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やりなおし世界文学

2019年8月27日 やりなおし世界文学

(9)「高さ」により野生化する人々――バラード『ハイ・ライズ』

著者: 津村記久子 100%ORANGE

 人は高い建物が好きだ。全部住居とか全部オフィスとかがっかりだ、もっといろいろ入居してくれ、などと注文をつけたりするけれども、わたしもその一人なのだと思う。興味が高じて高層建築物に関する本を最近読んだのだけれども、なんでニューヨークにあんなに高層ビルがあるのかについて「横方向へのフロンティアがいったん終了したから、今度は高さを求めるようになった」と説明されていたのが興味深かった。本書にはその心情の部分が、最上階である四十階へと階段で上ってゆく二階の住人を通して説明されているようでもある。
 最初から最後まで四十階建のマンションの中の話である。始めに言っておくと、小説の中で犬がすごく死ぬので、他の部分はともかくとしてそこは受け付けなかった。けれども、高層階の住民たちの飼い犬である百匹の犬たちが殺害されてゆくことは、高層マンションという舞台装置の中で、人間と犬が動物としてそう隔てられていなかった時代へと住民が野生化していくことの象徴のようにも思えた。
 タワマンという略語が普通に使われている時代に四十階建のマンションといっても、もしかしたら珍しいものではないのかもしれないけれども、焦点は階数ではなく、縦方向に広がった土地とそのそれぞれの階の住民たちが、垂直に住んで行き来することで生じ、際限なく深まってゆく混沌をバラードが描き切っていることにある。マンションは四十階建に一千戸が入居している。住民は二千人。住民たちは皆、生活にゆとりのある専門職の人間とその家族。十階にはスーパーマーケットやヘアサロン、プール、トレーニングジム、銀行、小学校があり、三十五階には小型プール、サウナ、レストランがある。要するにマンション自体が一つの街なのだが、通常は水平に展開している街が、エレベーターで垂直に接続されることにより、さまざまな問題が見出されることになってしまう。端的にはエレベーターの故障や空調の不調、そして停電といった建物そのものの欠陥が露呈してくることによって住民が不満を抱き始めるのだが、それだけではなく、上の方に住む、下の方に住む、ということで住民がお互いに格差を作り出し始める。明確に「ある」というよりは、意識的に作り出し始めるのが興味深い。始めはやんわりとした、それぞれの階層に多い職業ってあるよね程度の違いだったのが、だんだんと徒党を組んでいがみ合うようになり、しまいには部族間闘争のような状態へと、住民たちは望んで突入してゆく。
 不謹慎かもしれないけれども、マンション内での住民同士の小競り合いに関する無数のアイデアは本当に楽しい。二千人という巨大なある種のクローズドサークルの中で、人々は可能な限りの理由を付け合って罵り合いいがみ合う。プールで下層階の子供たちが小便をしていると主張し、子供たちを閉め出そうとする男、マンション内で売春が行われているという噂、駐車場の高級車の上にわざとソフトドリンクを注いで汚す粗相、住民同士で作ったブルーフィルムの上映会、家にしばられた主婦や外へ出ない娘たちは、刺激を求めて建物内のエレベーターや廊下を放浪しては酔っぱらった集団につるしあげられ、小学校には何者かが押し入って子供たちの描いたポスターをひっぺがす嫌がらせをする。個人的にもっとも好きなのは、各グループがエレベーターを守るためにロビーに見張りを立て、音響戦争の武器としてラジオを用意し、カメラとフラッシュを持って敵対行為と領土侵犯を記録しようと身構えている、という話だ。これをいい大人たちがやっているというのがばかばかしくて仕方がないのだが、同時に人は、自分の生活のためにはこの程度にはむきになるというリアリティもある。
 階層間の闘争に興じるうちに、住民たちは急速に現代人としての生活を放棄してゆく。暴力と狩りのような略奪が横行し、一夫多妻が幅をきかせるようになる。衛生観念は低下し、食事もちゃんと摂らず、部屋はぐちゃぐちゃなのにバリケードを作る時だけはいきいきとして、誰もが自分の所属する階数を顔に表示するようになる。いいかげんこのあたりで、衛生技師が見回りに来るのだが、入居者からの正式な苦情申し立てがない限りはどんな措置もとられることはないという。住民たちは、自分たちの抗争を守るために結託し、万事異状はないと介入を阻む。管理人は病んで店舗の従業員たちはとっくに逃げ出している。
 最初は自分たちの生活を守るために戦っていたのが、いつの間にか戦うことそのものが目的になってゆく。そこには他人と心おきなく争い、野蛮になることの喜びのようなものがある。住民たちにとって、四十階建の高層マンションは新しいジャングルだったということなのだと思う。その変化が「ゆとりのある専門職」とされる集団によって演じられるということは、人間の本能が社会的なペルソナを凌駕してしまうこともある状況を象徴している。
 自宅で抗争を繰り広げながら、ある段階まではなぜか出勤していく人々の記述がとてもおかしく感じられて、いやなんか食べたいなら仕事先の近くの店で買ってきたらいいだろう、と何回も思いつつも、マンションの中ですべてを満たす行動がある種の生物的なプライドにつながっているということも理解できる。最初の登場人物であるラングは、同じマンションに住む姉のアリスと、自分を生きたまま猫に食わせようしているところを連れ帰った映画評論家のエリナと同居しながら、女二人を意のままにできること、彼女たちを襲撃者から守りながら、おのれの自主独立、耐久生存能力に自信が持てることに「いまほどしあわせだったことはない」と感じるようになる。自分の人間としての剥き出しの力が試されることに喜びを感じ始めたからこそ、住民たちは自ら望んでマンションから出ていかず、その中で野生に返っていったのだと思う。
 自分ならすぐに出て行くよこんなところ、なんでこんなむきになるんだ、と呆れつつも目が離せない。そういえばこの文章を書いている最中、買い物に出かけた時に、夜なのに無灯火でスピードを出して歩道を走っているママチャリとすれ違って危なかった。わたしと同い年ぐらいの会社員風の男の人で、イヤホンを両耳に入れていた。自分は壮年の男で歩道で乗り物に乗ってて、何を気遣うことがある? という態度に見えたので、自分とあの人がこのマンションに住んでいて停電でもしたら、自分は闇に乗じてあの人を一発ぐらいはポカリと殴るだろうなと思った。そういうなにげない日常の怒りがいったいどこまで垂直に伸び、どの深さまで本能を穿つのかを、本書は想像の及ぶ限界の範囲まで描いているように思える。

参考:『高層建築物の世界史』大澤昭彦(講談社現代新書)

ハイ・ライズ

バラード/  村上博基 訳 

2016/7/10発売

とにかくうちに帰ります

とにかくうちに帰ります

津村記久子

2019/11/21発売

うちに帰りたい。切ないぐらいに、恋をするように。豪雨による帰宅困難者の心模様を描く表題作ほか、それぞれの瞬間がはらむ悲哀と矜持、小さなぶつかり合いと結びつきを丹念に綴って、働き・悩み・歩き続ける人の共感を呼びさます六篇。

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考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

津村記久子
津村記久子

1978(昭和53)年大阪市生まれ。2005(平成17)年「マンイーター」(のちに『君は永遠にそいつらより若い』に改題)で太宰治賞を受賞してデビュー。2008年『ミュージック・ブレス・ユー!!』で野間文芸新人賞、2009年「ポトスライムの舟」で芥川賞、2011年『ワーカーズ・ダイジェスト』で織田作之助賞、2013年「給水塔と亀」で川端康成文学賞、2016年『この世にたやすい仕事はない』で芸術選奨新人賞、2017年『浮遊霊ブラジル』で紫式部文学賞を受賞。他の作品に『アレグリアとは仕事はできない』『カソウスキの行方』『八番筋カウンシル』『まともな家の子供はいない』『エヴリシング・フロウズ』『ディス・イズ・ザ・デイ』など。

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100%ORANGE

イラストレーター。及川賢治と竹内繭子の2人組。東京都在住。イラストレーション、絵本、漫画、アニメーションなどを制作している。イラストレーションに「新潮文庫 Yonda?」「よりみちパン!セ」、絵本に『ぶぅさんのブー』『思いつき大百科辞典』『ひとりごと絵本』、漫画に『SUNAO SUNAO』などがある。『よしおくんが ぎゅうにゅうを こぼしてしまった おはなし』で第13回日本絵本賞大賞を受賞。

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