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やりなおし世界文学

2020年5月19日 やりなおし世界文学

(18)社会的距離の中の偽おじいさん私記――ギッシング『ヘンリー・ライクロフトの私記』

著者: 津村記久子 , 100%ORANGE

 めったに著者略歴は読まないのだけど、ふと目に留まったんで読んでみると、けっこうきわどいことが書いてあった。「18歳のときに女に金を工面してやろうとして学友から金を盗み、逮捕されて学者としての将来を棒に振る」とある。やってることもどうかという感じだが、「女」呼ばわりも味わい深い。深夜ラジオのノリを思い出してしまった。解説、年譜、訳者あとがきを読むと、まあ「女」だったのかなあと思える女性で、このギッシングという人はなんだかアル中だったり情緒不安定だったりする女性にどうにも縁がある人生だったようだ。二回の結婚に失敗した後、小説の翻訳許可を求めて訪ねてきたフランス人女性と渡仏して、ようやく幸福な生活を手に入れたという。
 波乱に満ちた著者略歴だけ読んでけっこう満足していると、実はギッシング自身は四十六歳で亡くなっていることが判明し、わたしの年齢(四十二歳)を考えると、あまり他人事でもないことに気が付く。本書の私記を書いているという設定のヘンリー・ライクロフトが五十四歳であるとのことなので、四十代前半の人が十歳年上の人の私記を書いているということになる。四十代前半もおじさんかもしれないが、より深まったおじさんのふりをして書いている、ということで、偽おじさん私記、いや、ライクロフト自身が晩年を自覚しながら本書を執筆している様子なので、思い切って本書を偽おじいさん私記ということにしたい。
 ヘンリー・ライクロフトの来歴を簡単に記す。貧困というよりは、とにかく儲からない文章の仕事をしながら、借金はせずに実直に労働していたところ、友達が亡くなって、遺産として年三百ポンドの終身年金を受け取れることになった。それからは、デヴォン州はエクセターに移り住んで、通いの家政婦さんに世話をしてもらいながら、ペンは捨てて田舎で悠々自適に暮らしていた。しかし閑居も長くは続かず、心臓を患っていたライクロフトは、五年で逝去してしまう。ぽっくり逝くことが望みだったとのことだが、猛暑の中の遠出から戻って書斎のソファに横たわったまま、まさしくぽっくり亡くなってしまう。
 それで、筆を折ったと思われていたライクロフトだが、このたび私的に執筆していた、単なる日記というのとも違うれっきとした遺稿が見つかったとのことで、それを出版する運びとなり、まとめたものが本書だという。
 序盤の緒言を一読した印象は「自分の代わりに余生を考えてくれる本かもしれない」だった。年譜によると、ギッシングは四十代前半で本書を執筆していたとのことで「ギッシングと考える余生」と言ってもいい。ギッシングの考えた余生の核心は、現在飛び交っている言葉で表現すると「ソーシャルディスタンス」だった。言い切ってしまうと、本書は隠居した偽おじいさんがいろいろ考えてるだけの本だと言える。静かな家と、物静かな家政婦。「仮にも人が訪ねてくる気遣いはなし、自分から会いにいくなどは思いも寄らない」生活の三密感のなさ、それでいて穏やかで満足げな気配は、これからの生活の何らかのヒントになるのではないだろうか。
 唸るほどではないが生活に困らない程度のお金と、時間以外は持っていないライクロフトは、けっこう文字通り、お金と時間以外は持っていない。いやいや人間はそれを求めて苦労するんじゃないかっと怒られる向きもあるだろうけれども、持ち物といえば蔵書だけで、華やかな人付き合いとか、若々しい肉体とか、素敵な余暇の過ごし方といった、現代の人が「持て」と内外から圧力を掛けられているものは、ちょっと潔いぐらい持っていない。お金と時間以外で彼の元にあるのは、文筆生活の貧乏で苦労した記憶と、自然に感動する心、思索する頭ぐらいだ。少数の信頼できる友人はいるようだが(遺産も友人からもらったぐらいだし)、若くて貧しい時も、友人たちとボヘミアン的なつるみ方はしたくなかったそうで、ライクロフトの内向きな性格がうかがえる。ロンドン住まいの経験から、うるさいということはさんざん経験してきたようで、「毎朝、目が覚めると静寂を天に感謝する」ライクロフトは、特にけたたましい人の怒号や罵声を忌避し、「なろうことなら、極く親しい何人かは別として、この先、人の口から発される言葉はいっさい聞きたくない」と徹底的な厭世観を打ち明ける。
 ライクロフトは、現在の余裕のある生活の中で、何度も貧乏だった頃について思い起こす。個人的に好きなのは、大学入学資格試験の勉強をしている、朝の食事前にしか勉強の時間がない勤め人を、毎朝五時半に起きて「指導」していた一年間についてのエピソードで、生徒のミスター某自身が疲れが溜まっていて起きられないから今日はパスという時であっても、ライクロフト自身は早朝に往復二時間歩くことでパンとバターとコーヒーの朝食がうまくて仕方なく、仕事も捗ったという話だ。べつにその人物との華々しい交流があったというわけでもなく、ただ生活のリズムが自分にあってて調子がよかった、みたいな話なのだが、結局そういうものこそが人間の幸福なんじゃないかと思える充実感が漂っている。ライクロフトは確かに貧しかったが、こういった誰にでも起こり得ること、特別ではないことに幸福を感じられる人間でもあって、そのなにげない記憶の開示にははっとさせられるものがある。本当は世間並みを意識して「持つ」ことより、自分に合った生活をすることが生きる喜びなのではないかと気付かされるのだ。
 そしてライクロフトは晩秋の晴れたある日、突然「人生、ここに果つ」という感覚を覚える。「世の中を見下していたはずが、ここへ来てただ追想に耽るしかなくなったとは」という驚きには、実はわたし自身にも覚えがある。ギッシング自身もまた、偽おじいさんの言葉を借りて、四十代の実感としてこれを書き込んだのかもしれない。ここからライクロフトの文章は、にわかに異様な緊張感を帯びつつ、「最近はイギリス産のバターの品質が低下している」とか「イギリスの料理の将来のために、少女たちには読み書きよりも料理を作ってパンを焼くことを教えこむといい」などという、言ってみれば食事という身近な欲望に関する妄言のようなものまで織り交ぜられることになる。なんでここで食べ物の話よ、と頭の片方では思うのだが、死を自覚して食べ物について考えることには妙なリアリティがある。
 その後、イギリスと清教主義、歴史の受け取り方などに考えを巡らせた後、ライクロフトは、「この先、まだ何年も生きられたらと思わないでもないが、もはや一年も残されていないとなったところで不満はない」と最後のページで書く。「作品は褒められたものではないが、努力は怠らなかった。時間と境遇と才能の許す限りで頑張った。残された時間もそんなふうに過ごしたい」。このライクロフトの実感は、実はちょっとぞっとするぐらい自分自身の実感と重なっている。偽おじいさんライクロフトに仮託して、やはりギッシングは四十代の実感を語っているのではないだろうかと思う。だから実は、ライクロフトの不幸と喜びと悟りは、四十代の中年のそれでもある。
 ライクロフトはいい人だと思うし、だいたいは賛成だけれども意見が合わないところもあった、と思う向きもあるかもしれない。わたしもそうだった。けれどもこの本の希有さは、もしかしたら、そういった共感を伴う交流をしてくれることではなく、ライクロフトが身を以って示すこの「中年の達成度」にこそあるのかもしれない。だとすると、おちおち適当には生きていられないのだと襟を正される。
 ソーシャルディスタンスの中に生きる偽おじいさんには、いかなる孤独と気付きと喜びがあるのか? 鍵となっているのは、ライクロフト自身の苦難と充実の記憶だろう。「時間と境遇と才能の許す限りで頑張った」という言葉は真実だと思う。その経験こそが、人生が果てることを自覚する時期に来た人間を支えるのではないだろうか。

ヘンリー・ライクロフトの私記

ギッシング/ 央耿(ひろあき)  

2013/9/20発売

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

津村記久子
津村記久子

1978(昭和53)年大阪市生まれ。2005(平成17)年「マンイーター」(のちに『君は永遠にそいつらより若い』に改題)で太宰治賞を受賞してデビュー。2008年『ミュージック・ブレス・ユー!!』で野間文芸新人賞、2009年「ポトスライムの舟」で芥川賞、2011年『ワーカーズ・ダイジェスト』で織田作之助賞、2013年「給水塔と亀」で川端康成文学賞、2016年『この世にたやすい仕事はない』で芸術選奨新人賞、2017年『浮遊霊ブラジル』で紫式部文学賞を受賞。他の作品に『アレグリアとは仕事はできない』『カソウスキの行方』『八番筋カウンシル』『まともな家の子供はいない』『エヴリシング・フロウズ』『ディス・イズ・ザ・デイ』など。

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100%ORANGE

イラストレーター。及川賢治と竹内繭子の2人組。東京都在住。イラストレーション、絵本、漫画、アニメーションなどを制作している。イラストレーションに「新潮文庫 Yonda?」「よりみちパン!セ」、絵本に『ぶぅさんのブー』『思いつき大百科辞典』『ひとりごと絵本』、漫画に『SUNAO SUNAO』などがある。『よしおくんが ぎゅうにゅうを こぼしてしまった おはなし』で第13回日本絵本賞大賞を受賞。

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