前回はつい調子に乗って書いてるうちに、自分が浪人していたことを忘れてしまっていたよ。高校からすぐ大学に入ったように書いたけど、実は一浪したんだ。浪人っていうと、我ら還暦前後のおじさんたちが思い出すのは素浪人月影兵庫と焼津の半次の股旅物だな。1960年代の大ヒットだ。しかし俺がこのテレビ番組を見てたのは、5歳から8歳くらいのはずなのだが、よく覚えているものだ。兵庫は猫がきらい、半次は蜘蛛が嫌いなんだよな。どちらもろくでなしだが正義感は人一倍強いんだ。いやあ、面白かったな。こいつらは武士だが主君がいないんだよ。だから浪人ね。学生なのに入る大学がないのも、だから浪人ね。

 なんていう話を続けていると、若い読者を失ってしまうから本題に戻ろう。このごろの学生に聞いてみると浪人している奴が実に少ないな。俺たちのころは、浪人しないで青春は成り立たなかった。田舎者の高校生は、浪人して都会の予備校に入り、それから大学生になるんだ。いきなり大学生になったら大事な「さなぎ」時代すっとばすだろが。片平さなぎか。いや、ひとりごとだよ。だいたいさ、浪人専門誌の『蛍雪時代』が愛読書だからな。蛍の光窓の雪だ。付録に加藤諦三先生の小説がついてたりしてな。人生の巨匠だったな。今の蛍雪時代は技術に走りすぎているよ。表紙に美少女載せろよな。

 俺は実は2回浪人している。大学に入るときと、大学院に入るときだ。すごいだろう。高校3年のときは、千葉大法経(笑うなよ)学部と埼玉大経済学部を受けた。あとでちゃんと説明するが、まあそういう実学をやれと親に命じられてたんだ。当時は国立1期校、2期校というのがあって、大学を序列化していたので、2回受けられたんだ。それで俺は2校受けたんだがどちらも落ちてしまった。まあ、大学生活の前に是非浪人したかったんで、それほどショックじゃなかったけどな。とはいえ、「俺、一発で受かっちゃったりして」とか愚かにも思ってたんだよ。まあだからショックだったわけよ、本当は。

 高校3年のときは、勉強と称して主に深夜放送を聞いていた。那智・チャコの金曜パック、林美雄のみどりぶたパックなんてのが大好きでね。那智・チャコで洋楽含めていろいろ聞き、みどりぶたで荒井由実や森田一義(後のタモリね)、山崎ハコ、森田童子など聞いていたから、サブカル的に耳が肥えたもんだ。いっぽう愛川欽也のカトリーヌコーナーではラブレターもらった気分でうっとりしていた。でも読むのは愛川欽也だぜ。それでもうっとりするんだからラジオは不思議だったよ。これらの深夜放送は、うまいことに旺文社提供のラジオ講座の後に控えていたもんだから、親としては俺がラジオ講座で勉強しているところしか見てない。深夜放送の前に寝ちまうからな。お楽しみはこれからだぜ。

 まあ、そんな調子で浪人して、しかも初めての東京暮らしだ。いろんなことがあったが、まずは受験だ。何の受験って、予備校の受験さ。俺の田舎、栃木県足利市には予備校は1校もなかった。東京の予備校に行かないと来年もまた浪人することになる、だからぜひ東京に行かせて下さい、と親に泣きついた。浪人してかつ栃木に住み続けるのは俺的には意味がなかったからな。それで、いずれ東大くらい行くだろうと思って駿台予備校を受けたんだ。ところがなんと! この予備校にも落ちちゃったんだよ。それで、背水の陣で、代々木ゼミナール東大文系コースを受験した。ところがこれも落ちるんですよ。それで、受験なしで入れる代々木ゼミナール国立大学文系コースに入ったんだ。俺の幼なじみのTIは、ちゃんと駿台予備校受かってた。当時の御茶ノ水では、駿台予備校生のほうが明治大学生よりいばってたな。俺は親父に連れられて、代々木ゼミナールの下宿紹介所に行き、代々木まで30分程度で行けた代田橋の下宿に住むことになった。トイレ共同風呂なし月に1万6千円だ。そこは浪人6人と管理人のみの浪人下宿だった。俺は高校ではなかなかまじめにクラシック・ギターの練習をしていたのだが、浪人にはギターはいらないと思ったので持って行かなかった。もちろん浪人にはテレビはいらない。そして意地を張った俺は、ラジオさえ持って行かなかったのだ。持って行ったのは、畑正憲著『ムツゴロウの青春記』だけだった。

 管理人は、「この1年は大切だから、友達と遊ぶ暇はないぞ」と俺を脅すが、親父は平然と、「こいつ友達いないんですよ、だから大丈夫」と言ってのけた。これまでの人生で何回か、そう、夏目漱石の『こころ』みたいに「もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄く照らしました。」みたいな事があった。これはその1つだ。やれやれ、今までの饒舌体が崩れてしまったじゃないか。親父に悪気があるわけじゃないし、俺に友達がいなかったわけじゃないんだ。でも、そうか、俺ってやっぱり友達いなかったのかと思うと、浪人したこと、予備校に落ちたこと、これから浪人下宿で1年過ごすこと、初めての東京でひとりぼっちなことよりも、「親父は俺のことを友達のいない奴だと思っていたのだ、そしてそれはおそらく正しいのだ」という思いが、俺をとてつもなく絶望的にした。同時に俺は、こうなったら徹底的に浪人らしく1年すごしてやろうじゃないか、という覚悟も出来てきたのだった。

 代々木ゼミナールの国立文系コースは実は代々木ではなく原宿にあった。だから俺たちはまず午前中は原宿に行ってコース科目を履修し、午後は代々木で選択科目を履修していた。俺も人並みに親に申し訳ないと思っていたから、食費は一日700円以下を目指していた。代田橋の下宿のそばに「みのや」という定食屋があり、250円から定食を出していた。夕食は基本、みのやの定食であった。朝食はパンと牛乳で100円程度で済んだ。諸君、これは1978年のころなのだ。そして昼食は代々木ゼミナールの立ち食いうどんに天ぷらと卵で200円であった。これである程度精神的余裕が出ると、生姜焼き定食500円也を週に1度くらいは食べてもよいことにしていた。

 俺は中学高校と制服だったので、制服以外の服は何を着ていいのか全くわからなかった。だから、母親が適当にあつらえてくれた服を無批判に着ていた。それに、生姜焼きが500円で食えるのに服は1000円以上したから、到底服を買う気にはならなかった。そういうわけで、足利から東京に出てきた俺は、俺に友達がいないことを見通していた、ないしは思い込んでいた親父から月6万円をもらい、決してそれ以上使うことなく、ほぼ毎日天玉うどんを喰い、浪人らしい生活をしていたのである。つづく