二〇一五年五月十日、ロンドン・ヒースロー空港に石内は降り立った。
写真ギャラリーとして世界的に知られる「マイケル・ホッペン・ギャラリー」で「ISHIUCHI MIYAKO FRIDA」展が開催されるのだ。このギャラリーでの石内展は、チェコ・プラハから始まったヨーロッパ巡回展「MIYAKO ISHIUCHI PHOTOGRAPHS 1976-2005」(二〇〇八年)、近代の絹織物の銘仙を撮影した「絹の夢」をふくめた個展(二〇一三年)につづく三回目となる。ギャラリーの歴史は二十八年になるが、三回の個展を催したのは石内をふくめ、ふたりしかいない。前年秋のパリフォト会場でマイケル・ホッペン本人から熱心なオファーを受け、今回の開催となった。
欧米におけるフリーダ人気はますます熱を帯びているようで、石内がロンドンに到着する二日前の「ニューヨークタイムズ」は特集記事「Frida Kahlo Is Having a Moment」を組み、現在のフリーダ人気、メキシコのフリーダ・カーロ博物館をはじめ、アメリカではニューヨークとデトロイトでの展覧会などが開催中であること、そして石内によるフリーダ遺品撮影についても紹介している。ギャラリーで再会したマイケルは、石内をハグして歓迎し、イギリス国内はもとよりアメリカ、ロシアなどのメディアからの問い合わせが三十件以上におよんでいると伝えた。マイケルはこう語る。
「メディアの反応の良さに驚いています。フリーダ・カーロの魅力、彼女への入り口も時代とともにさらに増えているようです。フリーダ人気の理由は一つではないでしょう。その中で石内さんによるフリーダは独特の世界を構築しています。自分自身を凝視しつづけたフリーダ、そして石内さんは他者を見つめて作品にしてきました。このふたりのアーティストのコンビネーション、その組み合わせがすばらしい。このプロジェクト自体がじつにロマンティックなのです」
ギャラリーは十九世紀末に建てられた美しい煉瓦造で、その一階と二階のすべてが会場だ。その展示を石内は丹念にチェックし、変更を指示する。彼女が重視するのは、全体の流れ、動きのある展示だ。展覧会を「ライブ」のようなものだととらえており、会場の雰囲気、壁面、差し込む陽光などの諸条件を活かした展示を毎回考え尽くす。一階の会場には、赤いブーツを履いた義足、皮革のコルセットとグリーンのスカート、マニキュア瓶、たばこケース、ストッキングなど十一点。二階には、紺の長手袋、グリーンの古風な水着、レース飾りなど九点。ゆったりとした空間に配された作品一点一点は、夜八時をすぎても陽が落ちない五月のロンドンの淡い光になじんでいる。それは、パリフォト、ハッセルブラッドセンターとも異なった、「ロンドンのフリーダ」だった。
五月十二日のオープニングはギャラリーの顧客、アート関係者を中心にした来場者であふれ、翌日は石内に撮影を依頼したキュレーター、シルセ・エネストローザとの公開対談が行われた。七十席の予約は告知と同時に満員になり、席を追加しても間に合わなかったほどだった。シルセとの対談で石内は、撮影のいきさつ、撮影を通してフリーダと「出会った」と思えた瞬間などを語った。会場からの質問も多数あり、「ひろしま」シリーズとフリーダとのつながりなど多岐におよんだ。ある女性から、作品を見てとても解放された気になった、新しいフリーダを知った、石内さんのメッセージは何かと問われた彼女は「フリーダのシリーズもこれまでと同様にキャプションを付けていません。私から写真をこう見て欲しいというメッセージはないのです。見ているあなたが決めればいい。私の作品で新しいフリーダと出会ったと感じていただけたなら、とてもうれしい」。
次のテーマを考えていますか、との質問に「アメリカの画家、ジョージア・オキーフです。フリーダを撮ったあとに、考えはじめたのです。彼女は二十世紀アメリカを代表する画家ですが、二十歳以上年上の夫は高名な写真家アルフレッド・スティーグリッツでした。その関係はディエゴとフリーダにも似ているかもしれない。そして彼女は夫の他界後の長い後半生を荒々しい砂漠地帯に暮らし、孤高に生きて作品を描いた、と考えられています。けれど私はオキーフもフリーダと同じように別の側面があるような気がしているのです。ほんとうのオキーフに会ってみたいわ」と話すと、会場から、おおっという声がもれた。それは、石内によるオキーフをぜひ見たいという期待なのだろう。
ちなみにオキーフとフリーダは一九三二年にニューヨークで会っていて、フリーダは彼女との恋愛関係をほのめかしている。オキーフの評伝にも睦まじいふたりの様子が描かれているが、その関係は「短期間で終わった」とされる。それでもフリーダとオキーフは互いに通じ合うものがあったはずだ。そして石内は、このロンドン滞在から約四カ月後、オキーフが暮らしたニューメキシコ州への旅をすることになる。
マイケル・ホッペン・ギャラリーの展覧会は連日来場者でにぎわい、その合間にはロイター通信の取材も受けた。日本語が堪能な英国人記者が「あなたの作品に、日本のワビ、サビの影響はあるのか」と問う。海外ではよく受ける質問だというが、石内は「結果としてはあるのかもしれないわね。私自身はワビ、サビに興味はないけれど、日本人であることは作品に影響しているのかもしれない」。
来場者は彼女に作品の感想を伝えてくる。「とても美しくて言葉にならないわ」と言った女性に石内は「美しいって悲しいものね。人が消えてもモノは残る。残されたモノたちの悲しみなのかもしれないわね」。ロンドンの美術大学でファッションを学んでいるという女子学生は「ひろしま」をテーマに卒業論文を書くと声をかけてきた。石内は「私に質問があるならいつでも担当ギャラリーにメールして」と気さくに応じ、「写真はほんとに世界中に届くのね。写真をやっていてよかったわ」。
ロンドン滞在中の約二週間、ヴィクトリア駅に近い滞在者用アパートに宿泊した石内は、連日のスケジュールをこなしつつ、ロンドンの毎日を楽しんでもいた。スーパーマーケットで買い出しをしてキッチンで手早く料理を作り、ロンドン留学中の日本人女性と友人のモンゴル人を招いたり、友人たちとハイドパークを散歩したり、パブに出かけてビールを飲んだり、石内作品を収蔵する現代美術館「テート・モダン」に親しいキュレーターを訪ねたり、といった毎日だ。マイケル・ホッペン・ギャラリーが出展した「フォト・ロンドン」(会場・サマセットハウス)にも足を運んだ。そのブースに高く掲げられたのは、石内撮影によるフリーダの赤いブーツの義足だった。
滞在中の彼女は疲れをまったく見せず、精神的にも肉体的にもタフな人だ。
「海外へ行くことは多いけれど、どこでも楽しむことにしているの。肉体も精神も健康でいなければと思うのは、それが私の責任だから。写真を撮りつづけていくには健康でなければならないと意識しているのよ。海外のどこでもおいしいものを見つけて滞在中の時間を楽しむの。連日、たくさんの人に会うのも楽しんでいる」
彼女は常に精神状態をフラットにするように心がけているようだった。フリーダを撮影したときにも華やかな伝説にとらわれず、出会った瞬間から対話を重ねることができた理由も理解できる。メキシコでも、一日の撮影が終わればおいしいメキシコ料理、テキーラも楽しんだということを彼女から聞いていたし、帰国後にメキシコで味わい、気に入ったという「モーレ・ポブラノ」(辛味のあるチョコレートソースの鶏肉料理)を石内の自宅でごちそうになったのだった。その料理がフリーダの死の一週間前、生涯最後のブルーハウスでの誕生祝いで招待客とともに彼女が食べた一皿だったと私が知ったのは、しばらくしてからだ。
私はロンドンを離れるまで何度かギャラリーに足を運んだが、そのたびにフリーダの遺品たちが軽やかになっていくように思えてならなかった。遺品そのものではなく、石内との対話がかたちになった写真作品は、フリーダ・カーロ博物館で大切に保管されている遺品自体よりも自由を得ている。フリーダがその生涯に訪れたことのなかったロンドンの街、そこでたくさんの人たちの視線を浴びて、遺品たちがゆっくりと語りだしていくように感じた。「翔ぶための翼があるのなら/足なんて、なぜ欲しいのかしら」と気丈な言葉を残したフリーダ。時を超えて翔ぶ翼、そのひとつは石内都との出会いによってもたらされた。
フリーダの翼はさらに広がろうとしている。
日本で、オリジナルエディションの写真集『フリーダ 愛と痛み Frida: Love and Pain』(岩波書店)が六月十七日に刊行されるのだ。カラー九十八点、そのうち八十四点が『Frida by Ishiuchi』にはない新規収録作品である。
石内は「ドレスや装飾品を中心に構成したが、フリーダの日常のなかでも比較的明るい昼間の時間だとすると、〈フリーダ 愛と痛み〉は、彼女の夕方から夜の時間だといえるのかもしれない。華やかなドレスをまとい、強い印象を周囲に与えたフリーダには、たったひとりで耐え難い痛みの時間を過ごした夜があった。この二冊の写真集によって、彼女の昼と夜がつながると考えた」と語る。
フリーダの痛苦の日常を偲ばせる錠剤、アンプル。熱を計った体温計、そして痛む頭を載せたであろう氷嚢。ホーロー引きの洗面器、室内用便器……。フリーダが生きた日々の息遣いが感じられる品々すべてに、石内の優しいまなざしが注がれている。
写真集の最後に収められたカットは、ショールに包まれたフリーダのデスマスクに寄り添うようにカメラをかまえる石内だ。フリーダが横たわっていたベッドには鏡が付いた天蓋があり、その鏡に映った姿を撮っている。「これはフリーダと私が出会ったことの記念写真。私たちが生きた時代は違うけれど、共通する何かを感じたし、私は彼女に励まされている」と石内は言う。フリーダが日々見つめた鏡に映る女ふたりは、温かな友情を交わしているようだ。
また六月二十八日から、資生堂ギャラリーで、フリーダ・シリーズの日本で初の本格的展覧会となる「石内都展 Frida is」が開催される。
フリーダは、なぜ自画像ばかり描くのかとしばしば問われ、こう答えている。「だって、私はひとりぼっちだから」と。また彼女が書き送った手紙の多くに「私を忘れないで!」という言葉が添えられていたという。けれど、いまフリーダはひとりぼっちではなく、忘れられてもいない。石内との巡り合いは、死後も紡がれるフリーダ・カーロの物語になった。
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与那原恵
ノンフィクション作家。1958年東京都生まれ。『まれびとたちの沖縄』『美麗島まで 沖縄、台湾 家族をめぐる物語』など著書多数。『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で河合隼雄学芸賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(文化貢献部門)受賞。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
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