浅草発の東武伊勢崎線「りょうもう7号」に乗車したのは、二〇一七年四月三十日。ゴールデンウィークに入り、よく晴れた気持ちのいい朝だった。石内都と私の行く先は、彼女が生まれ、六歳まで育った桐生である。これまでも何度か一緒に桐生へ旅をしていて、石内の母の生家や親戚の家を訪ねたこともあるし、彼女が親しくしている桐生の人たちとも会わせてもらい、いつも楽しい時間を過ごしてきた。

 この日は桐生で映画「フリーダ・カーロの遺品――石内都、織るように」の上映会と対談が行われるのだが、この上映会を企画・運営するのも石内の親しい人たちで、上映委員会を結成して準備を進めているということだった。石内にとって桐生は、出生地というだけではなく、近年生まれたあらたな関係を育んでいる土地でもある。 

 電車はスカイツリーの間近を走りぬけ、浅草から遠ざかってゆく。

 石内の桐生への興味が深まったのは、ここ十数年である。それまで桐生は生まれた土地であるものの、「自分とは関係のない場所」だとも思っていたという。けれど彼女は、写真を始めて間もない一九七六年、横須賀を撮る以前に桐生を撮影しているのだ。

石内都「はるかなる間#9阿左美」©Ishiuchi Miyako


「あのときは特別な気持ちがあって桐生を撮ったわけではなかったのよ。暗室作業が好きで、プリントするには何かを撮ったフィルムがなければいけないから、それで桐生に行ったのね。田舎が懐かしいとか、そんな思いはまったくなかったし、私の記憶の桐生はどこか暗かった。でも何かひっかかるものがあったのだと思う。桐生と、母の実家の笠懸村(現みどり市)を中心に撮ったけれど、自分との距離を測るようにシャッターを切っていったのよ。桐生や笠懸村の記憶は、冷たい風、風花の舞う冬の景色、台風のあとの川の流れ、それから寂れていく街、といったものだった。そのシリーズのタイトル〈はるかなる間〉は、私とこの土地との距離、関係をあらわしたのよ」

 雨に濡れた寂しい商店街、湿った空気に包まれた新桐生駅、壁面にひびの入った倉庫、めくれあがった町角のポスター……。粗い粒子でプリントされたそれらの作品は、どれも暗鬱としている。〈はるかなる間〉から六年後、石内はふたたび群馬で撮影し、〈上州〉(「アサヒカメラ」一九八三年一月号)を発表。空っ風が吹きすさぶ野原など、このシリーズも上州の地と石内の心的距離を感じさせる。

石内都「上州#3末広町(かに川通り)」©Ishiuchi Miyako


「上州のシリーズは、私にとって写真の原点ではなくて、あくまでもデビュー前の習作。長く展示する機会もなかったけれど、二〇〇九年に桐生市の大川美術館で個展〈上州の風にのって〉を開くことができた。撮った当時と風景は大きく変わった桐生だけど、さまざまな記憶がよみがえっていった。自分の発端に触れたような感じだったわ」

 その「発端」についてあらためて聞いてみる。

「戦争末期に、尾島町(現太田市)の軍需工場で両親が出会って結婚し、私が生まれたわけだけど、私は母の実家で生まれたと思っていたのね。でも両親は、家をいくつか転居したみたいで、私は桐生市相生で生まれていたことが書類でわかったのよ。私が憶えているのは、阿左美駅近くに借りていた家。そこに父方の祖父が東京から訪ねてきたことがあったわ。着物にトンビ(コート)を羽織っていた。両親の結婚は周囲に反対されたけど、ただ一人賛成したのがこの祖父だった。ドライバーとして働く母を、女が職業を持つのはいいことだと褒めてくれたって。祖父はそれから間もなく五十五歳で他界してしまい、このときが、私が彼に会ったただ一度の機会になった。祖父は、東京生まれの息子がどんな暮らしをしているのか心配だったのかもしれない。戦後の混乱期のそのころ、父はアイスキャンディや納豆を作って売っていた。それから父が獲ったスズメを、母が浅草の焼き鳥屋に売り歩いていたこともあったわね。母が浅草に行くときは私を連れて行くんだけど、私は浅草の雑踏が怖かったのか、いつも泣いていた。だから浅草は、ずっと苦手な場所だった」

 いまも記憶に残るのは、母の実家だ。

「母の実家は、茅葺の大きな家で、蔵もあったわね。長持ちに刀が収まっていたのを憶えている。母方の曾祖父はもともと新潟の人で、笠懸村にやってきて質屋を営み、成功したみたい。大きな家や蔵は、質屋をしていたころの名残だったけど、祖父の代で没落してしまったのかな。祖父は学校の先生になって、農業もしていた。六歳で横須賀に転居してからも母に連れられて母の実家によく行ったのよ。その家には蚕棚があって、夜、寝ていると、桑の葉をかむ蚕のシャクシャクという音が聞こえてくる。ちょっと怖いような気持ちになった」(つづく)