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おかぽん先生青春記

 久しぶりのおかぽん先生だ。私事ながら、とはいえこのエッセイは基本私事なわけだが、この4月に東大から帝京大に異動した。異動の辞は駒場の教養学部報を見てくれ。異動のための引っ越しや各種手続き、各方面へのご挨拶、旧研究室の片づけと新研究室の設置にあたふたとしていた。加えて、なかなか終わらぬコロナ禍と、科学技術によって避けられるはずだった戦争が結局は避けられなかったどころか、ますます残虐化してゆくこと等々で、俺の頭はこんがらがっている。こんがらがった頭で四半世紀にさかのぼるのがなかなかたいへんで、おかぽん先生に戻れなかったのだ。でもなんとか戻るぞ。

 千葉大学着任当時の俺は学生と年齢が一回り程度しか離れておらず、昼から夜中まで研究室にいたので、学生たちも近寄りやすかったのであろう。また、カフェテリアや生協でひとり食事していたので、俺をかわいそうに思ったのかも知れない。少しずつ学生たちと仲良くなってきた。週に一度のゼミの日は、終了後学生たちと食事に行った。近所にはバンビーナ(イタリアン)、キッチン小川(洋食)、北京亭(中華)などがあり、順繰りにそれらを巡ったが、最終的にはバンビーナの大きな柱をぐるりと囲む円卓にみんなで座るようになった。

 これら研究室の学生とは別に、他の研究室の学生まで男女を問わず俺の研究室に出入りするようになった。コンビニでバイトする学生は売れ残りの弁当を持ってきてくれ、おかげで俺の体脂肪率は急激に増加した。俺の居室は常に開放しておいたので、学生が適当に入って勉強したり漫画を読んだりしていた。俺が買った籐のカウチではいろいろな学生が居眠りしていた。他の先生の講義中に具合が悪くなった女子学生が、「岡ノ谷先生の部屋で休みます」と言って講義を抜け出してきたりしたが、俺のキャラなので誤解を受けることはなかったと思う。

 夜中に仕事をしていると突然学生が来てカラオケに行き、そのまま朝まで歌っていたこともある。その後、誰かの誕生日にかこつけてカラオケに行っているうちに、あまりに行き過ぎることが判明した。しかたがないので、月に一度、朝までカラオケをやる会が成立した。だいたい毎月誰かの誕生日だったのだ。おかげ様で俺は、20世紀から21世紀に替わる10年ほどについては、かなりの歌を知っている。そもそも三橋美智也の「達者でナ」を上手くうたうヘンな子どもであった俺は、古賀メロディからaikoまで、幅広いレパートリーを持つようになった。

 俺は基本的には小鳥の歌を研究する男であったが、音声分析技術を買われて、当時の日本獣医畜産大学、現在の日本獣医生命科学大学にも出入りするようになった。おみやげとしてハムスターやスナネズミをもらってくるようになり、俺の居室はエキゾチックアニマルの展示場のようになった。するとそのような動物を愛する学生もわらわらと集まってきて、俺の居室は部室のようになってしまった。いったい何部なんだこれは。みんな動物好きで研究好きな良い学生たちであった。学生たちは俺の部屋で弁当をたべたりスナネズミと遊んだりプラモデルを作ったりプログラムを書いたりしていた。これはこれで、今思うと、知的な環境であった。現在ではこういうことは実験倫理的にも学生との距離の点でも許容されないであろうと思うと、あれらの時間はダイヤモンドであり、うまく言えないけれど俺の宝物である。

 このような雰囲気になったのは、何よりも俺がそのような雰囲気を望んでいたからだ。俺は今もそうだが学生気分が抜けず、というより、学生気分こそが新たな発見をもたらすという、通常とはやや異なる美意識を持っていた。それが正しいかどうかは、その美意識を持つ人の行動次第であり、美意識自体は正しいかどうかではないのだろう。わかってはいるが、今の俺は、あの時間がなければ存在していない。

 多くの学生は、大学に在学する限られた時間に研究に触れ、ある者はそれから離れることができなくなる。ある者は、その魅力を期間限定であるからこそ存分に味わい、研究とは離れた世界に入っていく。今思えば、俺のもとでは思い描いたような研究生活を送れなかった学生もきっといただろう。そのように感じていた学生諸君には心から謝りたいが、それがわかるほど俺は想像力がなく、未熟であった。

 当時の俺は、大学の教師こそ俺の天職であるとひしひしと感じながら、教師である自分と研究者である自分を同一化させることを試行錯誤していた。人格は一つでなければならぬと思い込み、自分はどちらなのか日々問いかけていた。学生が楽しく研究してくれるのが何よりも嬉しい日もあれば、米国の同僚のあっと驚くような論文を読んで、あちらに残ってしのぎを削る研究最前線にいるべきだったと思う日もあった。それでも、学生が幸せで自分も幸せで一流の研究をするという世界を、自分は作れるという希望を持ち続けていた。

 最大の問題は、自分の気の多さだったのかも知れない。あえて他の分野への興味をそぎ落として、たとえばジュウシマツの聴覚フィードバック制御の仕組みに絞っていれば、米国にいる何某の業績は俺のものだったはず、などと意地汚くしみったれた思いに浸る日もあった。しかしそれはごくたまにで、やはり俺はここに骨を埋めて動物の鳴き声のいろいろを知るのがよいのだ、と思う日に流されていった。流されているうちに、いくつかの流木によじ登りかけたこともあった。しかしある流木によじ登ろうとすると他の流木がうらやましくなる俺なのであった。それが俺の芸風なのであり、流されることが悪いことだとは思っていない。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

岡ノ谷一夫

帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。

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