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石内都と、写真の旅へ

2017年11月2日 石内都と、写真の旅へ

横浜篇――建物、人間の忘れ物 その1

著者: 与那原恵

 石内都と桐生を旅してから四か月が過ぎた。この間の石内は、横浜美術館で開催される個展「石内都 肌理と写真」(二〇一七年十二月九日―一八年三月四日)の準備に多忙な日々を送っていた。彼女の初の個展「絶唱、横須賀ストーリー」(一九七七年)から四十年の節目の年に、初期から未発表作品にいたる約二百三十点が展示される予定だ。

 石内は多くの作品を、横浜市金沢区の実家に作った暗室でプリントしている。彼女は展覧会に向けて、「暗室から生まれた写真はヴィンテージプリントとなり、時間と空気をたっぷり吸って粒子の粒を際だたせる。横須賀からスタートした写真の行方は、固有の気風をのせて歴史と身体と遺されたもの達が一体となり、肌理(きめ)を整え、未来へ向けて発信する」(横浜美術館HP)と述べ、横浜の地でプリントした写真が数十年の時を経て、横浜美術館で展示されることに感慨を持っているようだった。

 石内は語る。「横浜美術館の展覧会のために、収蔵庫におさめたままにしていた作品を調べてみたのね。未発表の作品や、展覧会に出品したものの写真集にまとめなかった作品がたくさんあることに自分でも驚いた。今回展示する作品の約半分が横浜で撮った写真になるけど、とくに建物が多かった。一九七〇年代から八〇年代にかけて撮影した建物や、その周辺は、いま、どうなっているのか見てみたくなった」。

 こうして、夏も終わろうとする二〇一七年九月初旬、石内と私は黄金町駅(横浜市)で待ち合わせをし、石内の写真に残された一帯を歩くことにしたのだった。

 彼女は写真を始めて間もない時期から建物に惹かれていたという。初めて写真を発表したグループ展「写真効果・3」(一九七五年秋)に出品した「無効の闇」シリーズは、横浜市の自宅周辺や都内などの風景を撮影しており、どこかさびれた町の一角で置き去りにされたような建物がつよい印象を与える。

 写真集第一作の『APARTMENT』(一九七八年)は、都内各地と横浜の古びたアパートの外観や内部、住人たちを撮った作品で構成された。アパートにカメラを向けた理由を彼女はこう話す。

 「私が十九歳のときに父が建てた家に引っ越すまで、横須賀の六畳一間に家族四人で暮らしていたからね。父としては仮住まいのつもりだったのが長くなってしまった。その体験が大きい。アパートというのは大半の人にとって仮住まいで、いろいろな人たちが一時期暮らし、そして立ち去ってしまう。だけど、古いアパートってなまめかしい。ここには人間の忘れ物がいっぱいあるな、と感じたのよ」

石内都「Apartment#45」©Ishiuchi Miyako

 また『APARTMENT』以前にも、写真集としては二作目になる『絶唱、横須賀ストーリー』(一九七九年)にまとめられるシリーズを撮っており、そのときの撮影地に横須賀の旧赤線(公娼)地域も含まれていた。

 「横須賀の旧赤線は、高校の通学路の一角にあって日本人相手の商売をしていた。私が好きになれずにいた横須賀の光景として、当然撮らなければならなかった。大人たちが声をひそめて話す赤線、そこがどんな場所なのか、当時の私は知らなかったけれど、若い女が立ち入れない雰囲気を漂わせていた。だけど、私と無関係な場所だとは思わなかった。さまざまな事情によっては、私がここで働く女になっていたかもしれない、そう感じていた。『APARTMENT』で木村伊兵衛写真賞を受賞して、『アサヒカメラ』に新作を発表することになり、それで前から考えていた旧赤線地域を本格的に撮り始めたのよ。そもそもは古いアパートを撮っているときに、赤線に出会っていたのね。古いアパートで、かつて遊郭として使われた建物が転用されたケースが少なくないのは、客相手の個室があったから。不思議な形のアパートだなと思うと、もとは売買春の場だった。それで、そのアパートが建つ一帯が昔の赤線だったとあとから知ったのよ」

 のちに『連夜の街』(一九八一年)としてまとめられる遊郭の撮影を始めたときに再訪したのが、「無効の闇」で撮っていた武蔵新田(東京都大田区)の古いアパートだ。その建物がなぜか気になっていた石内が訪ねると、この家に嫁いできたという人が親切に応対してくれ、一帯がかつて赤線であったこと、いまはアパートとなった建物もかつては一階がダンスホールと帳場で、二階に六部屋あったという話を聞かせてくれたという。そうして石内は、全国各地の遊郭街とその跡を訪ねてカメラにおさめた。快く撮影させてくれた人もいれば、遊郭だった建物の来歴について口を閉ざす人もいた。石内はそのときの感情を綴っている。

 「なぜこんな所につっ立っているのか、何をしにここへ来たのか、朦朧とする意識と胸につかえた悪感とが、嫌というほど自分の女性性を明らかにしていく。こんなはずではなかった。写真を撮りに来ただけなのに、居るはずのない女達が、壁の染みから、柱の陰から、階段のテカリの中からゾロゾロと現われてくる」(石内都『モノクローム』一九九三年)

 タイルで装飾された柱や玄関、丸窓、広々とした階段、崩れかけた天井…。ざわめきも嬌声も、女たちの嘆きの声も呑み込んでしまった建物。石内はこう語る。

「撮影しながら、建物って生き物だと思った。古くなった建物には時間が染み込んでいる。崩れた外壁や室内のはがれた壁。目には見えない人間の体温や体臭、男女が交わした会話などを建物が体現しているような感じがしたわ」

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

与那原恵

ノンフィクション作家。1958年東京都生まれ。『まれびとたちの沖縄』『美麗島まで 沖縄、台湾 家族をめぐる物語』など著書多数。『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で河合隼雄学芸賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(文化貢献部門)受賞。

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