鎖国時代は、数少ない海外への窓口として栄えた長崎だったが、1854年のペリー来航による開国と、横浜や神戸などの開港で “オンリーワン”の存在ではなくなってしまった。
 その一方、1855年には、長崎奉行所西役所(現在の長崎県庁)に、近代航海術や造船、医学などを学ぶ「海軍伝習所」が併設された。港を挟んだ対岸には、実習の施設として「長崎製鉄所」「飽浦(あくのうら)修船工場」が作られ、後に三菱長崎造船所となった。長崎の港に、近代化や産業革命の役割が加わったのだ。貿易の面でも、まだ一日の長があったし、中国における西欧の拠点だった上海との行き来がスムーズなこともあって、明治期までは多くの外国人で賑わった。
 彼らの受け入れは、それまでの狭い長崎の町では到底追いつかず、外国人居留地が作られた。出島から大浦海岸、南山手や東山手一帯が急ピッチで埋め立て、造成され、住宅や領事館、ホテルのほかに、教会までもが建てられたのだ。開国後も禁教令は敷かれていたが、外国人はその”適用外”である。1863年には、大浦の丘で、フランス人のためのカトリックの天主堂建設が始まった。
 カトリックの天主堂、である。
 さらに翌年、カトリックの司祭を乗せた船が、長崎の港に入ってきた。

 禁教によって、壊され、燃やしつくされた教会と、摘発、弾圧され、追放された「パードレ」。どちらも、この町にとって初めてのものではない。まだ毎年正月に踏絵が行われていた町にとっては、いちばん深い部分に封印したはずのものだ。

 天主堂の完成は1864年。表向きは「居留地のフランス人のため」であり、長崎の人たちも「フランス寺」と呼んで見物に訪れていた。しかし居留地でもっとも“日本側”に近い場所に建てられ、正面には漢字で大きく「天主堂」の文字が掲げられていたのはなぜだろう。「ひょっとしたら存在するかもしれないキリシタンの子孫」へ向けたものに違いない。その期待と使命を胸に、フランスからやってきた“パードレ”のプティジャンは、“彼ら”から、あるいは“彼ら”を知る者から話しかけてもらいやすいよう、時にわざと落馬さえしながら、長崎の町を回ったという。

大浦天主堂。正式名称は「日本二十六聖殉教者堂」。二十六聖人が殉教した西坂の丘に向かって建つ


 1865年3月17日のお昼を過ぎたころ、十数名の日本人の男女が、天主堂の門の前に立っていた。プティジャン神父が招き入れ、祭壇に祈りを捧げていると、女性の一人が近づいてきて「私どもはみな、あなた様とおなじ心です」と告げた。
 世界宗教史上の奇跡ともいわれる「信徒発見」の瞬間である。
 女性は続けて「サンタ・マリアの御像はどこ?」と訊ね、神父がマリア像に案内すると、一同は大きな喜びに包まれたという。

大浦天主堂にある信徒発見のレリーフ


 彼らはみな、長崎の町の北部にある浦上(うらかみ)の潜伏キリシタンだった。仏寺に属し、踏絵を行いつつも、キリスト教の信仰を守ってきたのだ。1614年の禁教令を起点とすれば、251年間である。日数にすれば、9万日あまり。ひとりぶんの一生をはるかに超えている。子や孫どころか、曾孫玄孫の人生を足しても届かない。
 キリシタンたちは、なぜその年月を耐え、信仰をつなぐことができたのだろうか。

 1614年の禁教から20年ほどのあいだは、宣教師たちはひそかに活動していたが、厳しい弾圧により、やがて姿を消した。潜伏を選んだキリシタンは“自力”で信仰を守らなければならなくなった。それは単に神さまやイエスさま、マリアさまを信じ、慕うだけでは済まない。洗礼や告解、秘跡などを受ける必要があるのだが、それを授ける司祭の役割は、潜伏組織の中の相応の人物が担った。
 もうひとつ、大きな問題となるのが「暦」である。
 長崎がキリシタンの町だったころから、日々の生活は教会の暦に沿って行われてきた。日曜日を安息日とし、一年を通じて様々な聖人たちの祭日や祝日がある。お正月がマリアさまの祝日になるなど、日本の年中行事を取り込んだ部分もあったが、基本的には、長崎もローマも変わらない。当然のことながら、これは「西暦」によるものなので、当時の日本の陰暦に“変換”しなければならなかった。太陽の運行などについての知識が必要であり、パードレはこれを教える“聖=日知り”でもあった。
 浦上の潜伏キリシタンたちには、「バスチャンの日繰り」という暦が伝わっていた。1634年から35年にかけての教会暦で、伝説の日本人伝道師・バスチャンが、陰暦への“変換法”とともに残したという。これにより、パードレが不在となってからも暦は正確に更新されたのだ。
 それから二百数十年が経った「信徒発見」の日は、イースター前の「四旬節」だった。プティジャン神父をたずねたキリシタンたちは、それを「悲しみの節」と表現し、神父もおなじ暦で暮らしているかを訊ねたという。サンタ・マリアの御像を目にした喜びも大きかっただろうが、遠い海の向こうから船に乗ってやってきた外国の神父が、自分たちとおなじ祝祭や祈りの日々を過ごしているのだと知った時、彼らの胸はどれほど高鳴っただろうか。

 暦を伝えたバスチャンは、こんな予言も告げていた。
 「汝らが七代経た後は救霊が難しくなるが、贖罪のできる司祭が黒船に乗ってやってくれば、いつでも告解ができ、堂々とキリシタンの歌を歌うことができる。」

 「一代」を30年とすれば210年、40年ならば280年。キリシタンたちは、たとえ自分の代では“日の目を見ない”と分かっていても、予言と未来に望みを託して生きた。
 禁教から250年、黒船に乗った司祭がやってきて起こった出来事は「信徒発見」と呼ばれるが、キリシタンにとってみれば、9万日あまりも待ち続けた「予言成就」だった。「七代」に渡る人々が「その時が来れば、すべてが報われる」との思いで、日々の暮らしを積み重ねた結果の奇跡だったのだ。

 その報に接し、外海(そとめ)や五島などの潜伏キリシタンたちも天主堂にやってきた。さらに浦上では、所属の仏寺に託することなく、自分たちで葬儀を執り行うと宣言する者まで現れた。

 しかし、禁教の高札は掲げられたままだった。

 信徒発見から2年後の1867年、最後のキリシタン大弾圧「浦上四番崩れ」が始まろうとしていた。つづく(写真 ©Midori Shimotsuma)