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「反東大」の思想史

2020年2月28日 「反東大」の思想史

第19回 京大生・瀧川幸辰の「大いなる不満」

著者: 尾原宏之

東大の「滑り止め」?

 1910(明治43)年、いまの東京大学法学部、当時の東京帝国大学法科大学で、初の入学試験が実施されるとの噂が広まった。『読売新聞』(7月2〜3日)は、この年500名の収容定員に580名の志願者が殺到する見通しとなったこと、8月31日に入学試験を実施する方針が固まったことを報じている(第一学期は9月11日から開始)。
 『東京大学百年史』に、東大法科が6月に試験科目(第一外国語欧文和訳)の委員と実施日(8月31日)を決定し、あわせて志願者の超過が20名以内の場合には試験を行わないことなどを決定した、とある。『読売新聞』の記事は、この東大内部の動きを受けてのものだろう。
 7月3日の『読売新聞』コラム「編輯室より」は、大学の収容能力に対する文部当局の「楽観的態度」に苦言を呈しつつ、このころ明らかになりつつあった大学進学問題についていくつか重要な指摘をしている。
 第一の指摘は、帝国大学全体として見れば、依然として進学希望の高校卒業生全員を試験なしで収容できる余裕はある、ということである。京都、九州、東北の各帝国大学はすでに開校していた。「東大に溢れたるものは之を京都に移し、福岡に運び、若は東北に送るを得べし」とするならば、たしかになんとかなる。
 だが、政治や法律を学びたい者を突然医者志望にできないことからもわかるように、各大学・各学科間で志願者を融通できるわけではないことも、このコラムは指摘する。たしかに、東大法科を希望する者は、政治の中心地である東京に所在し、政官界に圧倒的支配力を持つ「東大」の「法科」だからこそ進学したいのであって、たとえば当時理系しかない九大の定員に余裕があるからといって進路を変更するはずがない。帝国大学だったらなんでもいい、というわけにもいかないのである。
 次に重要なのは、この記事が「東西両大学の差別」に言及していることである。「東西両大学」とは、いうまでもなく東大と京大を意味する。「幸に目下京都大学の収容力は、東大の落選者を包容して余り有る」

京都帝国大学

 当時の京大は、志願者が殺到するわけでもなく、定員には余裕があるので、東大不合格者を収容することができる、ということである。
 事実、京大にも法科があるから、東大法科を滑った者は京大に収容してもらえばよいと考えることはできる。京大法科のち京大法学部は、昭和初期まで旧制高校からの志願者をたとえ定員を超過しても選抜せずに受け入れており、「無試験王国」と呼ばれることもあった(『京都帝国大学新聞』1930年2月21日)。1930(昭和5)年、京大法学部に定員を大幅に超える志願者が押しかけて入試が行われた際には、東大の『帝国大学新聞』までもが「京大の法学部も今年は試験がある」と大きく報じたほどである。すでにみたように、大正末期に新設された甲南高校などの私立7年制高校の東大入試実績は一部を除いて振るわないことが多かったが、そこで見出された活路は、無試験の京大であった。
「無試験王国」の京大、というと、現代の日本社会では違和感の強い表現である。京都大学といえば東大と並び立つ大学であり、湯川秀樹はじめノーベル賞受賞者の輩出が話題になる名門中の名門である。ガリ勉型と評される東大を嫌い、「天才」を育てる自由な気風に憧れて京大を選ぶ受験生も多い。
 ところがこの『読売新聞』コラムは、京大を東大不合格者の「滑り止め」校として扱っている。京大側はこういった扱いをどう感じていただろうか。仮にも相手は東大である。やむなく受け入れていただろうか。

三高生の苦悩と野心

 『読売新聞』の報道から2年後の1912(明治45・大正元)年、京都の第三高等学校から京大法科に進学した人物に、刑法学者でのちに京大教授となる瀧川幸辰(ゆきとき)がいる。戦前の大学を襲った最大の弾圧事件のひとつ、瀧川事件の(悲劇の)主人公として知られる。

瀧川幸辰(映画『日本の悲劇』〈1946年・亀井文夫監督〉より)

 事件によって大学を追われた瀧川は、1935(昭和10)年、みずからの法科大学一回生時代を回顧する「京大法科一回生」という文章を『京都帝国大学新聞』(5月6日)に寄稿した。瀧川は、明治末年ごろから東大の定員超過傾向がひどくなってきたこと、東大法科の入学試験が三高の同級生に大きな影響を与えたことなどを回想する。
 瀧川によれば、東大法科の入試実施によって、三高の同級生の多くが京大ではなく東大を志望するようになったという。いうまでもなく三高は京大の有力な人材供給源である。いつもなら一クラス約40名程度のうち15名は京大法科に進学するのに、瀧川のクラスの京大志望者はわずか4、5名にとどまった。
 なぜわざわざ入試のある東大法科に挑むのか。瀧川の説明はこうである。無試験で京大に進学してしまうと、周囲から「あいつは東大の入学試験を逃げた」と思われてしまい、一生引け目を感じることになる。同級生たちはそのことを恐れた、という。
 現在の大学入試では定員厳格化によって合格ラインが上昇し、受験生が積極的に志望校のランクを下げる傾向にあるといわれているが、そこはさすがに旧制高校生である。同世代でも一握りのトップエリートは、難関の入試に挑み、突破することでみずからの優越を示そうとする。引け目を感じて萎縮するような生き方はまっぴら御免、ということだろう。
 結果、瀧川の親しい友人の多くは、東大に進学することになった。三高に隣接する京大に進学した瀧川は、「隣りにある大学に入学しながら、島流しにでもなつた様な淋しさを感じた」という。三高の同級生のなかには東大入試に失敗した者も4、5名いた。彼らは結局、第二次入学で京大法科に進学することとなった。『読売新聞』がかつてそう指摘したように、京大には「東大の落選者を包容」する役割が与えられたのである。
 もっとも、東大側にも配慮があったようである。東大法科は入試科目を外国語和訳のみに限定していた。その理由は、もし全科目で試験を実施して合否を決定すると、総合学力が劣る人物を京大に押しつける形になってしまい、まるで京大が「劣等生収容所」のように見えてしまうことを懸念したからだという(『読売新聞』1910年7月3日)。

瀧川幸辰の不満

 瀧川は、東大法科に落ちた三高同級生が第二次入学者として京大にやってくることに、強い不満を感じた。
 「落第した友人を毛嫌ひするわけではないが、試験によつて及落を決定する限り、落第者、従つて落第者を入学させる京大が、世間から劣等視せられることはやむを得ない。折角この大学を選んで入学したのに、東大入試に落ちた連中と同列に置かれることは当時甚だ心外であつた。僕には大学自らが自己の地位を低めてゐるとしか思はれなかつた。これは僕一人の不服ではなく、当時の僕達の輿論であつたというてよい。(僕自身京大法科の職員となつた後も、何故にその昔落武者を無条件に収容したか、の理由は遂にわからずに終つた)」
 東大不合格者を無条件で受け入れることは、京大がみずから進んで東大の下位に座ることを意味する。京大に魅力を感じ、主体的に京大を選んだ瀧川からすれば、耐えがたい屈辱だっただろう。
 瀧川が京大を真のエリート校たらしめたいと考えていたことは、京大に感じていた第二の不満からも明らかである。その不満とは、京大が「傍系学生」を入学させていることである。「傍系学生」とは、専門学校卒業生など、帝国大学への「正系」ルートである旧制高校以外からの入学者を指す。多様な年齢層と出自の学生が学問に強い情熱を抱いて集まるので、その存在を好意的にみる向きもあった。たとえば、瀧川と同時期に京大に学んだある学生は次のように述べている。
 「文科の学生には、年長者が混じて居る。これは京都大学が門戸を開放し、高等学校以外の学校出身者をも入れて居る結果で、これ等の人々は三十歳以上のものが多く、四十歳以上のものも珍らしくはない。高等師範、早稲田大学、外国語学校等の卒業生も来て居るが、中には高等女学校の校長をして居たといふ人もある。高等学校の出身者は、他の学科の学生と同じく一般に年齢は若いが、多くの老人株が混じて居るから、京都大学で最も話気に乏しいのは文科の学生である。その代り、学課の勉強の方は大熱心で、とても他の学科の学生の及ぶところではない」(『赤門生活』)
 瀧川も「傍系の人達は概して勉強家である。秀才も少くない。この意味において傍系学生の質はわるくない。否、成績といふ観点から見れば高校出よりも良好であるとさへいひ得る」と、「傍系学生」の質の高さは認めている。しかし、にもかかわらず、「理論的根拠はない」が彼らの存在を「快く思はなかつた」という。
 どこの馬の骨とも知れぬ初老の篤学者や基礎学力も怪しげな専門学校卒は、「正系」たる旧制高校卒業生からみれば明らかにエイリアンである。難関中の難関である旧制高校入試を突破し、高等普通教育を身につけたエリートがそういった連中と一緒に学んでいるようでは、とても東大に匹敵する質を備えた大学になることはできない。若き瀧川には、そういう思いがあったのだろう。

京大の原イメージ

 瀧川の東大への強い対抗意識は、彼ひとりだけのものではなかった。そもそも京都帝国大学とは、「京都の土地に「二番目の帝国大学」ではなく、一番目の帝大に対抗する新たな大学を作り上げよう」(潮木(うしおぎ)守一『京都帝国大学の挑戦』)とするプロジェクトであったことが、これまでの研究によって指摘されている。つまり京大とは、意識的に東大をベンチマーキングし、その問題を徹底的に討究した果てに創造された大学だ、ということである。瀧川の東大への対抗意識も、その長い格闘の延長にあると考えることができる。
 京大の歴史についての研究が必ずといっていいほど取りあげる斬馬(ざんば)剣禅(けんぜん)『東西両京の大学』の言葉をもとに、今日まで漠然と存在している東大と京大のイメージについて考えてみよう。『東西両京の大学』は、京大が創設されて6年後の1903(明治36)年に『読売新聞』に連載された同名の論説をまとめた書物で、東大に対する京大の新しさと優位を説いてやまない。

『東西両京の大学』(講談社学術文庫)

 曰く「官学と貴族政治と平凡の学説と醜陋なる俗物とは東京大学の特産にして、学問の独立と平民政治と斬新の学説と奇矯なる人物とは実に京都大学の名物なり」
 「東京大学の小学校的、監督的、圧制的、注入的、器械的なるに比すれば、(京都大学は)更に大学風にして、更に放任自由の主義を採用し、更に開発的活用的の精神を加へて、真に大学らしき大学の創立を見たるの実蹟、歴々として指摘し得べきものあり」
 権威主義と詰め込み学習の学園・東大に対する、個性と自由の学園・京大。現在もその内実があまり検証されないまま一般的に流布している両大学のイメージは、京大草創期の明治末年、すでにこの世に存在していたことになる。
 『東西両京の大学』は、東大の底なしの腐敗と京大の清新さを対比的に描く。それは、当時の東大ひいては日本の研究と教育が抱えていた問題を誇張気味に提示したものであり、京大がそれを打破する存在として期待を持たれていたことのあらわれでもある。
 それでは、京大はどのような点において東大の問題に挑み、自己を形成していったのか。そして、それはどのような帰結をたどったのか。その紆余曲折を探っていくこととしたい。

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

尾原宏之

甲南大学法学部准教授。1973年生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本放送協会(NHK)勤務を経て、東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。専門は日本政治思想史。著書に『大正大震災ー忘却された断層』、『軍事と公論―明治元老院の政治思想』、『娯楽番組を創った男―丸山鐵雄と〈サラリーマン表現者〉の誕生』など。 (Photo by Newsweek日本版)

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