オープニングの翌日、石内は映画監督・脚本家・プロデューサーのウィラード・ハイクと妻のグロリア・カッツが主催する自宅でのランチパーティに招待された。夫妻は「アメリカン・グラフィティ」(一九七三年)、「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」(一九八四年)という世界的ヒット作の脚本を担当、ジョージ・ルーカス監督の補佐役としても知られる。夫妻は石内作品のコレクターであり、石内が一年前に渡米した際にもレストランに招き、ディナーを共にして親しく語り合っていた。
今回のランチパーティは、POSTWAR SHADOWS展オープンを祝して、石内を主賓にゲティ美術館のアマンダ・マドックスをはじめ四十人ほどの客を招いたのだ。夫妻の南欧風の邸宅はプール付の豪邸で、落ち着いたインテリアの各室の壁には見事な写真コレクションが掛かり、森山大道や荒木経惟、木村伊兵衛や若手まで日本人写真家の作品も多数あった。もともと日本映画を調べるうちに日本の写真家に魅せられたというウィラードは、今回の展覧会はほんとうにすばらしいと石内をハグする。広い庭にテーブルが並べられ、ウィラードと石内のスピーチは、アマンダの尽力を讃えることも忘れなかった。ワインやおいしい料理がつぎつぎと振る舞われるなか、テーブルごとに豊かな会話が繰り広げられ、楽しい午後となった。
石内はこう話す。「アメリカは写真家に対する敬意の払い方が日本とは違うと感じるわね。アメリカの歴史や文化を体現する写真、映画をとても尊重している。ヴィンテージプリントの重要性を早くから認識していたのもアメリカだった。今回の展覧会の企画も、そうした写真に対する深い理解があったから。そして女が写真をやることを特別だと考えてもいない。ごく当然だから、この展覧会でも女性写真家だと強調することはまったくなかった。私が厳しくやり合った主任キュレーターやアマンダはプロフェッショナルとして力を尽くしてくれたと思う。オープニングを迎えることができて、今は充実感に満たされている」
その翌日の夜はゲティ美術館で、国際写真センター(IPC)のキュレーター、クリストファー・フィリップスとの対談が行われた。会場は満席だった。クリストファーは石内のこれまでの人生と戦後の日本社会の動き、石内の写真表現に込められた意味を問い、石内が真摯に答え、会場からの質問も相次いだ。
多忙なスケジュールをこなした石内は十月八日にニューヨークへと旅立っていった。私は別の取材のためカリフォルニアに向かわなければならず同行できなかったのだが、石内はニューヨークでロバート・フランクと久しぶりに再会を果たしたとあとで知った。
石内が彼と初めて会ったのは一九九四年秋だ。ニューヨークで石内の個展とグループ展が重なったための渡米だったが、ロバート・フランクに会うことを以前から決めていたという。
「彼の『THE AMERICANS』(一九五八年)に強い衝撃を受けたのよ。私の持っているアメリカのイメージを見事に翻した写真だった。光輝くアメリカはどこにもなくて、何とも哀しく貧相なアメリカ。横須賀で育った私は、アメリカに対するコンプレックスと憧れがないまぜとなった空気を吸って成長して、それを写真に撮ったわけだけど、アメリカにこんな写真を撮っている人がいるなんて。会わないわけにはいかなかったのよ。連絡してみると、思いのほか簡単に会えた。奥さんのジューン・リーフと一緒にレストランで食事をしていろいろ話したけど、その時だったかな、私がI hate America(アメリカが嫌いなの)って言ったのは。ロバート・フランクは、私もそれが始まりだったと言っていた。偶然だけれど、ロバートは私の父と同じ年の生まれで、スイスからアメリカにわたってきたのは一九四七年三月。私は同じ年、同じ月に生まれた。なんだか時間軸が符合しているというか、ともに過ごした気がしている」
その翌年、横浜美術館で「ロバート・フランク:ムーヴィング・アウト」展が開催され、来日した彼と石内は再会する。その時ロバート・フランクは石内に、僕の『THE AMERICANS』好きじゃないんだって、と尋ねたという。それは誤解だと驚いた石内は、私の抱いていたアメリカのイメージを根底から覆した記念すべき写真集なのだと答えたのだ。
「その二日後、彼からファックスが送られてきたの。Are you lonesome tonight? って書いてあった。エルヴィス・プレスリーの〈今夜はひとりかい?〉だとすぐにわかった。もちろん私も会いたいって返事して、横浜を一緒に歩いたわ」
その一年後に石内がニューヨークに三カ月滞在した時にも彼を訪ね、二〇〇九年一月、ワシントンのナショナル・ギャラリーでの『THE AMERICANS』刊行五十周年を記念したロバート・フランク展のオープニングでも会った。ここ数年はニューヨークに行ってもスケジュールに追われる彼女だったが、今回はどうしても彼に会いたかった。
「POSTWAR SHADOWSのカタログを直接渡したかったから。自宅を訪ねると、快く迎えてくれて、じっくり読むから明日もおいでって言われ、また行ったのよ。でも、私たちは写真について話すわけではないの。作品を見ればわかるし、話す必要もない。私が彼に会うのは、何かを確認する感じなのかな。横須賀から始まった私の写真の旅は、POSTWAR SHADOWSまでたどり着いて、これからも旅はつづく。それを確認するためにも、ロバート・フランクに会いたかった。そして今回の展覧会は私の新たな出発なのだと感じることができた。写真を始めて四十年、あっという間に思えるけれど、まだ旅の途中なのよ」
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与那原恵
ノンフィクション作家。1958年東京都生まれ。『まれびとたちの沖縄』『美麗島まで 沖縄、台湾 家族をめぐる物語』など著書多数。『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で河合隼雄学芸賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(文化貢献部門)受賞。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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