バシャ、バシャ……。どこからか水のはねる音が聞こえる。
私は夢を見ているのだろうか。バシャ、バシャ。規則的な音だ。私はベッドの中でぼんやりと目を覚ます。あたりはうす暗くて、私はどこにいるのだったか、ほんの少しの間思い出せずにいたけれど、ここはロサンゼルスだったのだと気がつく。ベッドから降りて窓を開けると、まだ明けきらない空の下、プールで泳ぐ石内都の姿がぼんやり見えた。
日中はぎらぎらと太陽が照りつけるロサンゼルスだが、朝晩は思いのほか冷え込む。バシャ、バシャ。石内がひとかきするたびに、はねる水の音。泳ぐ石内を見ながら、彼女は写真という広い海原をひとり泳ぎつづけているのだと、ふと思った。いままでの四十年、そしてこれからも。ゆっくりと朝日がのぼり、プールの水面を淡い光が覆い始めた――。
石内が初めて写真展に作品を出品したのは一九七五年九月のことだった。多摩美術大学のバリケード闘争のなかで出会っていた矢田卓らが結成した「写真効果」の三回目の展覧会(清水画廊、東京・荻窪)である。すでにカメラと暗室道具を知人から譲りうけていた石内は、矢田に「写真効果・3」展に参加しないかと誘われたことをきっかけに撮影旅行に出たと語っている。
「たまたま写真に出会って、撮って焼いてみたら、なにかいろんな自分が抱えている色んな問題や、形にならないものが写真に焼きつけることができるなと思ったの。だからすごい暗室は面白い」と述べ、「写真はたぶん表面ではなくて別のもっと奥が、奥を写すことができるんじゃないか、と。つまり表面しか撮れないけど、実はすごく奥深い何か目に見えないものまで写っているんじゃないのかな、と思ったの」(日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ/石内都オーラル・ヒストリー/二〇一〇年十二月のインタビュー)という。石内が「写真効果・3」に出品したのは、彼女の出生地である桐生を主に撮影したシリーズ「はるかなる間」だった。写真家としてのスタートを切った際に付けたシリーズタイトルが、その後の石内の写真家としての歩みを象徴するように思える。
それからちょうど四十年の歳月が過ぎた二〇一五年九月二十日、彼女はロサンゼルス空港に到着した。
J・ポール・ゲティ美術館写真センターで開催される石内の個展「POSTWAR SHADOWS」(戦後の影)の展示準備とオープニングレセプション出席のためだ。石内にとって米国初の大規模な個展であり、彼女の写真家としての経歴、作品の背景を紹介するとともに、日米の戦後の時間をあらためて見直す機会として企画された。戦後七十年の節目の年であり、「広島原爆投下七十年企画展示」と銘打たれた展覧会開催からはゲティの意欲的な姿勢がうかがえる。
オープニングを迎える日まで約二週間にわたる展示準備の間に石内が宿泊したのはゲティのアーティスト・イン・レジデンスのための一室だった。ゲティが招いたアーティストや研究者の滞在用レジデンスは、一九六〇年代の建築と思われる高級アパートメント風の二階建て、二十メートルほどのプールを取り囲んで二十室ほどあり、石内と担当ギャラリストの綾智佳、そして私に用意された一室はふたつのベッドルーム、広々としたリビング、設備が整ったキッチンがそろっている。到着してすぐにスーパーマーケットで食材やワインを買いそろえ、自炊の日々に備えた。石内は、ほぼ毎朝ひと泳ぎしたあとシャワーを浴び、朝食をすませると、七時四十五分きっかりに車で迎えに来るゲティのアシスタント・キュレーター、アマンダ・マドックスとともに美術館へと向かう規則的な毎日を送っていた。
この展覧会の企画のスタートは、二〇一三年一月、国際交流基金とIZU PHOTO MUSEUMの主催による米国学芸員招聘プログラムの一環として開催されたシンポジウム「1960―70年代の写真を中心に」にアマンダが参加したことにさかのぼる。
全米主要美術館から写真を専門とする十人のキュレーターが参加し、「写真というメディアにおいて世界同時的に多彩な実験が行われた」時代に焦点をあて、日米の専門家がその時代精神を熱く語り合うことを目的にしたものだった。シンポジウムにおいて石内は「From Yokosuka to Hiroshima」と題し、米軍基地が広がる横須賀を撮影した初期のシリーズから、広島原爆資料館の遺品を撮影した「ひろしま」までの作品を紹介しながら、第二次世界大戦とアメリカの占領、そののちも日本には「戦後の影」が残っており、その時代の中で育つということはどういうことなのかを具体的に語ったのだった。
二十世紀のアメリカドキュメンタリー写真を主な専門とするアマンダは一九八〇年生まれ。彼女が活躍するゲティ写真センターは、石内作品三十七点を収蔵しており、日本国外では最大のコレクションとなっている。アマンダは以前から石内作品にエモーション(情緒・感情)がよく表れていると感じ、その独自の作品世界に注目していたのだが、シンポジウムで石内の話を聞き、彼女の創作活動に通底していたのはPOSTWAR SHADOWSだと気が付いたという。
「歴史は戦争によって形作られる面もありますが、歴史が女性の視点で描かれることは少ない。石内さんは写真というメディアを通して、歴史と対話をしてきたのだと感じました。戦争・戦後を女性の観点からとらえ直す展覧会を開きたいと考え、戦後の時代に生まれ、生きた石内さんの人生も紹介するべきだと企画を立ち上げたのです」とアマンダは語る。
二〇一三年十一月、アマンダはパリで「パリフォト」に参加していた石内に会いに行く。石内はこう語る。
「POSTWAR SHADOWSという解釈がとても新鮮でうれしかったですね。今まで私の写真をそのように考えた人はいなかった。戦後七十年をきちんととらえようとする若い女性キュレーターがアメリカの美術館にいるということにも驚いた。とくに<ひろしま>はアメリカの施設としては初めての展示になる。そこに大きな意味があると考えて、展覧会開催を決めたのよ。原爆投下の当事者の国で<ひろしま>はどのように受け止められるのか。様々な論議が起こるのかもしれないけれど、展覧会を企画したアマンダのためにも、ぜひ成功させたいと強く思った」
その後、石内がゲティに赴き、またアマンダが再来日して丹念な打ち合わせがつづけられる。だがこの間の石内は海外渡航が相次いでいた。二〇一四年九月にアメリカ・ニューヨークのギャラリーでの個展と、インディアナ大学での講演をし、同年十一月にはハッセルブラッド国際写真賞受賞の記念展覧会のためスウェーデン・イェーテボリ、さらにパリに向かいパリフォトに参加、講演も行った。二〇一五年五月にはロンドンのギャラリーでの個展が開催されるなど多忙な日々だったが、並行してゲティでの展示作品のセレクション、展示方法の検討、カタログのチェックなどを進めていった。
こうしてロサンゼルスに到着した石内は「緊張はしていない。私は、やるべきことをやるだけ」と語り、翌日からゲティに通い、展示作業に没頭していた。
ロサンゼルスの街を一望できる小高い丘の上に建つゲティ美術館は、広大な敷地に五棟の展示館のほか研究所などが点在するゲティ・センター内にある施設である。石油王と称されたジャン・ポール・ゲティの遺産を受け継いだゲティ財団が運営する。ゲティ美術館は二十世紀以前の絵画、装飾写本、彫刻、工芸品などを所蔵し、その使命を所蔵品の展示、解説、また貸出展示や出版を通して「地元または世界各地から訪れる観客に教育を提供し、楽しんでもらうことにあります」というように、美術教育の場としての機能を自負しており、米国内でも有数の入場者数を誇る。
ゲティ写真センターは二〇〇六年にオープンした。十九世紀からの写真コレクションで知られるが、オープン当初から日本人写真家の収集にも努め、日本人写真家の展覧会は、二〇一三年の濱谷浩・山本桿右展、二〇一四年の杉本博司展、長野重一・瀬戸正人・森山大道・原美樹子の「イン・フォーカス:東京」展が開催されている。
石内はこれまでの海外での展覧会と同様に展示作業に立ち会い、細かな指示を与える。しかしゲティでは展示方法に厳格なルールが定められており、そのルールに則ってばかりでは作品の意図が伝わらないと考える石内と、従来どおり「ゲティ・ルール」を貫きたい主任キュレーターとの厳しいディスカッションが連日つづいていた。
「壁から何センチの位置に作品を展示する、解説文はどこに置くのか、ゲティのルールがあったのね。国内外の観客すべてにわかりやすく見せるためによく練られた展示方法だったけれど、POSTWAR SHADOWSは博物館的に作品を見せるのではなく、未来に向けたメッセージを込めた展示にしたかった。それは私の政治的立場を問われることでもあると思うし、表現が政治的であるのは当然。それで徹底的に話し合ったのよ。激しい議論になることもあったけれど、よい展覧会にしたい、最善を尽くすという気持ちは同じだから、互いに納得するまで話し合った」
この展示作業中、私の立ち入りは許されなかったので主任キュレーターと石内にどのようなやりとりがあったのか具体的にはわからない。ただ石内のランチの時間にゲティ・センターのカフェで落ち合うと珍しく疲れた表情を見せることもあり、神経を張り詰める議論の様子をしのばせた。だが、ランチを終えるころには元気を取り戻し、午後の作業に向かうのだった。
こうした日々にも、国際交流基金ロサンゼルス日本文化センターでの「フリーダ・カーロの遺品」上映会とトークショーを行い、またレジデンスに日本から訪ねてくる学芸員たちと語り合うなど、休む暇はほとんどなかったのだが、朝は暗いうちからプールで泳ぐ日課は変わりなかった。
ロサンゼルスに到着して、初めての週末を迎える。展示作業が行われない土曜から休館日の月曜までを利用して、石内はニューメキシコを旅する予定を組んでいた。画家ジョージア・オキーフが暮らした地を訪れるのだ。
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与那原恵
ノンフィクション作家。1958年東京都生まれ。『まれびとたちの沖縄』『美麗島まで 沖縄、台湾 家族をめぐる物語』など著書多数。『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で河合隼雄学芸賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(文化貢献部門)受賞。
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はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
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