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分け入っても分け入っても日本語

 音の響きの面白いことばです。「誰が犯人かはうやむやになった」「資金の使い道がうやむやにされた」のように使う「うやむや」。国語辞典を見ると、「有耶無耶」という漢字が添えてあります。
「有耶無耶」は、漢文訓読式に読めば「有りや無しや」です。現代語訳すれば「あるか、ないか」。たしかに、「責任がうやむやになる」は「責任があるかないか曖昧になる」ということなので、「有耶無耶=有りや無しや」とのつながりがありそうな印象を受けます。語源に関する本の中には、「『うやむや』の語源は、漢文の『有耶無耶』である」と断言するものもあります。
 しかしですね―話はそう簡単ではないのです。もっとはっきり言うと、「有耶無耶」は当て字にすぎません。「うやむや」の語源は漢文ではありません。
 多くの国語辞典は、「うやむや」が「有耶無耶」から来ていることを否定しません。ところが、『新明解国語辞典』だけは別のことを記しています。初版以来、「『有耶無耶』は、借字しゃくじ」としているのです。「借字」とは、当て字のことです。
 さあ、これで「『有耶無耶』は当て字かどうか問題」が発生しました。
 いちばん注意すべきことは、「うやむや」は、古い例でも、純粋に「有るか、無いか」を問うているものはない、ということです。たとえば、「忘れ物のうやむやを確認する(?)」というような使い方は昔からありません。
 江戸時代後期の人情本「恩愛二葉草おんあいふたばぐさ」では、遊女に入れあげた息子に対し、父親が「その女をめかけにしてもいいぞ」と皮肉を言います。
〈手かけ妾も相談づく、有や無やにさへする事なら、身請けの金はいくらでも、そこは惜しまず出してやる〉
 つまり、「妾の存在を曖昧にしておくなら、身請けの金は出してやる」というのです。ここでは、「うやむや」が「あるかないか曖昧」という意味で使われています。これが「うやむや」の古い使い方で、当初から「曖昧」に重点がありました。
 今日ではなおさらそうで、冒頭に掲げた「誰が犯人かはうやむやになった」「資金の使い道がうやむやにされた」は、どちらも「有るか無いか」には言いかえられません。「曖昧」という意味です。
『新明解』第5版以降では、「うやむや」は「有耶無耶」ではなく、「そうだ」を表す「う」という日本語と、「そうでない」を表す「む」という日本語を続けた、と考えているようです。この「う」「む」という日本語は、「うむを言わさず」という場合にも使われている、とこの辞書は説明します。
 うーむ、どうでしょう。私はこの「う」「む」説を支持することもできません。ほかに類例が見当たらないからです。
 では、「うやむや」の正体は何か。これは、擬音(オノマトペ)と捉えるのが妥当だろうと考えます。
 擬音には、「どたばた」「うろちょろ」「あたふた」「ちらほら」のように、1・3番目の音を変え、2・4番目の音を揃えた形式のものがあります。これをとりあえず「どたばた類」と言っておきましょう。「うやむや」もこのグループの一員で、曖昧の意味を表す擬音だったと考えられます。
「どたばた類」の擬音で、曖昧を表すことばは、ほかにもあります。意味的に最も「うやむや」に近いのは「あやふや」です。これは「あや」「ふや」が合わさったものではなく、「あやふや」全体でひとつの擬音です。「あやふや」「うやむや」と並べてみれば、「うやむや」が擬音であることは自然に感じられます。
 あるいは、少し古いことばですが、「もやくや」(=もやもや)ということばもあります。江戸時代中期の「紅白源氏物語」には、光源氏と王命婦みょうぶとが、互いにはっきり物を言えず、〈心の内にのみ、もやくや、わやわやとして悲しければ〉と記されています。はっきりしない意味を表すことばです。
「うやむや」自体も、「うやもや」(=もやもや)と形が変化することがあります。二葉亭四迷ふたばていしめいの「浮雲」に、〈胸のうやもや、もだくだ〉と出てきます。擬音だからこそ、形が変化しやすいのでしょう。ちなみに、後ろの「もだくだ」は、もだえ悩む様子を表すことばで、やはり「どたばた類」の擬音です。
 擬音には、ときどきそれっぽい漢字が当てられることがあります。
 たとえば、「がたぴし」は「我他彼此」とも書きました。もともと仏教用語で「自分と他人・あれとこれ」を表す「我他彼此がたひし」ということばがあり、音が似ていたので「がたぴし」に当てたようです。
 尾崎紅葉は、「金色夜叉こんじきやしゃ」の中で「じたばた」に「地動波動」という漢字を当てています。「地面が動き、波が動く」という意味を含ませたのでしょうか。
 今日でも、「ずたずた」に「寸断寸断」、「どきどき」に「動悸動悸」と当て字をすることがあります。井上ひさしは「吉里吉里人きりきりじん」「腹鼓記ふっこき」の中で「もこもこ」を「模糊模糊」と書いています。いずれも、まず擬音が先にあって、それに意味の似た漢字を当てたものです。
「うやむや」も同じように考えられます。まず擬音の「うやむや」が先にあって、それに意味の似た「有耶無耶」を当てる場合もあった、ということです。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

飯間浩明
飯間浩明

国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。

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