一八八四(明治一七)年、天心はフェノロサの通訳として調査のために法隆寺にいた。フェノロサは寺側に夢殿に収められている仏像の公開を求める。しかし、寺院はそれを容易に受け容れない。理由はその仏像が秘仏であること、さらに僧侶たちは封印を解くと雷が落ちると信じていたのである。根拠がないわけではない。明治の初めに開示を強要されたときには雷鳴が轟き、秘仏の公開が取りやめになったことがあった。
 ここに収められていたのが救世観音である。天心の生涯が論じられるときには決まって言及され、近代化に伴う伝統美の発見を象徴する逸話として取り上げられる。当時の日本は迷信的で自分たちが何を蔵しているかを知らなかった。それをフェノロサという外国人が明らかにしたという物語になっている。
 秘仏の公開に立ち会った経験は、天心にとっても格別な出来事だったようで、「一生の最快事なり」と語ったという記録が残っている。それは若き天心が東京美術学校で行った講義においてだった。だが、そのほかにはこの秘仏の公開に関してほとんど言葉を遺していない。
 講義では、秘仏であったゆえに、同時代のものと比しても、美の質をよく保つことができたと述べ、学生たちにも「好機会を得ば必ず一見すべきなり」とその像にふれることを強く勧めているが、この仏像が何を象徴し、何を体現しているのか、その芸術的、かつ霊性的意味をめぐって語ることはなかった。彼がペンを執ってそのことを書き記したのは『東洋の理想』における次の一節だけだ。
 その姿を天心は、「釣合いはかならずしもみごとではない――手や足の大きさは釣合いを失しているし、目鼻立ちはほとんどエジプトの彫刻に見るような硬い静けさを持っている」と述べたあと、こう続けている。

 とは言え、これらの欠点があるにもかかわらず、われわれはこれらの作品の中に、偉大な宗教的感情のみが生み出し得たと思われるような、高度の洗煉と純潔の精神を見出すのである。すなわち、神性は、国民の自覚のこの初期の段階に於いては、近づきがたい、神秘的な抽象的理念のように思われたのであり、そして、その自然らしさからの(へだ)たりですらが、かえって、芸術におそろしい魅力を与えているのである。(飛鳥時代)

 この像は、聖徳太子の姿を象ったものだという説がある。しかし天心はそうした伝説にはほとんど関心を示さない。伝説の彼方に――あるいはその淵源に――「宗教的感情 great religious feeling」の表出を認め、そこに畏怖の美(awful charm)というべきものの具象化を見ている。天心にとって美術に託されたもっとも重要な使命は、見えないものに姿を与え、人とその明示しがたいものとの交わりを実現することだった。
 そうした試みがすでに飛鳥時代に日本文化を礎にしつつ試みられているのに、天心は注目する。彼がこの仏像に見出しているのは畏怖という根本的な宗教感情の発露である。恐怖によってではなく、畏怖と畏敬によって超越者と交わるとき、その文化の霊性が目覚める。天心にとって救世観音が重要だったのは秘仏だったからではない。それが美の霊性の覚醒を告げ知らせるものだったからである。
 先の一節で「神性」と訳されているのはdivinityという英語だが、ここでは「神威」と訳した方が、天心の語ろうとする美の力動性(ダイナミズム)を含意できるのかもしれない。神威は、神の威力、大いなるもののはたらきを意味する。この本で天心は、自らが考える美術のはたらき――美の神威をめぐって次のように述べている。

〔美術は〕宗教の一瞬の静止、あるいは、愛が、無限なるものを求めて行く巡礼の途上に於いて、半ば無意識に足をとどめ、成しとげられた過去とほのかに見える未来――夢のような暗示で、それ以上に確固たるものではないが、それは霊の暗示であり、気高さにおいてそれ以下のものではない――を凝視するために低徊(ていかい)する瞬間となるのである。(明治時代)

 美の眼目は聖なるものの一瞬をこの世に刻むことにある。それは至高の愛、永遠なるものの現われとなり、さらに無意識によって時間の彼方を瞥見するための扉になる。そしてついに「霊の暗示 the suggestion of the spirit」の表現とならねばならないと天心はいう。
 ここでの「霊」を孔子は天と呼び、老子は「道」といい、仏教においては「空」の名をもって呼ばれ、キリスト教ではそれを「神」と名づけた。『東洋の理想』で天心が語ろうとしたのは、日本の美術史であるよりも、日本における美の霊性史だった。それは、美の門を通じて人間が超越者といかに交わってきたのかの歴程であり、人はいかに美に慰安と救済を見出してきたかの軌跡だともいえる。
 美と霊性あるいは美と救済を論じるのは『東洋の理想』固有の主題ではなかった。先にふれた『日本美術史』においても天心は「美術の霊妙なるものは、推古朝以来、徳川以前にいたり、もって今日におよび、皆仏教に関係あるもの」であると述べ、同質の態度を示している。
 夢殿を開扉し秘仏を拝したとき天心は二十三歳、『日本美術史』に収められた最初の講義を行ったのは二十九歳、『東洋の理想』の刊行は四十二歳のときである。天心の美の探究においては、その初めから仏教が深くかかわっている。インドへの旅はそれをいっそう強化した。彼がヴィヴェーカーナンダと、釈迦が悟りを開いたブッダガヤを訪れたことは先にみた。
 美術史の研究は天心の時代と比べても格段の発展を遂げている。しかし、天心が試みた美の霊性史は、ほとんど手つかずのままだ。天心は仏像を論じつつ、そこに民衆の心情が収斂されているのを見ただけではない。そこに今に大いなるもののなまなましいまでの現前を感じている。
 彼にとって歴史と向き合うとはそのまま未来へと通じる道に立つことを意味した。未来への扉を開ける鍵は「歴史」に潜んでいる。それが天心の確信だった。「過去の影は未来の約束」であると書いている。「いかなる木も、種子の中にある力以上に偉大になることはできない。生命はつねに自己への回帰の中に存する」ともいう。さらに天心は歴史に未来への鍵を見つけようとする情動は、一種の「本能」であるという。

 われわれはわれわれの歴史の中にわれわれの未来の秘密がかくされていることを本能的に知っており、われわれは盲目のはげしさをもってその糸口を見出そうとしてまさぐっている。しかし、もしこの考えが真実であるならば、もし実際にわれわれの過去の中に新生の泉がかくされているならば、いまこの時、それは一大強化を必要とするものであることを、われわれは認めなければならない。と言うのは、近代的俗悪の焼き焦がすがごとき旱天(かんてん)が、生命と芸術の咽喉(のど)をからからに(かわ)かしているからである。(「展望」『東洋の理想』)

 食物が身体の糧であるように、美は魂の糧である。肉体が飢え、渇けば人は食物を、水を切望するが、魂が飢えても、人は食べ物を求めるように美を求めることはない。しかし、水を摂らなければ渇きが癒されることがないように、美にふれなければ心が、魂が満たされることはない。押し寄せる近代化の波は美の霊泉にふたをした。それを取り除かなくてはならない。美しいものを鑑賞するためでなく、今を生き抜くためにも歴史に還らなくてはならない。
 この本は次の一節で終わっている。

 内からの勝利か、それとも外からの強大な死か。

 霊性の危機が迫っている。歴史に今を生きるための「美」の命綱を探せ、と天心はいうのである。