「青春記を書くことになった」と妻に伝えると、「あなたは晩婚だから、ずいぶんと書くことがあるでしょうね」と言われた。晩婚の相手は当の本人なわけだが、彼女は普通の年齢で私と結婚したので、青春が短かったと思っているのだろうか。おお、こう書くと僕が年の差婚自慢をしているように思われてしまう。しかしそれは本意ではない。年の差婚は多くの場合男が年上であるが、それで子供ができると、一緒に遊ぶだけで非常に消耗する。4歳の息子には「パパいつ死ぬの」と悪気なく聞かれるし、7歳の娘とかけっこすると負けるし。先日は食後のイチゴの分割について私が計算間違いをして娘に「ばっかじゃね」と言われた。と、こういうことを書くと「私のこと書かないでよ」と言われる。こういう苦労を言いたかったわけだ。なかなか本題に入れない。
要するに、妻にとっては「結婚するまでが青春」なのであろう。そうだとすると、僕は47歳で結婚したので、小学校高学年から47歳までが青春であり、35年くらい青春がある。還暦近い親父が「まだまだ青春」などと言っていると往生際が悪いように見えるが、いつまで青春であろうと人に迷惑をかけなければ勝手な気がする。さきほど、青春を小学校高学年からと何気なく定義してしまったが、これについても異論はあろう。よく考えてみると、小学1、2年生のころも十分青春だった気がする。そのころから好きな子いたし。
おおそうか、すると他人を意識し、あわよくば仲良くなり、共に時間を過ごしたいと願う時期が青春なのか。なんだか新明解国語辞典みたいだぞ。じゃ妻は僕と結婚した時には青春が終わり、倦怠の日々を過ごしているのか。それも間違っているぞ、たぶん。しかし、還暦近い親父(僕もその一種だが)が「まだまだ青春」などと言うのがなぜ往生際が悪いのかと言えば、それは取りも直さず、家庭を持った者がまだ新たな恋を求めているように聞こえるからなのではなかろうか。でも、新たな恋は求めているだけなら現実には罪に問われないように思うから、一概にその親父が、往生際が悪いというわけではあるまい。
さて、混乱を収拾せねばならぬ。婚姻状態や恋愛可能性で青春を定義してはいけないのではないだろうか。そうであれば、その他の要因で青春を定義しようではないか。突然まじめになると、一部の脳科学者は、青春を「前頭前野の成長が、大脳辺縁系の成長に追いつかない時期」と定義する。要するに、自己制御の能力が、欲望に負ける時期のことを言う。しかし、いちいち脳構造の体積を機能的磁気共鳴画像法によって計測して、君は青春、君は青春終わりなどと言うのも味気ないし、経費がかかるのでこれは却下。それに、人はいつでも欲望に負けるのだから、この定義では青春は死ぬまで続いてしまうのでは。やっぱり却下だな、脳科学的定義は。脳科学って存外役に立たない。
こんなことを書いているうちに連載第1回が半分すぎてしまった。先が思いやられるので、青春の定義は止めよう。だいいち、何かを論ずるのに定義をしてから論ぜよという風潮は僕はきらいだ。学問の、そして人生の重要問題は、定義が出来た時点で実は解けてしまっていると言える。たとえば「こころ」だ。こころって何? これを定義しているうちに、こころの研究は完了するだろう。同じことは「言葉」にも言える。これらの用語は、定義しないで使い始め、用法を通して理解してゆくしかない。そう、青春も同じなんじゃないかな。
というわけで、青春を定義しないでこの連載を始めることにします。しかしそれでは、逆に何を書いてよいのかわからなくなってしまうと思います。そこでこの連載では、小学生、中学生、高校生、浪人を経て大学生までをひとまず青春時代の一部として書いていくことにします。その後のアメリカ留学時代も、青春としては語ることは多いのですが、それはまた別の機会に。
何しろ還暦が近い親父なので、いろいろな思い出がぐちゃぐちゃに混ざっているから、通っていた学校にタグ付けしてこれらを語るしかない。それでも、特に毎日日記を書いていたわけではないので、記憶は勝手に美化されているだろう。つまり、自分の都合のよいように改変されているだろうと思うが、これはどんな青春記だって同じなので仕方あるまい。関係者はそのあたり、黙殺することをお願いします。さらに言えば、たぶん大幅に脳内編集が行われた青春記になってしまうだろう。
で、記述の仕方だが、歴史を語る上で、編年体と紀伝体があることは、諸君は学校で習ったであろう。どちらの方法にも利点と欠点があるが、還暦近い親父の頭の構造からして、編年体は無理っぽいのだ。だから必然的に紀伝体で、しかも思い出した事柄から書いてゆくことになろう。だから毎回時代は飛ぶ。まあ、逆に言えば、気が向いた時に読んでもらえれば、毎回読み切りのつもりで読めるということである。とはいえ、還暦近い親父の言うことなので、これ自体当てにならないが。次回が何の話題になるのか、次回の締め切り間際まで決まらないというスリルのもと、連載を開始させていただきます。よろしく。
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岡ノ谷一夫
帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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