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分け入っても分け入っても日本語

 日本語の「林」と「森」は、どこが違うのでしょうか。
 それを考えるとき、つい、漢字の形を手がかりにしたくなります。「木」が2つの「林」に対して、「木」が3つの「森」。数学的には、林より森のほうが大きい。そう考えるのが自然のようにも思われます。
 でも、漢字はあくまで中国の文字です。日本語の意味は、漢字とは別に考えるべきです。本来、日本語の「林」と「森」の違いは、規模の違いではありませんでした。
「ああ、聞いたことがあるような気がする。『林』と『森』は形状が違うんだっけ。でも、漢字では、『林』よりも『森』のほうが『木』が多いのは確かだよね」
 そう言う人もいるでしょうか。でも、漢字においても、やはり、「木」の本数の違いが規模の違いを表しているわけではないのです。
 中国最古の字書『説文解字(せつもんかいじ)』を見ると、「(りん)」は「平地に群がった木」、「(しん)」は「木の多い様子」と説明されています。ここで注意してほしいのは、「林」の字は「群がった木そのもの」を表すのに対し、「森」の字は「木の様子」を表すということです。
 つまり、「林」は名詞的、「森」は形容詞的な意味の漢字です。木が多い少ないではなく、観点がそもそも違うのです。
「林」が後ろに来る漢字熟語を見ると、「樹林」(木の林)、「梅林」(梅の林)、「緑林」(緑色の深い林)…などがあります。もし、これらの林がより大規模になったら、「樹森」「梅森」「緑森」…になるかというと、ならないんですね。
 漢字熟語では、規模の大小にかかわらず、木が集まった地帯は「林」で表します。たとえば、「原生林」なんかは、かなり大規模なものですが、やっぱり「林」です。
「森」が後ろに来る漢字熟語としては、「陰森(いんしん)」(木が薄暗く茂る様子)、「蕭森(しょうしん)」(木の多い様子)などがあります。いずれも様子を表しています。
 ひるがえって、日本語の「(はやし)」「(もり)」はどうか。ここからは、漢字(すなわち中国語)を離れて考えることにします。
「林」は、「()やす」の名詞形「生やし」から来ています。木をたくさん生やしてある所だから「はやし」です。これについては、異論はほぼ出ていません。
「森」は、「()る」の名詞形「盛り」から来たと考えていいでしょう。古くは、鎮守の森など、木がこんもりと盛り上がって茂っている所を「もり」と言いました。
 鎮守の森、つまり、神社の森というのは、規模の小さいものが普通です。田舎道を歩いていると、広々とした田園風景の中に、1か所だけ木々が集まって小高くなっているのを見かけることがあります。「あの中に神社があるらしいな」と分かります。この規模でも「森」と言うのです。
 奈良時代の「万葉集」を見ると、「森」ということばは、「石瀬(いはせ)(もり)」「石田(いはた)の社」「浮田(うきた)の杜」…など、ほとんどは神社の森の意味で使われています。中に1例だけ、それ以外の森が出てきます。
(あさ)()なわが見る柳うぐひすの()()て鳴くべき森にはやなれ〔=毎朝見ている柳よ、ウグイスが来て鳴くような森に早く成長してくれ〕〉
 ここに詠まれている柳は、何本なのか分かりませんが、作者のイメージする柳の森が大森林でないことは確かです。おそらく、庭先に収まるような、こぢんまりとした森だろうと思います。
 古代の森がこんもりと小高くなっているところから、「山」を意味する古代朝鮮語と結びつける説もあります。朝鮮語の古語で、山のことを「메(メ)」「뫼(ムェ)」と言います。そのさらに古い形が「모리(モリ)」だったと推定し、それと日本語の「森」を同源と考えるのです(大野(おおの)(すすむ)説)。
 ただ、現在のところ、日本語と朝鮮語の単語の対応関係はほとんど明らかになっていません。古代朝鮮語に「モリ」という語があったか、またそれが日本語に入ってきたかどうかは、分からないとしか言えません。ここでは深入りは避けておきます。
「万葉集」に詠まれた「林」は、「森」に比べて変化に富んでいます。「竹の林」もあれば、「(たちばな)(ミカンの古名)の林」もあり、つむじ風が吹き荒れる「冬の林」も出てきます。さらに、柿本(かきのもとの)人麻呂(ひとまろ)はこんな歌も詠んでいます。
(あめ)の海に雲の波立ち月の舟星の林に()(かく)る見ゆ〔=空の海に雲の波が立ち、月の舟が空を進んで、星の林の中に入っていくのが見える〕〉
 空の星を林に見立てています。壮大なスケールですね。「万葉集」にはこんなSFファンタジーのような歌もあります。
「万葉集」の中では、「林」より「森」が大きいということはありません。「森」が神社の境内に止まるのに対し、「林」は、歌によっては、かなり広い場所を指します。
 一方、現代の私たちは、「林」より「森」が大きいと、ぼんやり思っています。漢字の「林」「森」の形に影響された面もあるでしょう。また、英語でwoodとforestに規模の違いがある(後者が大きい)という情報にも影響されているかもしれません。
 ただ、現代、たとえ木が広範囲に生い茂っていても、樹間が広くて、木の間から明るい日差しが降りそそいでいる場合、「森」よりは「林」と呼ぶのがふさわしいように思います。これは私の語感です。
 現代語で「森」と呼ぶためには、こんもりと盛り上がって暗い、という条件が必要ではないでしょうか。そこに、昔の鎮守の森以来の意味が残っていると感じます。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

飯間浩明
飯間浩明

国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。

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