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やりなおし世界文学

2020年11月25日 やりなおし世界文学

(24)ボヘミアンたちの金策と住宅事情――ミュルジェール 『ラ・ボエーム』

著者: 津村記久子 , 100%ORANGE

 オペラのことなど何にもわからないわたしでも、名前だけは知っている『ラ・ボエーム』である。かなり長い間、オペラは基本的に権力者の物語を取り扱ったお金持ちのためのもの、という思い込みがあったので、自分にはまったく縁のない表現形態だったのだが、ある時、有名なミュージカルの『レント』が、『ラ・ボエーム』を換骨奪胎して生まれたものだ、ということを知って驚き、けれどもやはり驚いたままで、ちょっとあらすじを調べるというまでに終わっていた。そこへ来て、この全訳である。若くて貧乏な芸術家はよくつるんでいて、その人間関係や貧乏をやりくりする様子は作品そのものよりもおもしろかったりする、という、今では普遍的なものになった主題の元祖のような存在がこの小説なのではないか、と勝手に目星をつけ、読むことにした。
 家賃を払えない音楽家のショナールは、ベッドも持っていないので家具の上に寝て、部屋に来た女性が忘れていったペチコートを部屋着として羽織って過ごしながら、正午までに家賃の工面ができないと部屋を明け渡すことになるのに、うっかり作曲を始めてしまう。最初に選んだ歌詞がロマンチックすぎるので、金に困っているという詞に変えるとなんとなく作曲を続けてしまい、気が付いたらあと四十五分しかないというところまで来てしまう。管理人に、引っ越し先の住所を教えてと言われ、嘘の場所を言う。管理人は、身元の問い合わせもないのにねえ、と怪しむ。そこへ次の間借り人がやってくる。彼は屏風しか荷物を持っていないようだ……というのが一話目のあらすじである。かなりおもしろい、という以上に、現代の小説でも普通に使えるシチュエーションと、十九世紀のフランスでも、部屋を貸し出す時は身元の確認をした、という事実に驚く。付け加えると、この時代のフランスでは、家具が家賃を払えない時の担保の役割を持っていたようで、屏風しか持っていない新しい間借り人のマルセルはあやしまれる。大家は、ショナールの次の間借り人であるマルセルが絵描きであると知って、また芸術家か! 身元調査しなかったな! と怒る。
 ショナールが借金のしすぎで、世界中の言葉で五フラン貸してくれと言えるという設定がすごくいい。ショナールは友人知人の誰がいつお金を持っていて、何時頃に何を食べるのかということを記した名簿を作っており、借金の回数を均すとか、借り過ぎないように随時チェックしているようだ。本当にこんなやつが友達にいたら即縁を切りたいぐらいなのだが、その名簿の存在自体がおもしろすぎて、見せてくれ! と言いたくなる。
 この欄で取り上げる本では、裕福な人はあまり出てこないけれども、本書は中でも借金、家賃の工面、そして(あぶく)(ぜに)を使い果たすことに特化した側面を持った小説であると言える。細かい生活にまつわるお金の話が好きな人は間違いなく気に入ると思う。個人的には、「神様の使い」でマルセルに肖像画の作成を頼みに来たブランシュロン氏への、マルセルによる「手を描かなければ五十フラン、手を入れれば六十フランです」という生々しい説明と、四話目の「アリ=ロドルフ または已むを得ずのトルコ人」で「芝居であまりに気味の悪い振り付けをした(かど)で豚箱行きとなった」仲間の一人のロドルフが、暖房器具の販売を営んでいるおじと再会し、ホームレス状態に六階の部屋をあてがってもらった上に、『暖房のすべて』という実用書の執筆を依頼されるも、前金の五十フランをすぐに使い果たしたため、逃げないようにおじに服を取り上げられ、代わりにトルコ人風の衣装をお仕着せられて文章を書くために監禁されている、という様子が、自分でこの話を書けたらなというぐらい楽しかった。シビアなお金の話でありながら、それにまつわる人々の様子は喜劇的だ。シビアといえば、この時代のフランスでは、「家具付き下宿」が劣悪な安下宿のことを示し、たとえ賃貸住宅でも自前の家具を持つことが経済的自立の証とされた、という話が興味深い。本書は十九世紀のパリの住宅事情にまつわる小説でもあるのだ。
 音楽家ショナール、画家マルセル、物書きロドルフ、そして哲学者コリーヌといったボエームたちは、やはり女性とくっついたり離れたりする。彼らを振り回し、同時に振り回されもするミミやミュゼットといった女性たちの、金持ちの男に贅沢をさせてもらいながら、貧乏な男と波乱含みの恋愛をするというライフスタイルが、突き詰めると、金を持った男の「浮気をしたい」という需要の産物であろうことも、もしかしたら著者の意図ではないのかもしれないけれど本書を読んでいると理解できる。とはいえ、ロドルフと同棲を解消したミミが、引っ越しの荷物を少しずつ回収しに来ることでロドルフと言葉を交わし、それをよりを戻すきっかけにするだとか、お金がなさすぎてマルセルと住んでいるミュゼットが椅子の脚を薪にしてゆで卵を作ろうとするといったボエームたちとの個々のエピソードはチャーミングで生き生きとしている。
 十九世紀パリの「しょうもない人々」の小説だと思う。誰も彼も自分を特別だと思っていて、誰から金を借りようかということばかり考えていて、そうやって手に入れた金を呑んで食って浪費してしまう。ボエームたちは、貧乏で食うや食わずでもぜんぜん同情できない連中だけれども、だからこそなのか、本書は喜劇として輝いている。たまにいらいらさせられながら、不思議と嫌悪感がないのは、今日はどこで眠ろうか考えつつ、なんとかして手に入れた金で呑み食いをするという人間の営為が本質的に興味深く、ボエームたちがそれをもっとも起伏のある形で実践しているからなのではと思える。だからシュークルートや兎のクリーム煮を始めとした本書に出てくる食べ物は、上等のものではないはずなのにことごとくやたらおいしそうに感じられるのだろう。やりくりと呑み食い、芸術、ときどき恋愛という人間の営為の間を何も持たずにぐるぐる回るボエームたちは、生活してゆくことのおもしろさを存分に体現してくれる。
 ちなみに、あらすじを読む限りでは、歌劇『ラ・ボエーム』でのお針子ミミは、原作のミミというよりは「フランシーヌのマフ」という話に登場するお針子フランシーヌのキャラクターが多分に混ざっているように思える。ボエームたちのぐっだぐだの生活にそろそろ飽きたという頃合いで出現するこの短編は、重くつらくも、ロマンスと悲劇が合わさった非常に締まりのある作品になっている。

ラ・ボエーム

ミュルジェール/辻村永樹  訳

2019/12/20

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松村 正樹

著者プロフィール

津村記久子
津村記久子

1978(昭和53)年大阪市生まれ。2005(平成17)年「マンイーター」(のちに『君は永遠にそいつらより若い』に改題)で太宰治賞を受賞してデビュー。2008年『ミュージック・ブレス・ユー!!』で野間文芸新人賞、2009年「ポトスライムの舟」で芥川賞、2011年『ワーカーズ・ダイジェスト』で織田作之助賞、2013年「給水塔と亀」で川端康成文学賞、2016年『この世にたやすい仕事はない』で芸術選奨新人賞、2017年『浮遊霊ブラジル』で紫式部文学賞を受賞。他の作品に『アレグリアとは仕事はできない』『カソウスキの行方』『八番筋カウンシル』『まともな家の子供はいない』『エヴリシング・フロウズ』『ディス・イズ・ザ・デイ』など。

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100%ORANGE

イラストレーター。及川賢治と竹内繭子の2人組。東京都在住。イラストレーション、絵本、漫画、アニメーションなどを制作している。イラストレーションに「新潮文庫 Yonda?」「よりみちパン!セ」、絵本に『ぶぅさんのブー』『思いつき大百科辞典』『ひとりごと絵本』、漫画に『SUNAO SUNAO』などがある。『よしおくんが ぎゅうにゅうを こぼしてしまった おはなし』で第13回日本絵本賞大賞を受賞。

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