考える人

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小さい午餐

2019年1月22日 小さい午餐

居酒屋の日替わり定食

著者: 小山田浩子

 家でする仕事をしている。周囲に高い建物がない田舎のアパートなので窓を開けると風が通る。外の匂いがする。松葉の匂い、冷気に混じった生木の匂い煙の匂い、ツンツンというハサミの音は、近所のあちこちで脚立に乗った庭師が松やクロガネモチやらを切る季節だからだ。こたつが欲しいが部屋が狭いので置いていない。日中はムーミン柄の小さい毛布(スナップボタンで留められる)を下半身に巻きつけている。平日は保育園への送迎以外家にいる。整体師に運動不足だと叱られたので1日2回はラジオ体操をするようにしている。ずっと座っている尻が痛い。ときどきどうにも辛くなる。仕事にも息抜きにも集中できない。部屋が散らかっている。昼になったのに家に残りご飯がない。インスタントラーメンもない。冷凍うどんもないしスパゲティの具もないしオリーブオイルも切らしている。仕事が一段落していたので思い切って外で食べることにした。いつもならそんなことはしない。出先で昼時になったならいざ知らず、お昼のために外出するなんて時間とお金がもったいないしなんだか罪悪感がある。でも今日はそうする。誰かに見られて陰口を叩かれたって気にしない。というか子供を保育園に預けている在宅労働者が外食しているのを見て陰口を叩くような人がいたらその人がおかしいし陰口を叩かれるかもと不安に思っているのも我ながらおかしい。誰だってお昼を食べるし、その場所は自由に決めていい。近所に入ったことのない居酒屋があって、そこがランチ営業をしていたはずだ。確か去年か一昨年くらいの時期にオープンした店で、看板はまだうすら新しいが店が入っている建物自体は古い。2階以上はアパートになっている。だからもともとそこは別の店だったのだろうが、何屋だったのか店の前に立っても全く思い出せない。見上げると2階外廊下のところどころ塗装の剥がれた手すりに明るい色の毛布が2枚並べて干してあった。
 店の引き戸を開けると牛脂が焼ける甘く香ばしい匂いがした。ワイドショーの司会者の声が聞こえた。レジ上、天井間際に据えつけられた小さい薄いテレビの中で司会者が斜めに傾いで台に寄りかかり喋っていた。黒いTシャツ(長袖の上に半袖を重ね着してどちらも黒い)姿の、私と同年代に見える女性がいらっしゃいませと言った。初めて入る店内はカウンターと大小のテーブル席と奥に小上がりというのかちょっとした座敷のような席があった。大きい方の4人がけテーブルに夫婦っぽい中年男女がはす向かいに座り、奥の座敷にも誰かいる気配がした。平日の13時すぎ、店の外観からして、あとは田舎の住宅地の居酒屋のランチ営業という条件からして客がいないのではと思っていたのでホッとした。カウンターに座ろうかと思っていると、店員が窓際の2人がけテーブル席を示してどうぞと言った。座ると座面が暖かかった。ついさっきまで人がいたらしい。むしろ繁盛店だ。卓上のランチメニューを開くと日替わり定食(日替わりおかず2品)、鶏唐揚げ定食、煮魚定食、刺身定食などの定食メニューが写真入りで印刷されている。日替わりが最も安い。定食には小鉢、味噌汁、ご飯のほか茶碗蒸しがつくようだ。茶碗蒸しはうれしい。よく、ランチの寿司などにお吸い物代わりに茶碗蒸しがついてくるような気がするが、普通の定食で味噌汁もある上に茶碗蒸しがあるなんて考えただけで心豊かになる。丼ものもある。天丼、親子丼、カツ丼、それらには味噌汁はついてきそうだが茶碗蒸しはつくのだろうか、写真がなくてよくわからなかった。店員がやってきて卓上を拭き湯呑みを置いた。茶色いお茶が入っていて薄く湯気が立った。「日替わりは、今日は牛ばらと厚揚げの炒め物に鯛の刺身がちょっとつきます」牛ばら厚揚げ炒め、店内のいい匂いはこれかと思った。隣のテーブル席の中年夫婦の前に黒い1人用鉄板が載っかった定食盆がそれぞれ置いてあった。2人はあらかた食べ終えていて、鉄板の上には何かの残骸のような茶色が少し見えただけだった。きっと牛ばらの炒めはこの鉄板に載っかってくるのだろう。私も日替わり定食を頼んだ。日替わり! と女性店員が言い、カウンターの奥の厨房に立っていた、女性とお揃いの黒Tシャツの首元に白い薄いタオルを挟みこむように巻いた男性が頷いて日替わり、と言った。店員は彼らだけのようだった。奥の座敷から、若い女性のキャハハハハ、という笑い声が聞こえた。なにそれー、とかダンナがー、などという単語も切れ切れに聞こえた。若い既婚女性がランチがてらお喋りしているらしい。中年の男女は一言も喋らず、気まずそうででも充足したような、正面ではなくはす向かいに座っているところに何か歴史を感じた。男性は腕組みをして天井を見上げ、女性はテレビを眺めつつ静かに何かを噛んでいる。それでどう思いますナントカさん! ワイドショーの司会者が大きな声で言った。そうですね、と呼びかけられたスーツ姿の男性が喋り始めた。画面にはその人の肩書きらしいものが表示されているのだがよく見えない。丸い眼鏡をかけた肩の分厚い壮年男性で、顔つきや雰囲気からしてタレントや俳優ではなさそうだった。私は持ってきた文庫本を開いた。子供や学生だった頃は片手で読みながら食べて、行儀が悪いと叱られていた。今は料理が運ばれてきたら本を閉じて一生懸命食べる。人が作ってくれたご飯はそれだけでおいしいという言い回しを、かつては押しつけがましくて、あとは暗に作ってくれるだけありがたいけど別においしくはないという含みがありそうで嫌だと思っていたが今は心から賛同する。そこに金銭の授受があったとしても人が作ったご飯はありがたくておいしい。もったいなくて本なんて読んでいられない。座敷から笑い声の主の片方が出てきた。髪の毛を金に近いような茶色に染めた若い女の人、ざっくり開いた襟ぐりから痩せて白い鎖骨が見えている。デニムの腰は思い切り細い。ギャル風と言っても差し支えないような風貌の、でももしかしたらもう2、3人子供がいるかもしれないような雰囲気も漂う彼女は店備えつけの茶色いつっかけを素足に履き手に黄色いタオルハンカチを持ってカウンターが途切れたところにあるくぼみに入っていった。そこに手洗いがあるのだろう。日替わり定食が運ばれてきた。あれ、と思った。鉄板ではなくて普通の皿に牛肉の炒め物が載っている。もやしとニンニクの芽も入っていて、牛肉は黒くしっかり焼いてあって、すき焼きにニンニクと胡椒を加えたような匂いがした。匂いと様子は十分魅力的だったが、てっきり鉄板でじゅうじゅう供されると思っていたので少しがっかりした。大盛りか何かだと鉄板なのか? この店にはああいう鉄板は2枚しかなくて出払っているのか? それとも私が何か侮られたのか? 牛ではなくて先に茶碗蒸しの蓋を取った。何も載っていないなめらかな薄黄色で、付属の竹を模したプラスチック製スプーンでひと口食べると熱かった。ダシのにおい、程良い塩気、茶碗蒸しを自分で作るとまるで味がしなかったりする。食べたときの印象よりたくさんの醤油や塩で味をつけないといけないらしい。調味料の入れすぎを恐れる気持ちを外注する費用も外食費には含まれている。もう具なんてなくていい、卵とダシだけでいいと思っていると小エビが出てきた。かまぼこと銀杏と鶏胸肉も入っていた。私の嫌いなしいたけは出てこなかった。もしかしたら、と私は思った。あの鉄板は全然別のメニュー用で、例えばステーキ定食とかハンバーグ定食とか。そんな定食は掲載されていなかったような気がするがメニューを隅から隅まで見たという確信もない。牛肉の炒め物は甘辛い、見た通りの味がした。魚も、鶏肉も豚肉もめったに食べない馬肉や羊肉もどれも大好きだが、牛肉はやはり違う。牛肉が一番好きという意味ではなく、なんというか舌には牛肉専用の味蕾があってそれが反応しているような感じがする。否応ない。ニンニクの芽もくにゃっと炒めてあるのに芯があって甘い。別に鉄板に載っていなくても熱い、ご飯も味噌汁も熱い。味噌汁は油揚げとねぎと麩、刺身にはわさびに大葉に紅タデもついて舟形の皿ごとひんやり冷え、大豆とさつま揚げ入りひじき煮小鉢も見た通りの味だった。「あ、お茶のお代わりもらえますー?」手洗いから出てきた若い女性がカウンターの中に呼びかけるようにして言った。「あ、はーい、持ってきまーす」「すいませーん」よいしょっというような仕草で、若い女性はこちらを向いてサンダルを脱いだ。女性店員は銀色の魔法瓶ポットを持って厨房から出、小上がりに上半身だけを突っこんだ。デニムのお尻ポケットに何か紙の束が差しこまれている形が浮かんだ。札束に見えた。座敷の奥から、やや低い、でもやっぱり若い女性の声が礼を言うのが聞こえた。「なんか、長居しちゃってごめんねェ」なんとなくこちらも髪を明るく染めていそうな、化粧がより濃そうな、タバコやお酒を好みかつ子供好きでもありそうな。「ありがとねー」「いいえーぜんぜーん。じゃあこれ下げますね。どうぞごゆっくりー」言いながら出てきた店員の手に2枚のくだんの黒い鉄板が載った定食盆があった。鉄板2枚、私以外の全員が何かを鉄板で食べていた。それが今日の日替わりなのなら納得するが、そうでなかったらそんな偶然あるだろうか? それも、一見するとメニューから見落とすような記載をされているメニューが? 私は食べながら肉に一味唐辛子をかけた。お新香は真ん丸い水気の多い真っ黄色い甘いたくあんが2切れ、隣の中年男女の男性の方が突然立ち上がりお金も払わず何も言わず店の外に出た。男性の盆を下げに来た女性店員に「あの人ねえ」と残された女性がこれまた親しげな口調で言った。「熱いの食べて暑くなったから外出てるって、あの人」そんな会話はしていなかったような、2人はずっと無言だったように思ったが店員は何のこだわりもなさそうになるほどー、と返した。「今日でも思ったよりあったかかった。天気予報で思ってたより」「いいお天気ですしねー」「ああ、お腹いっぱい。私のも下げていいよ、ごめんね、私ご飯、今日も減らしてもらえばよかった、ちょっと残しちゃって」「あー、全然、そんな」「ごちそうさま。ご飯、ほら、炭水化物、あんまり食べると、ね?」「ああ、ダイエットですか?」「でもこないだね、テレビで、あたしたちみたい中高年はあんまり炭水化物、抜くと余計太るんだって。抜きすぎると」「あらまー」「控えめね、なんでも、控えめ。ゼロじゃだめ」喋りながら女性は立ち上がった。すかさず店員はレジに立った。「領収書お願いね」「はい……ではちょうど、いただきます。いつもありがとうございます」「じゃあねえ、またねえ!」女性は最後、やや声を大きくして言った。ありがとうございます、と男性店員がカウンターから首を突き出すようにして言い、小上がりの方からもまたねー、と応じるような声が聞こえた気がした。聞き間違いかもしれない。ワイドショーでは元政治家のお笑いタレントが大写しになって、目を見開いて額に青筋を立てるように筋肉を動かして怒っているというよりは、怒っている演技をしているような顔で何か力説している。きゃはははは、と座敷で笑い声が高まった。そんなことしたら、ダンナ死んじゃうじゃん! まじうける。うっける。うけるよねー。私が食べ終えると女性店員がポットを持ってきてお茶を注いでくれた。あ、ありがとうございます。こちらお皿お下げしてよろしいですか? はいお願いします、おいしかったです、ごちそうさまです。熱いほうじ茶を飲みながら次来たとき何食べようか考えている風を装ってメニューを手にとり開くと、果たして一番下に写真なし、文字だけでビーフステーキ定食というのが印刷してあった。1200円、定食では最高値メニューだった。私はややホッとして、でもどこか釈然としない気分でお茶を飲み干し文庫本をカバンにしまって立ち上がった。若い女性2人はまだ話していて、私はお金をレジに置きながらさりげなく座敷の方を見た。さっきの若い女性の正面に白髪交じりのおかっぱ頭で赤い口紅を塗ったおばあさんが座っているのが見えた。え、と思ったが、調理担当の男性がカウンターの奥で何かを冷蔵庫にしまっていた手を止めこちらを向いてありがとうございましたッ、とちょっと怒ったように言ったのでごちそうさまでしたと答えて店を出た。アハハハハー、と若い女性とおばあさんがどちらがどちらかわからない声で笑った。窓のすりガラス越しに、女性店員が私の座っていた卓を拭いているシルエットが見えた。私は自分が何かの団欒に侵入してしまったような気がして、でもそれが割に面白かった感じもして、これからはときどき、月に1回くらいは外でお昼を食べようと思った。帰途の路上、松葉がたくさん落ちていて踏むとちょっときしんで滑って強く匂い今にも1房2房と降ってきて、見上げると脚立に乗って顔も髪も手に持ったハサミも全てが逆光になっている誰かがドウモー、と言いながら軽く頭を下げた。

庭

小山田浩子

2018/03/31発売

それぞれに無限の輝きを放つ、15の小さな場所。芥川賞受賞後初著書となる作品集。

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考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

“Plain living, high thinking”(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

小山田浩子

1983年広島県生まれ。2010年「工場」で新潮新人賞受賞。2013年、初の著書『工場』が第26回三島由紀夫賞候補となる。同書で第30回織田作之助賞受賞。「」で第150回芥川龍之介賞受賞。最新作は『』。

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