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やりなおし世界文学

2020年10月29日 やりなおし世界文学

(23) やがて幸福な太宰の津軽――太宰治『津軽』

著者: 津村記久子 , 100%ORANGE

 太宰治賞出身であるにもかかわらず、太宰治を苦手としている。文章はすごくおもしろくて好きだけれども、本人がかなり苦手だ。理由はめちゃくちゃ単純で、ものすごくもてたからだ。なんでそんな毎回毎回一緒に死んでくれようとする女の人を見つけられるのか。そして一緒に死のうぜと頼めるのか。死ぬって一大事だぞ。自分にはそんな人いないぜ。二十回ぐらい生まれ変わっても見つけられる気がしないし、誰かに頼むことも一回もなさそうだぜ。断られるし。
 太宰治の小説には、いかにも女性と死にそうな作風の作品もあるけれども、井伏先生が煙草を吸いながらつまらなそうな顔で放屁する「富嶽百景」とか、太宰が知人に迷惑をかけまくるだけの「帰去来」など、もてない自分がちゃんと共感できて笑える作品もたくさんある。すごくおもしろい人だけど、こと女性と生き死にすることには超絶だらしない。でもわたしは、そういう太宰のだらしない逗留とか、同性の知人への迷惑の話を読むのが好きなので、その両方が入っている「津軽」は好きなのだった。
 『吉田類の酒場放浪記』が好きな人は間違いなく好きだと思う。太宰が生まれ育った津軽を人の世話になりながらぷらぷらしつつ、最終的には小泊というところに嫁に行ったたけという子守に会いに行くというあらすじになっている。半分以上の部分が海岸線に囲まれている青森の西側は、海とは切っても切り離せず、従って魚介類についての記述が山ほど出てきて、太宰はそれらを酒を呑みながら享受しまくるのだが、あまりにおいしそうだし楽しそうなので、魚介類が嫌いで酒も呑めないわたしは、久しぶりに魚介を食べない呑めない自分を心底不甲斐なく思った。それでも本書はすごく楽しい。大地主の息子であるという出自となかなか折り合いを付けられないながらも、肩の力の抜けた太宰が、本気とうそ気の入り交じった様子で、津軽という土地への愛憎というか、自嘲しつつもどうしても嫌いになりきれないという複雑な感情を抱きながら、当該の土地をうろうろする。故郷が嫌いで、馬鹿みたいだと思っていて、それでも完全に切り離すことができない。誰にでも覚えのある感情の中を、太宰治は余すところなくさまよい、その(こじ)れについて言葉を尽くす。
 津軽をうろうろしながら、太宰は親族以外にもたくさんの友人やその知人、お店や宿の人々に会い、彼らとのやりとりについて記述する。戦時下にあって、東京から地方に行っても物乞いのようなことをするのはみっともないからやめよう、と決意している太宰が、旅で出会った人々が誰も「白いごはんですよ、腹の破れるほど食い溜めなさい」などとは言わない、食べ物に敏感すぎないおっとりした人ばかりで、土産を強要する人もいないと感心したにもかかわらず、東京に帰ったら彼らからの小包が届いていて呆然とする、という一節には、太宰が青森で会った人々の気性が凝縮されているような気がする。また、最初に登場する、太宰の家の書生で鶏舎の世話をしていたというT君を、Nさんという別の知人の家に行こうとなかなか誘えない太宰がぐずぐずと言い訳を書いていると、T君の方から「Nさんの家で逢いましょう」とあっさり言ってくるところなども、津軽の人々は太宰の甘えたいけれども甘えたくもないという気持ちに対して一枚上手で興味深い。
 「食べものには淡泊なれ」と自戒していたはずの太宰だったが、蟹には目がないらしく、そのまんまやないかという名前の蟹田という土地に住むN君(Nさん)の家では蟹をごちそうになる。中盤まで太宰のぷらぷらに同行するN君は、太宰より先に東京に出て雑誌社に勤めたり保険会社に勤めたりしていたそうなのだが、よくだまされるらしいというのにのんきで、精米業を営んでいる。地元の顔役の人も交えたN君宅での蟹の食事の後、アトフキというホスト側が残り物を肴に呑む慰労会のようなものに太宰も参加するのだが、この場面がしみじみ楽しそうでうらやましい。太宰に酒を教えたのがN君で、太宰が酒で失敗したという知らせを受けるたびに責任を感じていたという話も味わい深い。
 締め切りが迫った短編小説を書くために、太宰がN君宅の奥の部屋を借りて仕事をしていると、N君が「書けたかね」という言葉とともに、自分の仕事の進捗を報告したり、「汚い工場だよ。見ないほうがいいかも知れない」と言いつつも仕事をしている姿を太宰に見せたがったりする場面や、育てている妹の三人の遺児の一番上の甥(青森の工業高校にはいっている)が、ある土曜に七里の道を徒歩で深夜に帰宅した時に、彼に温かいものを食べさせるのかそれとも眠いだろうから眠らせるのかということで夫婦喧嘩になり、甥っ子が笑ってしまって喧嘩がおさまる、という話には、普通の人の普通の話の、かけがえのないいとおしさが満ちている。また、N君がつけている津軽の凶作についての長々としたリストを見た太宰が、科学の世の中と言われる世になってもこんな凶作を防ぐ方法を百姓に教えられないことについて「だらしがねえ」と怒る様子にも、太宰なりの精一杯の優しさのようなものが詰まっているように思える。
 T君とN君宅を訪ねた際の花見に同行する、T君が勤める病院の蟹田分院の事務長のSさんが、外ではわりと普通なのに、太宰を自宅に呼んだ際には狂ったような歓待と異常な落ち着きのなさを発揮する様子もおもしろすぎて忘れられない。干し鱈を自分で叩きまくって指を怪我までするSさんはもうめちゃくちゃなのだが、太宰の言うところのこの「疾風怒濤の如き接待」や、「ちぎっては投げ、むしっては投げ」とでもいうような津軽人の暴力的な愛情表現を前に、太宰が自分の姿を見いだして「なつかしく気の毒になる」一節は、切なくも温かい。
 さまざまな忘れられない人々の間を行き来しながら、太宰は実家へと向かう。親族の人々と太宰のやりとりは、友人たちとのそれと比べるとどこかよそよそしくもの悲しいのだが、土地で「アヤ」という役割名で呼ばれるじいやと若い親族を伴って小山に遊びに出かける様子の中での、淡々としながらも蛇をやっつけたり川に丸太を渡して山菜を取りに行くといったアヤの行動と太宰の所感は生き生きとしている。
 最終盤で太宰は、「自分の母だと思っている」という、三つから八つまで一緒に暮らした元子守のたけが嫁に行ったという小泊へとたどり着く。名前しか手がかりがないままに小泊へとやってきた太宰は果たしてたけに会えるのか? 唐突とも言える幕切れは見事で、たけの強くて不遠慮な愛情を根拠にした、自分はたけに似ているから粗野でがらっぱちで金持ちの子供らしくなれなかった、という太宰の気付きは感動的だ。「帰去来」「故郷」の中畑さんも登場する本作には、太宰の故郷の普通の人々へのぶっきらぼうで優しい視線が横溢している。

津軽

太宰治

2004/6/1

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

津村記久子
津村記久子

1978(昭和53)年大阪市生まれ。2005(平成17)年「マンイーター」(のちに『君は永遠にそいつらより若い』に改題)で太宰治賞を受賞してデビュー。2008年『ミュージック・ブレス・ユー!!』で野間文芸新人賞、2009年「ポトスライムの舟」で芥川賞、2011年『ワーカーズ・ダイジェスト』で織田作之助賞、2013年「給水塔と亀」で川端康成文学賞、2016年『この世にたやすい仕事はない』で芸術選奨新人賞、2017年『浮遊霊ブラジル』で紫式部文学賞を受賞。他の作品に『アレグリアとは仕事はできない』『カソウスキの行方』『八番筋カウンシル』『まともな家の子供はいない』『エヴリシング・フロウズ』『ディス・イズ・ザ・デイ』など。

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100%ORANGE

イラストレーター。及川賢治と竹内繭子の2人組。東京都在住。イラストレーション、絵本、漫画、アニメーションなどを制作している。イラストレーションに「新潮文庫 Yonda?」「よりみちパン!セ」、絵本に『ぶぅさんのブー』『思いつき大百科辞典』『ひとりごと絵本』、漫画に『SUNAO SUNAO』などがある。『よしおくんが ぎゅうにゅうを こぼしてしまった おはなし』で第13回日本絵本賞大賞を受賞。

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