に改題)で太宰治賞を受賞してデビュー。2008年『ミュージック・ブレス・ユー!!』で野間文芸新人賞、2009年「ポトスライムの舟」で芥川賞、2011年『ワーカーズ・ダイジェスト』で織田作之助賞、2013年「給水塔と亀」で川端康成文学賞、2016年『この世にたやすい仕事はない』で芸術選奨新人賞、2017年『浮遊霊ブラジル』で紫式部文学賞を受賞。他の作品に『アレグリアとは仕事はできない』『カソウスキの行方』『八番筋カウンシル』『まともな家の子供はいない』『エヴリシング・フロウズ』『ディス・イズ・ザ・デイ』など。

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100%ORANGE

イラストレーター。及川賢治と竹内繭子の2人組。東京都在住。イラストレーション、絵本、漫画、アニメーションなどを制作している。イラストレーションに「新潮文庫 Yonda?」「よりみちパン!セ」、絵本に『ぶぅさんのブー』『思いつき大百科辞典』『ひとりごと絵本』、漫画に『SUNAO SUNAO』などがある。『よしおくんが ぎゅうにゅうを こぼしてしまった おはなし』で第13回日本絵本賞大賞を受賞。

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