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「反東大」の思想史

2020年5月7日 「反東大」の思想史

最終回 瀧川事件と「帝大システムの限界」

著者: 尾原宏之

「自治」の伝統と瀧川事件

 昭和戦前期の京大をめぐる最大の出来事といえば、1933(昭和8)年の瀧川事件をあげる人が多いだろう。文部省(文相・鳩山一郎)が京大総長や法学部教授会の抵抗を押し切って法学部教授瀧川幸辰を大学から追放し、激しい抗議運動が起きた事件である。

鳩山一郎(1883-1959)

 1932(昭和7)年10月、瀧川は、「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」という講演を東京の中央大学で行った。その名のとおりトルストイの刑罰論の紹介が中心で、犯罪とは「犯人その人を介して、社会に科せられる刑罰」であり、理解と同情とをもって犯人を導くべきだ、という内容である。
 瀧川はトルストイの説を紹介しただけだったが、いつの間にか瀧川自身に無政府主義者のレッテルが貼られ、国家の組織が悪いから犯罪が起こる、犯罪は国家に対する制裁である、などと語っていた、という噂が当局に伝わった。
 その直後に共産党員・シンパの判事や裁判所職員が摘発された「司法官赤化事件」が発覚したことも災いした。文官高等試験委員も務めていた瀧川は、法学分野における「赤化」「左傾」の代表的人物のひとりに祭り上げられていく。文部省は翌1933年の1月ごろに瀧川についての調査を完了し、処分を下すことを内定したという(松尾尊兊『滝川事件』)。
 瀧川の問題は、国会に波及した。2月1日の衆議院予算委員会では、政友会の宮澤裕(宮澤喜一の父)が、実名こそ出さないもののそれとわかる形で東大の牧野英一、末弘厳太郎、有澤廣巳、京大の瀧川の4名の「赤化教授」罷免を要求、文相の鳩山一郎は調査と処置を約束した(「予算委員会議録(速記筆記)第7回」)。最終的に瀧川は「マルクス主義的思想」を持った大学教授に仕立て上げられる。発禁となった著書『刑法読本』や『刑法講義』からマルクス主義風の記述が探し出され、『刑法読本』に掲載された中国人女性の写真まで問題視された。
 文部省は、京大総長の小西重直に対し、瀧川への辞職勧告もしくは休職処分を行うよう働きかけた。勅令である京都帝国大学官制の第二条後半に「総長ハ高等官ノ進退ニ関シテハ文部大臣ニ具状シ判任官ニ関シテハ之ヲ専行ス」とある。帝国大学教授である瀧川は、高等官である。この規定が存在する以上、京大の一切をつかさどる総長が瀧川を処分して監督者の文相に報告する、というのが筋だった。

小西重直(1875-1948)

 だが小西総長は文部省の要求を拒絶する。法学部教授会は学部長の宮本英雄を中心に徹底抗戦の方針を固め、文部省を非難し、「研究の自由」の擁護を訴える声明を発表した。そして、文部省が瀧川の処分を強行、または小西総長が手続を進めた場合には総辞職で対抗することで意志一致した。
 この強硬姿勢の背景には、京大とりわけ法学部がフロンティアとして開拓した大学自治の慣行がある。1913(大正2)年、京大総長に就任した澤柳政太郎は、一流の大学づくりを目指し、不適格と考えられた7名の教授に辞職を要求、辞表を提出させた。これに対し各分科大学の教授会は、教授の任免には教授会の同意が必要と強く反発し、事態が紛糾する。
 最も強硬だったのは法学部の前身、法科大学の教授会である。教授一同が辞表を提出し、澤柳総長と争った。最終的に奥田義人文相は教授団の主張を認め、「教授ノ任免ニ付テハ総長カ職権ノ運用上教授会ト協定スルハ差支ナク且ツ妥当ナリ」という裁定を下す。澤柳は責任を取って総長の職を辞した。
 大学教授の人事は教授会に諮って同意を得ることが必要、という慣行がここにできあがった。瀧川事件の際、教授や学生はよく京都帝国大学の「伝統」としての大学自治を語ったが、その中核には澤柳事件の経験があったのである。
 瀧川追放を固く決意している鳩山文相は、ここで最終手段を使う。文官分限令の規定に基づき、齋藤實首相を会長とし、枢密顧問官や大審院長によって構成される文官高等分限委員会に瀧川の休職処分を諮ったのである。総長の権限や大学自治の慣行を無視し、帝大教授を一官吏として扱ったことになる。5月26日、瀧川の休職が発令された。
 瀧川の処分が下されるや、法学部長宮本英雄は教授16名をはじめとする教員一同の辞表を小西総長に提出する。
 法学部の学生は教授団を全面的に支持し、1500名が結集して学生大会を開いた。そこで辞表を出した教授陣と涙の対面を果たす。
 「午後五時三十二分宮本部長を先頭に法学部全教授悲痛な面持をたゝへて入場すれば拍手歓呼鳴りもやまず、教授と学生との最後の別れなのだ。荒れ狂ふ絶叫の嵐に教授の眼は涙ぐんでゐる」(京都日出新聞社『瀧川教授事件』)
 法学部学生大会は最後に「学徒の純情、師弟の情誼、已みがたく飽く迄文部当局と抗争し瀧川教授休職撤回、諸教授復職を目して邁進」することを誓い、総退学も辞さないという声明を満場一致で可決した。抗議の動きは全学に広がり、翌日、経済学部の学生は授業ボイコットに突入した。6月6日には最初の全学学生大会が開催される。

瀧川事件の東と西

 抗議の声を学園の外にひろげるため、応援要請の学生弁士が東北、九州、東京の各帝国大学に派遣された。
 では要請を受けた東大の反応はというと、あまり冴えなかった。5月29日、京大法学部の学生代表が東大の穂積重遠法学部長を訪ね、支援を要請したところ「東大法学部としてはこの問題については何等容かい(容喙)する筋合のものではないと思ふし、又この際害あつて益なきことである」とやんわり拒絶された(『東京朝日新聞』1933年5月30日)。
 この2年後に天皇機関説事件で右翼から猛攻撃を受ける法学部教授美濃部達吉は、新聞や雑誌で文部当局を強く批判しつつも、天皇の裁可を経て処分が下った以上撤回は困難なので「傍観的態度」をとることになった、とのちに弁明した。「抗争の結果は遂には東京大学をも混乱の渦中に陥いらしめ、諸教授の総辞職となり、学生をして其の前途を誤らしむる」ことを恐れたからである(「京大法学部の壊滅の危機」『中央公論』1933年8月号)。

美濃部達吉(1873-1948)

 東大法学部が「静観」「傍観的態度」を決め込むことに対して、批判の声やいぶかしむ声があった。澤柳事件では、東大法科の教授たちが京大法科を支援し、奥田文相との調停に立って事件解決と大学自治慣行の確立に寄与した(『滝川事件』)。今回の瀧川処分ではやけに静かであることへの違和感は強かったのである。
 朝日新聞記者で、戦後に文部省社会教育局長や横浜市立大学初代学長を務める関口泰は、事件の翌年、東大法学部が決起しなかった理由を次のように推測している。
 「瀧川事件の場合は、原動力である右翼勢力の方面で二の矢三の矢をつがへて、美濃部、牧野、末弘諸教授、有澤助教授をねらつてゐた関係もあつたのか、また鳩山文相なり文部省側が先まはりして小野塚(喜平次)総長の諒解を得て、東大には手をつけぬからといふので活動を抑へたといふ噂が本当なのか、とにかく東大側では当時、東大には小野塚大学総長と穂積法学部長とあり文部省に指も触れさせないしあんなヘマなまねはしないといつてゐた」(「東大教授の態度」『東京朝日新聞』1934年2月12日)
 鳩山と小野塚の密約については松尾尊兊『滝川事件』でも触れられている。京大の抗議運動に東大法学部が呼応しないことを条件に東大の「赤化教授」処分を見送る、という内容らしい。

松尾尊兊『滝川事件』

 動かない法学部をよそに、東大生の運動は活発化した。瀧川の処分が下された5月26日午前には「文学部有志」名義と共産青年同盟(共青、共産党が指導する青年組織)東大フラクション名義のビラ数百枚が撒かれ、翌日には右翼学生団体の七生社が大学の「自治刷新」と干渉排除を訴えて決起した(『瀧川教授事件』)。
 東大当局がなにより恐れたのは、瀧川事件に乗じて左翼学生が躍動することであった。経済学部河合栄治郎教授、大内兵衛教授を招いた学生主催の座談会は禁止され、竹内良三郎学生課長が「左翼の乗ずることを防ぐため今後も学生大会及びこれに類似せる集会の開催は許可しない」と声明を発表した(『読売新聞』6月2日、『帝国大学新聞』6月5日)。弾圧方針は明確だったのである。
 だが6月中旬、学生の運動は激化する。17日、経済学部の佐藤弘講師の講義が突如学生300名から中止要請を受けて学生大会に変貌、その場で瀧川復職と鳩山文相の辞任要求、弱腰の東大教授団や弾圧を強める学生課への糾弾、授業ボイコットが決議された。ちょうど同じころ、文学部では出隆助教授の哲学史講義がアジテーション学生に乗っ取られた。これらの学生が構内に流れ出し、参加者3000名ともいわれるデモが発生する。警官50名が構内に駆けつけて9名を検束した(『東京朝日新聞』6月18日、『帝国大学新聞』6月19日)。
 さらに法学部では、21日に美濃部達吉の講義が乗っ取られて法学部学生大会と化し、やがて法・経・文合同の学生大会に発展した。この日は40名前後の検束者が出た(『帝国大学新聞』6月26日)。
 警察も大学当局も、運動の背後に左翼分子がいると考えていたので、弾圧は激しかった。瀧川事件関連で検挙された東大生は同年の9月末時点で362名に達するという(『読売新聞』10月15日)。東大当局の弾圧姿勢は、瀧川事件が東大に波及することを防ぐと同時に、学内左翼分子のあぶり出しにも役立ったようである。
 実は、本家本元の京大の運動は東大と違って左翼臭の徹底排除に努めていた。かわって強調されたのは、学生の「純真」ないし「純情」であり、「師弟の恩愛」である。京都帝国大学全学部学生代表者会議編の『京大問題の真相』(1933年)は、法学部生の運動について次のように語る。
 「法学部学生の運動は、正義擁護の理想と、師弟の恩愛の情宜とに基くものであり、其目的とする処は、光輝ある昔日の京大への復帰にあるのであつて、かゝる目的貫徹の為に敢て文相の猛省を促すものである。従つて其運動たるや学生の純真なる立場に於てのみ理解することが出来るのであつて、断じて右翼、左翼の運動と関連をもつものではなく、またかゝる徒輩の容喙をうくべき筋合のものでもないのである」
 政治学者の丸山眞男は、京大の運動は「ノンポリ・リベラル」を前面に出したことで一定のひろがりを得たとのちに評した(『丸山眞男書簡集』第4巻)。だがそこで押し出される「ノンポリ・リベラル」の師弟愛は、やや過剰だったようにも見える。「吾等の平素敬愛する諸先生が、かゝる不当の弾圧の前に、終始変ることなく、正義の抗争をつくして、身をもつて御薫陶を与へられたことは、法学部学生の全く敬服感激してやまない処であり、これこそ吾等の真の師表であるとの確信を一入強めたのである」(『京大問題の真相』)という、うやうやしい限りの表現にいたっては、あまりの教授崇拝ぶりに鼻白む思いがする。20代前半の鼻っ柱が強いはずの若者が、こう露骨に知の権威者である帝大教授を礼賛していいものか、という気さえする。
 だが、京大法学部教授団はたしかに大きな敬意を払われてしかるべき存在だった。なぜなら帝国大学教授の地位を手放すことは、今日よりもはるかに勇気がいる行為だったからである。松尾尊兊によれば、瀧川事件で辞表を出した京大法学部教授16名中、11名までが県知事級の官位を持っていた。そのうち6名は高等官一等で東京、大阪、京都などの府知事クラス、俸給の額は小学校教員の初任給の10倍以上だったという(『滝川事件』)。「大学の自治」や「学問の自由」のためとはいえ、その地位と待遇を捨てることは決して簡単ではない。内心、逡巡はあっただろうがそれでも教授団は辞表を出した。そう考えると、学生たちが大感激し、総退学をもって呼応しようとしたのも理解できる話である。

将来に不安を抱えるエリート

 帝国大学の学生は、当時の日本社会においてごくごく一握りのエリートである。その彼らが、京大では総退学を決意し、東大では共産青年同盟とともにデモをする。なぜわざわざ自分の身を危険にさらすのだろうか。
 このことは、当時の指導者にとっても大きな悩みであった。1933年2月1日、衆議院予算委員会での宮澤裕の質問に、鳩山文相はこう答えている。
 「昭和七年度と昭和六年度の学生生徒の思想事件を比較致しますと、昭和七年度は大体に於きまして昭和六年度よりは検挙数、起訴事件数が減って居るのであります、然るに唯独り帝大のみが其数を増して居るのは洵(まこと)に遺憾に存じて居ります」(原文カナ、「予算委員会議録(速記筆記)第7回」)
 学生生徒の思想事件は減っているが、エリート中のエリート、帝大生の検挙や起訴は増えている。瀧川ら「赤化教授」がその原因なので、まず彼らを取り締まるべきだ、というのが当座考えられた対策だった。
 だが鳩山たちは、学生を運動に走らせる別の原因にも気づいていた。宮澤が同委員会で瀧川らの処分を求める2日前、鳩山は民政党の風見章からも思想問題についての質問を受けていた。風見は、大学から共産主義者が輩出される原因は教授にあるのではなく「社会組織の欠陥」にあると説き、鳩山の見解を質した。鳩山はそれに対して次のように答えている。
 「現代社会組織の欠陥と云ふものも色々あるのでありますから、其総てのものを色々に是正して行かなければならないのですから、文部省としては、或は高等教育機関である高等学校が多過ぎるとか、或は大学が多過ぎる、そうしてそれを出た人達が就職が出来ないと云ふことも考へなければならぬ問題とも思って居るのであります」
 「官立の大学を卒業した人間が、就職が出来ないが為に非常なる弊害を及ぼすと云ふことが、将来長く継続するやうな社会情勢であるならば、どうかして茲に一大英断を以て考へなくちやならないと思って居ります」(原文カナ、「予算委員会会議録(速記)第5回」)
 鳩山は、思想問題、要するに共産主義の流行は、帝大卒業生をはじめとする高学歴者の就職難と強く結びついていると認識していた。ただでさえ仕事がない不況下、高学歴者に見合う優良な求人はなおさら少ない。そこに官立大学の卒業生が年々増加していけば、希少なポストをめぐって凄惨な競争が発生する。エリート候補たる若者は、常に敗残者になる恐怖におびえる。
 当時、昭和恐慌の影響がまだ強く残っており、東大法学部の卒業生でも深刻な就職難に苦しんだ。卒業後の進路調査では、1930年で就職率32%、31年で26%、32年で38%という状態である。1933年はやや持ちなおして卒業生526名中276名が就職、率にして52%(大学院進学、学士入学を除けば41.2%)だった。業種としてはやはり官庁が多く、内務省22、司法省15、大蔵省10、農林省5、商工省5、逓信省5、外務省5など77名を数える。日本銀行3,横浜正金銀行5など銀行は31名、「東大法科の伝統をすてゝ各方面に活路を求め」三菱商事や三井鉱山など実業方面に進出する者も増えた(『帝国大学新聞』6月12日)。東大法学部卒業生のなかでも、エリート官僚となり、あるいは大企業に活躍の場を見つける人がいる一方で、卒業時には半数から7割5分までが職にあぶれていたのである。
 当然、京大も非常に厳しい状況だった。恐慌下で卒業時期を迎えてしまった法学部生のなかには、学籍を維持したまま京都市役所の清掃現場の監督助手になり、橋の下の浮浪者を排除する仕事に就いた者もいた。この人物はのちに区役所の徴税係になり、税金を払えない貧乏な家を巡回して差し押さえの札を貼って歩く業務を担当した(『京都帝国大学新聞』1933年1月31日)。このような立場に置かれれば、少数の「勝ち組」同級生を見る眼には羨望の色が浮かび、我が身に引け目を感じることになる。その自分が浮浪者や貧乏人をいじめる役回りを引き受けているとなれば、やるせない思いに駆られるだろう。この人物は差し押さえの業務を「実に不快な仕事でした」と語るが、彼が個人の力で対抗できない社会構造に強く憤怒するとすれば、「危険思想」への道は決して遠くない。
 帝国大学卒業という大変な努力を要した結果が、それだけでは将来の栄達や安定に直結しない時代となった。そのことが、学生運動激化の背景にある。瀧川事件とは、未来に不安を抱えるエリート候補の帝大生が、みずからの既得権をなげうって理想に殉じようとする京大教授に心を打たれ、ひろがりを持った事件でもあった。
 だから、その感動の冷めるときが運動の衰退するときである。結局、辞表を出した教授のうち半数が態度を翻して残留・復帰し、助教授・専任講師・助手の多数も残留・復帰したことはよく知られている。結局、教授たちも人間だったのである。ちょうど夏休みをはさんだこともあり、学生運動は急激に沈静化した。成城高校から京大文学部に進み運動の中核を担った古谷綱正は、帰省先の東京から秋に京都に戻ると事件の余韻すらなく、学生たちもすっかり忘れてしまったかのようだったと回想する(『私だけの映画史』)。その後、「残留教授」は、去就だけでなく研究業績までこき下ろされるようになり、佐々木惣一、宮本英雄ら最後まで節を守って大学を去った人々は賞賛された。

佐々木惣一(1878-1965)

官学と私学の変質

 政治学者丸山眞男の父、丸山幹治は、衆議院予算委員会で鳩山文相が官立大学の整理に言及したことに強く反応した人物である。当時大阪毎日新聞論説委員だった丸山は『京都帝国大学新聞』に時事論説を寄稿していた。1933年2月5日の「官学整理論に就て」という論説で、官立大学整理論の核心である学生の左傾化問題を、日本の大学史を振り返りながら分析している。
 丸山からすれば、日本の大学史とは官立大学の没落史にほかならない。たびたび本稿でも触れてきたように、当初帝国大学をはじめとする官立学校には文官高等試験、医師免許、中等学校教員免許などで無試験特権が設定され、その威光は強烈であった。「あらゆる国家の特典があり、あらゆる社会の優遇があり所謂学士さんなら娘をやろかの時代だつた」と丸山はいう。ところが、その特権は徐々に剥奪されるか、私立大学にも認められるようになっていった。つまり、平等化が進んできたのである。それに追い打ちをかけるのが、この間のすさまじい不況による就職難である。それは東大をはじめとする官立大学にとって「社会的顛落」の危機にほかならない。
 その一方で、日本の大学史とは、私学から見れば権利向上の歴史でもある。かつて私立医学校を出ても開業試験に合格しなければ「出来損ひの瀬戸物と同じヤクザもの」で、偽医者にでもなるしかなかった。私立法律学校の卒業生は、わずか数パーセントが判検事や弁護士になり、文官高等試験に合格するのはごくごく少数だった。圧倒的多数は府県庁の属官にもなれなかったのである。もちろん私学の文科などに行っても教員免状はもらえなかった。私立大学という存在が法的に認められるのは1918(大正7)年の大学令によってである。
 没落を経験した官学と、興隆を経験した私学。その経験が大学の性格を変えてしまった、というのが丸山の論説の核心である。

丸山幹治(1880-1955)

 昔の私学は学費が安く「貧民の子弟」が多かった。ところがいまや官立大学の学費のほうが安いので、「貧民の子弟」は官学を目指す。逆に私学では弊衣破帽に泥下駄で講堂に出入りするような貧乏学が消え、粒が揃って富裕層の子弟が増えた。
 教育方針も入れ替わった。大学に昇格するため、私学はみずから文部省にひれ伏すようになった。ところが官学(その最たるものが京大だろう)は逆に文部省の支配に抵抗し、私学の「学問の独立」のお株を奪うようになった。
 大学史がこのまま発展していけばどうなるか。丸山は、富裕層の子弟の多い私学がやがて就職実績で官学をしのぐ可能性がある、と考える。
 これはなかなか興味深い分析である。丸山は、資本家の「精神的寵児」は私学であって、官学は「継子」にすぎないと説く。国家主導の近代化を進めるために、日本は東大を頂点とする官立大学を必要とした。だがその目的が達成されれば、本来は用済みとなる。次に必要になるのは、国家の論理ではなく資本の論理によって教育する大学のはずである。だから、資本家と結託した既成政党で官学の縮小整理論が勢いづくのは当然だと、丸山はいう。たしかに、もしその後の軍部の台頭などがなく、資本主義と政党政治の幸せな野合が息を吹き返せば、そういう大学史があり得たかもしれない。 
 周知のとおり、丸山の見立てのようにはならなかった。この後にやってくる時代は、陸軍省の『国防の本義と其強化の提唱』(1934年)のように高度国防国家の建設を追求する思想、『国体の本義』(1937年)のように全体主義の自由主義に対する優位を説く思想の時代であり、新体制運動の時代、長い戦争の時代である。東大を頂点とする大学の体系は戦争の時代をどう生き抜き、また明治国家の破綻を経てどう生き残り、さらに強大な存在になっていったのかーーこのことについては、また別の長広舌を必要とするだろう。

※『「反東大」の思想史』は今回が最終回となります。ご愛読ありがとうございました。当連載は、大幅加筆の上、新潮選書から年内に刊行予定です。

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著者プロフィール

尾原宏之

甲南大学法学部准教授。1973年生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本放送協会(NHK)勤務を経て、東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。専門は日本政治思想史。著書に『大正大震災ー忘却された断層』、『軍事と公論―明治元老院の政治思想』、『娯楽番組を創った男―丸山鐵雄と〈サラリーマン表現者〉の誕生』など。 (Photo by Newsweek日本版)

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