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小さい午餐

2019年2月20日 小さい午餐

ラーメン店のラーメン

著者: 小山田浩子

 平日13時過ぎ、初めてのラーメン屋に入った。昼時だと何人かが店の前の丸椅子で待っていることも多いのだが今日は誰も待っていなかった。
 ガラス戸を開けると暖房のだけではない熱気がふわっとこちらにきた。ちょっと鼻に詰まるような甘いデンプンを含んだ湯気の匂いもした。若い女性の店員さんが出てきて私に「おひとりですか」と言った。白抜きで店名入りの黒Tシャツ、バンダナでまとめた髪の毛、化粧気のない頬、まだ10代かもしれない。私ははいと答えた。店内は満席で、私は店を入ってすぐのところにある券売機で券を買って待つよう言われた。券売機には多種のメニューが示され、壁にはメニューを説明する写真入りの張り紙がある。店名を冠したラーメンが先頭に配置してあり、他には真っ赤な辛い味噌ラーメン、味噌ベースではない辛いラーメン、つけ麺、鰹節が乗っかった和風ラーメン、塩ラーメン醤油ラーメン、季節限定と書かれた麺もある。私が張り紙を見ているとドアが開き男性が店内に半身を突っこむようにした。ドア上部につけられたベルがチリッと鳴り頬に乾いた外気が当たった。私は少し体をずらして彼の姿が店員によく見えるようにした。私に声をかけたのと同じ女性店員が、満席なので店外の椅子に座って待つよう指示し男性はドアを閉めた。私は千円札を券売機に入れ店名を冠した麺の発券ボタンを押した。張り紙の写真によるとモヤシが山盛りになった麺で、麺と野菜は大盛り無料で味つけ卵つき850円、お釣りを財布に入れ券を手に細長い店内を見た。入り口からすると右手に厨房左手が客席、全体にあまり広くなく、壁に面したカウンター席と2人がけ4人がけのテーブル席、収容人数は全ての椅子を塞いで16人ほどだろう。休日だと女性客が並んでいるのを見たことがあるが今日いるのは男性ばかりのようだった。スーツ姿、あとは何かの運動部らしい黄緑色のユニフォームというかトレーニングウエア姿のグループがいて2つの4人テーブルを占拠し無言で食べていた。大学生くらいだろうが高校生かもしれないし社会人かもしれない。よくわからない。年々、自分より若い人たちの年齢がわからなくなる。向こうから見たこちらも同じだろう。おばさん、おばあさん、軽く振り返るとガラスのドア越しに3人の男性が座って順番を待っているのが見えた。私がここで券を買っていただけの間に3人、人気店なのだ。すぐに店に入れてラッキーだったのかもしれない。人がたくさんいるのに静かだった。厨房からは金属が触れ合うような音や火の音、水音がかすかに聞こえる。店員同士の声もあまりしない。客も静かだった。緊張感があるというのとは違い、みなそれぞれが食事や調理に集中している感じがする。ラーメンは食べながら語り合うには向かない種類の食事かもしれない。誰かがゲホゲホと咳きこんだ。
 カウンター客の1人が立ち上がった。女性店員がありがとうございましたーと言いながら厨房から出てきた。厨房の中からその声を追うように2人の男性の声がややずれながらございましたー、マシターァ! と続いた。最後の声は煽り上げるような独特の、しかし居酒屋などで聞き覚えがあるような節回しだった。メガネをかけた男性客は椅子の背にかけてあった上着を着てから(前かがみでラーメンを食べていたせいか)ちょっと膨らんだ上半身腹部のシャツを下に伸ばしてズボンに入れこむようにしながら無言のまま私の脇をすり抜けて店を出た。食券制だから会計がないとはいえ、無言無反応はどうだろうと思ったが、マナー違反というほどではないのかもしれない。そういう話題を確かいつか東海林さだおのエッセイで読んだ。あれは立ち食いそばの話だった気がする…店員は卓上を拭き椅子を直し水のポットを持ち上げ残量を確認してから私の顔を見てどうぞと言った。座りながら彼女に食券を渡した。「麺と野菜大盛りもできますがどうされますか」普通でお願いしますと答えた。「味卵無料でおつけできますがおつけしてよろしいですか」お願いします。「ニンニクどうされますか」ニンニクですか?「はい。ニンニク、お入れしてよろしいですか」ニンニクについては掲示がなかった。そもそも、この店のラーメンにおいてのニンニクの位置がわからない。張り紙の写真にもニンニクらしきものは確認しなかった。お入れしてよろしいですか、という問いかけを字義どおりに取るのなら先方は入れたいと思っているということになる。ニンニクが入ってこそのうちの味ですので、お嫌でしたら抜きますけどよろしかったらぜひどうぞという意味になる。「多めとか抜きにもできますが」私はその日人に会う用事はないが家族はいる。保育園に迎えにいけば先生とも話す。あまりな口臭になるのは避けたい、しかし、私はこの店の海抜ゼロの味が知りたいとも思う。ええと、でしたら、あの、普通みなさんどうされるんですか、ニンニク。「あ、人それぞれっていうか…。抜く方も結構おられますし、多めとかもっとっていう方も」ですよね。じゃああの、たとえば普通にニンニク入りのやつを普通に食べたら結構におう、とかですか。「そうですね…まあ普通に」普通ににおうニンニク、彼女はやや困惑した顔で「ニンニク少なめもできますけど」と言った。あ、じゃあ、そうしてください。少なめで。少なめ。「はいかしこまりました。ラーメン、麺野菜普通盛りの味玉つき、ニンニク少なめで」おそらく通常の客の3倍(もっとかもしれない)くらい時間がかかったオーダーの私に彼女はペコンと頭をさげると厨房にそれを伝え、すぐに戻ってきて足元に荷物用のカゴを出してくれた。他の客は手ぶらだったのか、こんなカゴを使っている人はいなかった。私は心からありがとうございますと言ってそこに自分のリュックサックを入れ椅子の下に押しこんだ。私は店で注文するとき、こんな風に他の客より時間がかかってしまうことがある。コミュニケーションに難があるのかもしれないし、読解力がないのかもしれない。
 私の右隣の男性はつけ麺を食べていた。広島風のではないつけ麺だった。写真やテレビでは見たことがあるが、現物を見るのはよく考えると初めてだ。ちょっと興奮した。太い黄色い麺に濁った茶色いつゆ(スープと呼ぶのかもしれない)をつけて食べている。想像より麺が太い。男性はその太くて黄色い麺を、すするというより口元にたくしこむような感じで食べている。あれだけ太かったら唇の筋肉では持ち上げられないのだろう。反対側、左隣の男性は赤いスープのラーメンを食べていた。味噌かそうでない方かはわからない。辛そうでおいしそうだ。顔じゅうに汗をかいている。カウンターで距離が近いのであまりじろじろ見るわけにもいかず、またさっきのニンニクにまつわるやりとりを聞かれていたかもしれないと思うと急に恥ずかしくもなり、私はかがんで椅子の下に入れたカゴを引っ張り出しリュックサックをとって中から本を出しまたリュックサックを戻した。読みかけのプルースト『失われた時を求めて 5 ゲルマントのほうI』(吉川一義訳の岩波文庫版)、なんとなく場違いなような気がするがこの本が場違いでない場所だと私自身が場違いな気がする。1人の男性が立ち上がってごちそーさまー、と言いながら出ていった。ありがとうございましたー、ございましたー、マシターァ。
 1ページも読まないうちに女性店員が私のラーメンを持ってきた。写真の通りモヤシが山盛りで、黄色いキャベツが混じっていて、山のてっぺんにかき氷シロップのように茶色いタレがかけられている。山裾に豚バラのチャーシュー、うす茶色い卵丸ごとが半ばスープに沈むようにして配置、ニンニクは細かいみじん切りで白くかすかに黄色くおそらく生、それが、少なめという発注が通っているのか不安になるくらい、ティースプーン山盛り1杯分くらい、チャーシューと卵と反対側の山裾に盛りつけてある。これで少なめなら普通とか多めとかにしたらどれだけのことになるのだろう。私はニンニクがない方の山裾をほぐすようにしてモヤシを口に入れた。シャキシャキしていた。スープには白い脂身の粒がたくさん浮いてややとろみがある。濁ったスープから麺を掘り出すと黄色くて太くて四角い、さっき見たつけ麺のと同じ太麺だった。人生でこんなに太いラーメンの麺を箸で持ったことがない。噛むと口の中で角角が感じられた。弾力とかコシがあるというのとも違う、噛むとプツンというかブツリというかそういう感触で切れた。噛んでも口の中でつぶれるのではなく固体感というか立体感というかそういう感触が残り続ける。私の両側、つけ麺の男性と辛いラーメンの男性がほぼ同時に立ち上がり店を出た。どちらかがごちそうさまっと大きな声で言い、もう1人はすごく小声か無言だった。ありがとうございましたー、ましたー、マシターァ!、女性店員がきて右、左と席を拭き券売機の前にいたであろう男性をそこに誘導した。右側に座った男性から券を受け取り、「麺と野菜はどうされますか」「麺大盛り、アブラ抜き」油? 脂? 「ニンニクどうされますか」「抜き」「はい。和風ラーメン、麺大盛り野菜普通アブラ抜きニンニク抜き、少々お待ちくださいませ」左隣にも男性、「麺と野菜どうされますか」「どっちも大盛り」「味卵おつけできますがどうされますか」「んー、ください」「ニンニクどうされますか」「あっ、なしで」ニンニクを抜く客も多い…食べているうちだんだんモヤシ退治、麺退治のような気分になった。どんなラーメンでもそういうところはある。丼を見て、また箸の感触で、モヤシも麺もまだこんなにある、と思ってちょっと倦むようないまいましいような感じ、食べたくて食べているのか義務なのかわからなくなるような、すっかり忘れていたニンニクがスープに馴染んで広がって麺にくっついていたらしく不意に歯がシャリっとした。一瞬で口じゅうがニンニクのにおいになった。これは…好きか嫌いか、ありかなしか美味か不味か、成功か失敗か。店の客はどんどん出ていきその度にありがとうございました、ましたー、マシターァ、ごちそうさまと言う客言わない客、ベルが鳴って入ってくる新しい客、減らない麺、モヤシ、ニンニク、あはははは、と、それまでひっそりしていた店内に朗らかな笑い声が聞こえた。「お2人ですか」「ん」「食券お求めになってからあちらのテーブル席にどうぞ」「ほーい」「お前どれにする」「これ」「あ、おれもそれ」「真似すんなよ」「真似じゃねえよ」笑いながらドスンと座った。女性店員が「麺と野菜どうされますか」「野菜だけ大盛り」「あー、おれも」「味卵お入れして大丈夫ですか」「お願いしまーす」「おれも」「ニンニクどうされますか」「抜き」「おれ普通入れで」何屋さんかわからないが同僚めいた口調で喋る、ここから姿は見えないが大人の若い男、片方はニンニクを抜き片方は入れる。注文を済ませた2人は喋っている。「だりー」「今日あれじゃん、タクボさん。聞いとる?」「知らん」「なんか見本持ってくるって。何時つったかな」「見たい見たい。引き止めといておれ席にいなかったら」「はー。でも結局さー、部長が決めんじゃん」「普通っしょ」「ふつーふつー」「あ、そういや、次はあんかけ麺食うって言っとらんかった自分」「あァ? 忘れとったし。次、次」「次は俺もあんかけにしようかな…つうか終わる? 終わってる?」「まだまだっしょ。まだまだ」「まじか」「まだまだまだまだ」「最近春と秋こんよね」「あっても…秒で終わるけ」「秒」全てと言い切るにはスープが濁っていて見通せないが箸でかき回した感触ではほぼ全てのモヤシと麺を食べ終えた。モヤシの先端の黄色い芽が丼に張りついていたので剥がして食べた。退治と思って食べても食べ終えると名残惜しいのがラーメンだ。箸でかき回しても麺はもうひっかからない。もう1口スープを飲みさらにもう1口と思ったがやめた。冷めかけて粘度が増したスープがこげ茶と茶の濃淡に渦巻いて細かいニンニクと脂身の粒が浮かんで揺れている。水を飲むと冷たくておいしかったのですぐにもう1杯注いで飲んだ。ふーと息が出た。卓上にあったティッシュで口と鼻の下を拭き立ち上がり財布を出しつつレジにいこうとしてああ違うんだったと思ってリュックを背負い直したところで女性店員と目があったのでごちそうさまでしたと言った。ありがとうございましたー、ございましたー、マシターァ。いつの間にか店内には空席ができている。一般的な昼時を過ぎたらしい。2人連れの男性のところにはもうラーメンがきていて、前傾姿勢でモヤシが山盛り(何せ野菜大盛り)のラーメンをわしわし食べている。制服らしい全く同じブルーのシャツに紺色のパンツ、似たような太い銀色の腕時計黒い短髪、しかし、このどちらかがありでどちらかはなしだ。店を出て背負ったリュックを前に回してガムを取り出して噛んだ。

庭

小山田浩子

2018/03/31発売

それぞれに無限の輝きを放つ、15の小さな場所。芥川賞受賞後初著書となる作品集。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

小山田浩子

1983年広島県生まれ。2010年「工場」で新潮新人賞を受賞してデビュー。2013年、同作を収録した単行本『工場』が三島由紀夫賞候補となる。同書で織田作之助賞受賞。2014年「」で第150回芥川龍之介賞受賞。他の著書に『』『小島』『パイプの中のかえる』など。

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