世界はオリンピックで浮かれているようだが、俺は不快だ。この暑いのに。そもそも、自分が出場するならまだしも、百歩譲って自分の知人・親族ならまだしも、日本人というだけでなぜその活躍に一喜一憂するのかわからん。がんばっているのは本人であり、日本国じゃないぞ。運動選手と言う者は大概が、「応援して下さる皆様のために」とか言うわけだが、「自分が世界最強であることを示すために」と正直に言ってくれるほうが好きだ。応援があろうがなかろうが、自分に出来ることをするのが大事じゃないのか。その点、内村航平氏の「一番の幸せ者だと思います」という言葉はさわやかだったな。まあ、俺もたまにはテレビ見るわけだが。ともかく、いちいち国家を背負ってほしくないし、応援するほうも知人・親族以外の応援は慎んだらどうか。2020年になると東京でオリンピックをやるらしいが、この騒ぎがすぐそばで起こると思うと気が滅入る。2020年の夏はどこかに疎開しようかな。

 俺がこういうことを言うのは、俺がへそ曲がりであるからだが、じゃあなぜ俺がへそ曲がりのスポーツ嫌いになったかを説明しよう。これまでの連載を読んできた人にはうすうす見当はついているだろうが。俺が育った栃木県足利市上渋垂町は、お寺の庭がみんなの遊び場だった。野球場2面とれるくらいの広さだった。ガキどもは、低学年は「手ゴロ」、高学年は野球をやっていた。手ゴロとは、野球を簡略化した遊びで、ころがしたボール(駄菓子屋で売っていたぺこぺこのボールだ)を手の拳ないし手の平で打つ。ぺこぺこなのであまり飛ばない。ゴロとして転がって行くだけだ。だから手ゴロというのだ。俺はこれが苦手だった。ボールに当たることはまれだし、外れても手の甲をすりむく。守備に回れば、俺はボールをことごとく逃がし、凡打をホームランにすることしばしばであった。

 そのころ俺も人並みに「巨人の星」を少年マガジンで読んでいたから、手ゴロだってうまくなりたかったよ。でもどうしても当たんないんだよ、これが。それにどうしてもボールが取れないんだよ、これが。しかしガキの世界は厳しい。ボールが取れず打てない俺は、「つまんない奴」と評価され、試合に出ることはなくなった。みんなが遊んでいる間、お寺の境内のカマキリやナメクジを見つけて一人遊んでいたんだ。まあそれが今の俺を作ったところもあるからしょうがないな。

 小学校3年になると、今度は野球だ。さすがに軟球だが、当たると痛い。俺は初めてのバッターボックスで、手ゴロと同じ轍は踏むまいと、せめてバントくらいはしようと思っていた。結果、かぶりすぎてしまって、胸に死球を喰らった。塁にでることは出来たが、守りに入ると今度はライトフライを落球した。それ以降ガキどもは、俺に死球を喰らうことを要求した。どうせ打てないんだから、死球喰らって塁稼げと。一方俺は死球が当たった肋骨がぎしぎし痛むので、野球に出たのはそれっきりであった。

 お寺の広場には、時折中学生が来て小さなエンジンがついた飛行機を飛ばしていた。2本のワイヤーで昇降舵を上下させて10メートルくらいの円を描いて飛ばす。Uコンと言う。JS先生からもらった雑誌は、このUコンの雑誌である。俺は野球からは離れ、中学生のUコン飛行機飛ばしを見るほうが楽しかった。

 小学校高学年になると、いよいよ自分が運動音痴であることを自覚することになった。1キロほどの持久走では俺ともう一人太っちょの子供とでビリを競っていた。俺は今でこそふくよかだが、そのころはやせぎすで、体重のせいで遅いのではなく、純粋に心肺機能と筋肉運動に劣っていたのだ。3キロ、4キロと走るようになると、体育の時間は地獄になった。持久走はまだよい。毎回ビリではなく、もう一人の太っちょとビリを争っていたから。でも50メートルや100メートルでは必ずビリだったし、水泳も水に浮かぶところまでしか出来なかった。

 しかしもっとも地獄を感じたのは球技である。ボールの大きさにかかわらず、みんな苦手だった。ボールが飛んでくる、ころがってくる、それら動きのある物体に合わせて自らの行動を調整することなど、俺にはとうてい無理であった。なぜか例の太っちょは球技はうまかったから、俺はほんとにビリだった。なんでみんな物理の勉強してないのにボールが落ちる位置がわかるんだろう。それが疑問だった。密かに微分方程式勉強してたりしたのかよ。仲の良いスポーツ小僧になんでボールが飛んでくる場所がわかるのか聞いてみると、なんとなくわかるという。俺はそれが、なんとしてもわからない。俺のこの症状は一生続くのだと思う。8歳の娘とボールのけりっこをしても、俺は空振りばかりだ。高校生になって物理の勉強をしても、俺は結局ボールを取れるようにならなかった。ボールを投げるのも俺には苦痛で、キャッチボールで俺の相手になった奴にはいつも迷惑をかけた。俺のボールは飛ばない。たぶん離すのが遅すぎるのだ。また、筋力が弱すぎるのだ。わかっていても、今でもやっぱり飛ばず、ボールは2メートルくらいしか飛ばず、地面にぶち当たるのだ。

 中学・高校と、体育の時間の苦しさは増していった。中学に入ると各種スポーツテストというのがあり、俺は中学生の基準にあらゆる面で合格せず、体育の補習を受けさせられたが、やはりできないものはできない。教師も途中であきらめた。クラスの中で俺は、面白いことを言うこと、勉強がそこそこできることで中庸な居場所を確保していたが、体育の時間になると級友たちはみな俺と同じチームになることを避けようとするのだ。俺がミスるばかりに試合に負けると、級友たちは何も言わず黙々と着替えをする。とてもつらかった。わかるか、この気持ち。オリンピックに浮かれている諸君よ。そして中学・高校時代とは、スポーツが出来ない男子には青春はないのだ。仲良くなった女子がいても、スポーツができないことで、彼女たちと「交際」することは全く望めなかった。義理チョコという概念がなかった昭和40年代、バレンタインデーには全くチョコをもらえない俺と、抱えきれない程のチョコをもらう畳屋のせがれIIや毎日遅刻してくるTIなどとは全く世界が異なっていた。俺が好きだった女の子たちも、この日は俺に話しかけず、チョコレートはスポーツ万能の男らに回っていくのである。冷徹な世界であった。そしてそこで俺はどう生きていけるのだろうか、と本気で悩んでいた。つづく