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分け入っても分け入っても日本語

 日本文化の精神を語る上で、「わび」「さび」という用語ほど、重要で、しかも意味のよく分からないことばはありません。日本人であっても、「わび」と「さび」がどう違うのか、明確に説明せよ、と言われたら困るでしょう。
 意味が不分明なために、たまに謎の用法にもお目にかかります。
〈「ホームページを立ち上げる」なんていう物言いには、どこか「茶の湯の炉に火を入れる」みたいな、無機的なモノをむりやりワビサビを効かして表現してみました…というような、アンバランスなおかしみが感じられる〉(『週刊文春』1996年7月25日号)
 昔の雑誌記事です。「すしにワサビを利かせる」なら分かるけれど、「わび」「さび」というのは、はたして利かせられるものなのか。ここで言う〈ワビサビを効かして〉は、単に「風流に」ぐらいの意味でしょう。
 あるいは、男性タレントが、ツクツクボウシの鳴き声について説明した時のこと。鳴き声がイントロ・サビ・エンディングに分かれると言って、こう続けました。
〈ものすごい、こう、ワビサビがはっきりした鳴き声を持つという…〉(NHK「あの日あのときあの番組」2017年7月9日放送)
 歌の聴かせどころを「サビ」と言いますが、それ以外の部分を「ワビ」と言うのか。言わないでしょうね。ここでは「めりはり」の意味で使っているようです。
 いや、笑えませんよ。私たちも、「わび」「さび」がどんな意味か、はっきりとは分からずに使っています。
 「わび」と「さび」はどう違うのか。文学辞典の類を見ても、よく分からない記述が目立ちます。たとえば、こんな具合です。
 〈「さび」とは閑寂の趣を帯びるに足る長い時間の経過のなかで、無限に自己自身にかかわっていって「わび」「寂寥(せきりょう)」に徹した人が、そこから四囲をふり返ってみたとき、すべての物が虚仮の相を()がされてその本質を顕現させる、そのことを「さび」ということになろう〉(『’88五訂増補版 文芸用語の基礎知識』)
 ―さっぱり分かりませんね。これでは、ことばの意味の説明とは言えません。
 「わび」「さび」を文学的、芸術的に説明しようとすると、つい難解な表現になるようです。〈わび(侘び)は〔略〕簡素閑寂の心境に至ろうとする美的理念〉〈さび(寂び)は〔略〕静寂枯淡に洗練された情緒をこころざす美的理念〉(『俳句用語の基礎知識』)のように、「閑寂」「枯淡」などの語を使った説明も多く目にします。でも、その「閑寂」「枯淡」が分からない。かえって難しいことばになっています。
 一般人としては、ある茶器や俳句、絵画、庭園などを表現するとき、「わび」と言えばいいのか、「さび」と言えばいいのか、それが知りたいわけです。実際の生活で使えるように、「わび」「さび」の違いを説明することはできないでしょうか。
 確実に言えることは、「わび」は「わびしい」「わび住まい」などの「わび」と共通し、「さび」は「さびしい」の「さび」と共通するということです。つまり、ざっくりと、「わび」は「わびしい感じ」、「さび」は「さびしい感じ」と解してかまいません。
 ただ、それだけでは、意味の限定が非常に緩くなってしまいます。たとえば、友だちがいなくてさびしいという気持ちは、「さび」ではありません。
「わび」は、特に茶道で重んじられることばです。江戸時代初期の小話集「醒睡笑(せいすいしょう)」などに、千利休が「わび」を説明するのに使ったという和歌が紹介されています。
〈花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春をみせばや〉
 藤原家隆の歌です。「桜の花の咲くのだけを待っている都の人に、わびしい山里の雪の中から()え出る草の春を教えてやりたい」ということ。
 ここには、「わび住まい」と言う場合の「わび」の感じが強く出ています。「わび住まい」とは、わびしく住んでいること、言い換えれば、豊かな蓄えもなく、ひっそりと住んでいることを言います。作者は、華美な生活を離れて、質素に暮らす様子を詠みながら、その暮らしの中に味わいがあることを表現しています。
 つまり、「わび」をひとことで言えば、「質素でさびしい中に感じられる味わい」ということです。
 一方、「さび」は、特に俳諧で重んじられることばです。松尾芭蕉(ばしょう)の門人・向井去来(きょらい)の「去来抄」の中で、「さび」がどんなものかが説明されています。
 去来によれば、「さび」とは単にさびしいだけではありません。老人が、たとえ戦場で派手に戦ったり、立派な着物を着て宴席に座ったりしていても、そこには隠しようもなく老いた姿がある、それが「さび」だと言うのです。
「去来抄」では〈花守(はなもり)や白き(かしら)を突き合はせ〉という句が紹介され、松尾芭蕉が「この句に『さび』の色彩がよく表れている」と言ったと記されています。
 句の意味は、満開のきれいな桜の下で、花の番人同士が白髪頭を突き合わせて何か話している、ということです。華やかなものとの対比で感じられる、老い果てた者たちのものさびしい感じ。これが「さび」です。
 つまり、「さび」をひとことで言えば、「古びてさびしい中に感じられる味わい」ということです。
「わび」も「さび」も、さびしい中に感じられる味わいを指します。ただし、「わび」は質素、「さび」は古びているという要素が、それぞれ特徴と言っていいでしょう。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

飯間浩明
飯間浩明

国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。

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