國分 大西さんは抵抗の文学、あるいは革命的文学を非常によく読んでいるし、紹介もしている。けれども、日本という抑圧側にいた側の人間がそれをそう簡単にやることはできない。その時に、批評による緻密な作業を経ての、その事実の克服ということが考えられていたのではないか、と。この作業を経た上で大西さんが小説を書けるようになっていくその過程がこの本に現れているということですね。
山口先生もご紹介くださいましたが、「歴史の縮図」って文章を読むと結構驚きます。そこには、戦争の歴史は大きい不幸であったとともに大きい幸福であったし今もあると書いてある。或る意味では非常に弁証法的な思考かもしれません。とにかく戦争に二つの側面があるということを大西さんは強く意識していた。慎重に読むべき文章であり、また非常に読み応えのある文章です。
では続いて橋本さんに発表していただきたいと思いますが、橋本さんのお話は少し変わった観点からのものですね。よろしくお願いします。
橋本 橋本あゆみと申します。今回、山口先生や石橋さんのお手伝いをさせていただく形で、この共編に加えていただきました。こういったトークイベントでお話しするのが初めてなので緊張していますが、ちょっと柔らかめの、大学院でするような研究はそこまで関心がないなっていう大西巨人ファンの皆さんにも楽しんでもらえそうなテーマを考えてみました。『歴史の総合者として』を開いていただきますと、最初から二つ目に入っている短い文章が、「中等入試の不正を暴く」という『九州タイムズ』への大西の投書ですね。そして、この本は批評集なんですが、最後に『奇妙な入試情景』という小説が入っています。本当たまたまなんですけど、本の最初近くと最後が入試のお話になっているんですね。そして大西巨人の文学と運動の中で、非常に大きな出来事の一つに、埼玉県立浦和高等学校に長男の大西赤人さんが入学を拒否された事件が挙げられると思います。偶然が重なってのこととはいえ、「入試」っていうものが大西の文学活動のキーワードとして注目できるんじゃないか、というのが今回のお話の枕です。そこから教養とか、学びに対する大西巨人の考え方にも関しても話を広げていけたらと思っています。
「中等入試の不正を暴く」は、短いのですぐに読めますが、おおよその内容は次の通りです。終戦直後の入学試験では、贈収賄が当然のように横行している。優秀な人だけれども賄賂を贈らなかったから不合格になってしまったという人もいれば、逆に出来が悪いのに賄賂を贈って入学できたような人もいる。これについて「教育の重大さはいふまでもない、将来の国運を誤ることなきやう教育者と父兄の猛省を促すとともに文政当局の果断な改革を望む」と非常に重く捉えている、そういった投書なわけですね。それで、賄賂などの入学不正を考えていくと、浦高事件は大西赤人さんの血友病からくる障がいを理由とする不透明な不合格扱いが第一の問題ではありますが、同時に大西がこの事件を刑事裁判に告訴・告発したときに主張した「情実入学」の疑いともつながってきます。つまり、浦高や教育委員会の関係者が充分な入試得点をとった赤人さんを不合格にする一方で、他を縁故入学させていたのではないかとして、「瀆職の罪」、いわゆる公務員の汚職罪としても糾弾すべきだと言ったのです。これは「中等入試の不正を暴く」での贈収賄批判と共通した問題意識であり、怒りだっただろうと思います。
それに対して最後に収録されている『奇妙な入試情景』は、贈収賄とは少し離れるんですけれども、これも入試の一コマとしてユニークなものが描かれています。ちょっと遠回りをしながら話をつなげていくことになりますが、『奇妙な入試情景』がどういったお話なのか簡単にまとめます。話の中心となる人物が語り手とは別にいて、それは東山太郎という尋常高等小学校に通う10歳ぐらいの少年です。その少年は非常に勉強がよくできます。『神聖喜劇』の主人公、東堂太郎ぐらい頭がよくて、担任のQ訓導(小学校教師)もこれはすごい子だということで、戦前の教育制度の中で認められていた中学校への飛び級入試をやってみないかとすすめてくれるわけです。それで東山太郎は飛び級入学制度を利用するんですけれども、入試当日のユニークな特色というのがこの短編小説の中で語られるんですね。
特色は大体四つに分けられて、一つは飛び級だと学力認定試験を先にやり、そのあと普通の入試をやるので2回も受験が要るということ。次に、10歳そこそこの東山太郎が電車でかなり時間をかけて、たった一人で中学に行って試験を受けさせてくださいと言ったので、中学の先生が戸惑ったというのが二つ目の面白い情景として書かれていました。そしてこれが一番重要かなと思ったんですけど、三つ目として、東山太郎は学力認定試験のときに「面妖な感触」を感じたと書いてあるんですね。変な感じがした。それは何かっていうと、受験者は自分一人だけで、さらに試験問題が、今だったらきれいなプリントでくると思うんですけど、手書きの走り書きだったという。何だこれは、と思うのですが、学力認定試験を受けるわけです。そして、東山太郎は非常に優秀なので回答に要したのは、与えられた試験時間の半分ぐらいだったという情景が四つ目に語られます。
私がなぜ三つ目の、試験問題が手書きだったというエピソードが重要だと思ったかというと、制度としては飛び級入学があるけどどうせ合格しないだろうというような中学校側の態度が、言わず語らずの中にこれに表れているからですね。でも、入学制度として認められているから、ルール上受験はできるわけです。それで、最終的に体の発育はまだあまりよくないけれども、成績は全然問題がないから東山太郎は飛び級入学が許可されるという話になるんです。ちなみに大西巨人も飛び級の試験は受けているんですけど、家庭の事情などで実際には進学しなかった経歴を持っています。話を戻しますと、この建前かもしれないけれど存在する制度に基づいて行動する者が、変わり者のように見られてしまう、正当な権利を行使することに対して変な目を向けられるような現実への違和感が、「面妖な感触」なのではと思います。
でも、建前であってもルールが利用できることは結構大事ですよね。少なくとも、権利を行使できるチャンスがある。そのようなチャンスが確保されている例の一つが、入学試験という規定の点数を取って入学の権利を得る手続きなんじゃないかなと思うわけです。これはデモクラシーの一つの形態と言うこともできるんじゃないでしょうか。実際問題、現在の社会を見ていくと、成績が良くても経済的な事情で進学できない人が残念ながらいます。さらに小説に出てくる旧制の中学校であれば男子生徒しかいないですし、今でも大学以上になると、女性が遠くへ進学することに周囲が反対したり、男兄弟の進学が優先される例がないとはいえません。そういったことで、完全に公平っていうわけではないんですけれども、少なくとも高学力の層では、点数の勝負という一点においては、生まれや階級に関係なく、自己実現ができるチャンスが入学試験の中に担保されていたんじゃないかと思うわけです。
少し前に話題になっていた、J.D.ヴァンス『ヒルビリー・エレジー』(光文社)を読みました。アメリカの話で、貧しい中西部の工業地帯の中から自分の世界を新たに切り開いていくような内容なんですけれども、そこでも未来が見えないような環境を脱して立ち向かっていくにあたって、大学に行くのが大きな転機になっているんですね。そういうことを考えていくと、大西はこの入学試験という仕組みに基本的には肯定的な立場だなと思います。で、浦高の入学問題のときも、受験戦争がかなり過熱していて、問題を議論するときに、受験戦争でこんなにみんな苦しんで批判してるんだ、それなのに浦和高校のような非常にいい進学校に入りたい、わざわざそこじゃなくちゃいけないと大西赤人が言うのは変だ、エリート主義だという声があったんですね。でもそれはやっぱり文脈を取り違えていて、一緒にしてはいけないことです。つまり自分の能力に応じた教育を受ける、勉強することは正当な権利で、受験戦争の問題とは切り分けて考えなければならないことについては、大西巨人は基本的に徹底していると思います。一方で『神聖喜劇』に出てくる厳原閥、中身が伴わなくて学歴を鼻にかけている人たちに対しては、何だこいつらはと軽蔑するわけですね。
まとめますと、貧しくて落ちこぼれるようなパターンには関心が薄い弱点はあるかもしれませんが、基本的には能力のきちんとある人が周りから妨害を受けることなく十全に力を発揮できるようにという論理を、大西さんは持っていたといえます。出る杭は打って、全員を平均化したがる日本では結構珍しいケースで、一つの立場性として私は非常に面白いなって思っています。そして入試と同様に高等教育、つまりインテリ育成に対して、基本的には肯定的であるのも大西さんの特徴だと思います。で、小説の中でも知的な向上心がある人が物語の中でも比較的いい人、善の役割を持っていることが多いようです。
日本近代文学の傾向で言いますと、いわゆる左派の知識人は反インテリとか、インテリコンプレックスに陥りがちだったと思うんですね。もちろんインテリ層には戦争協力してしまったり、粛清的な行為をしてしまったなどの不十分なことがあって、それに対して反省をするのは重要なんですけれども、でもそこで腰が引けすぎて、いわゆる大衆信仰みたいになってしまうっていうのはもちろん問題があることです。そこで大西は、インテリが背負う問題点を引き受けたうえで、「歴史の縮図――総合者として」に登場し本の帯にも引用することになった「革命的インテリゲンツィア」というものになるのだ、という自負を大きく持ったのではないでしょうか。いわゆるインテリコンプレックスに陥らず、問題を引き受けたうえで、それでも知的に戦っていくんだという姿勢は、今言われている「反知性主義」の時代においてちょっとアナクロにも思えるかもしれません。でもだからこそ今、そういう大西の態度を見直すことが必要なんじゃないかなと思いますね。
今回國分さんとご一緒するにあたって、『中動態の世界』(医学書院)を読んで勉強させていただいたんですけれども、その中で、フランスの恐怖政治のことについて最後近くに述べられていました。ルソーやロベスピエールは、大衆というか貧しい人たちは徳が心の中に自然と表れていて、富裕層は自分のことしか考えてないんだ、というような立場を持っていたとありました。そして安楽を知らない貧しい人々っていうのは「共感の能力」を持つというふうに思っていたっていうことを指摘されていて、この辺の論理の流れは、さっき申し上げた、インテリコンプレックスを抱えた人たちが、実態以上に理想化したカッコつきの「大衆」の前で立ちすくむときに、似たような発想になってしまうのではないかと思うんですね。でもそれだと問題点も多くて、知的な分野に得意や役割のある人は、覚悟を決めてその人なりの戦い方、現実への処し方をきちんと考えていかなければいけない。大西さんっていうのはやっぱりそういった立場を持っていたんじゃないかと思います。
大西巨人においての「よき教師」についてもちょっと面白い気づきがあったので、お話ししておきたいんですけども、さっき『奇妙な入試情景』では、Q訓導っていうのが東山太郎の先生として出てきました。また『神聖喜劇』4巻には、冬木照美二等兵に『正法眼蔵随聞記』などの本を与えて勉強しなさいと言ってくれた旧制小学校高等科の恩師、久留島さんっていう人が出てくるんですね。これらは、生徒の資質を見いだして支援してくれるいい先生です。フーコーを読んでると、学校というと規律訓練的な抑圧の場という見方になるんですけど、そうではない学校の一面もあって、軍隊的ではない、非常にデモクラティックというか自由な感じのいい先生像が、ここに出てきてるんじゃないかなと思います。
教養というのは、残念ながらみんなが受け取れるわけではないけれども、「求めよさらば与えられん」というような、自分で頑張って学んでいこうという気持ちがあれば身につけていけるものだというのは大西の文学、また批評の中で貫かれているのではないかと思います。そして教養っていうのは、例えば法律なども大西の文学によく出てきますけれども、そういった実学的なものだけじゃなくて、自分で考えて行動するにあたって無駄にはならないものだと思います。ここでやはり思い出すのは、『歴史の総合者として』に書評を収録したヤン・ドルダの『高遠なる徳義』の先生です。あの先生は最後に非常な危険を冒してでも生徒の前で正しいことをし、自分の信念を貫こうとするわけなんですけれども、彼が教えてる科目というのはギリシャ語・ラテン語なんですね。この小説を翻訳した人は、それは日本で言えば漢文の先生みたいなものだと解説しています。漢文なんてもう、高校生的にはやる気のない科目の筆頭みたいなもので、「何に使うのこれ?」みたいな反応ですけれども、いやそうじゃないんだよ、と。そこに、いわゆる高遠なる徳義、ある真理も込められていて、人生の指針になるものが見いだせるんだということも含めて、もしかしたら大西は『高遠なる徳義』を面白いと思ったのかもしれない、と思いました。
最後に「歴史の縮図――総合者として」についてですが、これはタイトルに取ったとおり、非常に重要なエッセイだと思います。さっき少し國分さんが話をしてくださったように、この文章では負の歴史的経験も含めて「批判的に生かし、押し進めることによつてのみ」次に進むことができるのであり、「真実の革命的インテリゲンツィアとして今後の世界に立たねばならず立ち得る者は、肯定と否定との歴史の縮図であるところの僕たちをおいて他にない」と大西は強調していました。つまりこれは、歴史をきちんと捉えたうえで先に進んでいこうとする、歴史修正主義=歴史の偽造との正面対決と読めるので、1947年の時点から大西の重要な文学テーマはもう出ていたのだと私は思ったわけですね。その姿勢をずっと貫き、知性そして教養を磨き続けていく、一人独立して立っていく個人を良しとするのが大西のスタンスとしてあって、『歴史の総合者として』を今読むことによっても、われわれは力づけられたり、自分はこうしようかなと考えていけるんじゃないかなと思います。長くなりましたが終わります。
國分 どうもありがとうございました。入試というトピックからこんなに話が膨らむんだなと非常に感心しながら聞いておりました! 実に面白い! 補足しておくと、浦高問題関係の文章はこの『大西巨人文選 2』におおむね収録されております。「文部大臣への公開状」「学習権妨害は犯罪である」「『学校教育法』第二十三条のこと」などです。関心のある方はぜひお読みいただければと思います。
まず、大西さんは意外と入試にこだわっている。確かに言われてみればそうですね。それが一点。そしてこの点は、建前かもしれないけど制度として存在するものをきちんと利用する権利という考え方につながっていて、それは実は大西さんの考えていたデモクラシーのあり方を探る上で重要である。
もう一つは、インテリゲンツィアという言葉にかかわってくる論点です。今日何度も言及される「歴史の縮図」ですが、この中で大西さんは、真の革命的インテリゲンツィアとして僕たちは立つと言っている。大西さんには、非常にハッキリとした「自分はインテリゲンツィアなんだ」という意識があった。今の時代だとその雰囲気はほとんど想像できないかもしれませんが、大西さんがそう意識していた時代というのは、「インテリコンプレックス」なるものが存在していた時代なんですね。インテリがインテリであることを恥じる、自分が弱い立場の人々、つまりは労働者の側にいないことに罪悪感を感じる、そういう感情のことです。かつてのインテリにとって、これは真剣な問題でした。今だと、インテリがインテリコンプレックスを持つということの意味が全然理解されないかもしれません。だから、大西さんがインテリゲンツィア宣言をしたのはそういう時代であった、ということはきちんと確認しておかねばなりません。
非常にいい論点を出していただいたと思います。
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考える人編集部
2002年7月創刊。“シンプルな暮らし、自分の頭で考える力”をモットーに、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。
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はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
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手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
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金寿煥
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