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石内都と、写真の旅へ

 石内と桐生との関係が大きく変わるのは、「桐生タイムス」記者の蓑﨑昭子との出会いが大きい。「彼女が桐生への入口を大きく開いてくれたのよ。いま桐生は私のあらたな拠点になりつつある」

 蓑﨑昭子は富山で生まれ、京都大学を卒業後に「桐生タイムス」記者となった。桐生で生まれ育っていない彼女は、客観的な視線で桐生の歴史、文化を多面的に丹念に掘り起こしてきた。彼女が石内作品を知ったのは、一九九一年、東京都写真美術館のグループ展「私という未知へ向かって」に出品された「1・9・4・7」シリーズである。三十代初めの蓑﨑が戦慄を受けたのは〈そこには、私のこれまでとこれからとに関係のある、無数の無名の「わたし・たち」が浮かび上がっていた〉(蓑﨑昭子「絹鳴りの桐生」)からだ。さらに歳月が流れ、写真集『Mother’s』(二〇〇二年)でふたたび強い衝撃を受けた。刊行の年、石内に連絡を取って、ふたりは出会ったのだった。

「蓑﨑さんに初めて会ったとき、彼女は着物で車を運転してやってきたのね。かっこいい女だと思った。それからは蓑﨑さんの熱心な調査で、母にかんすることをいろいろ知ることもできた。一九三九年、当時タクシードライバーをしていた母のポートレートがあるのね。昭和初期に公園として整備された阿左美沼のほとりで撮った写真で、二十三歳の母の背景に桜の若木が写っている。蓑﨑さんは、その桜の木を見つけたのよ。桜の木は六十数年を経て、太い幹を伸ばしていた。感慨深かったわ。蓑﨑さんにとても感謝している。それからも彼女は、ヴェネツィア・ビエンナーレ展(二〇〇五年)をはじめ、プラハやバンクーバー、スウェーデン・イェーテボリ、パリやロンドン、ロサンゼルス、日本国内各地の私の展覧会に自費でやってきて取材を重ねてくれている」

石内都「絹の夢#6」©Ishiuchi Miyako

 蓑﨑と知り合ったころ、石内は絹について考えていた時期だった。母の遺品の中に絹製品があったからだ。その後、「ひろしま」で撮影した遺品にも絹の品が多数あり、長い時間を超えていまも残る絹とは何かを考えることになる。そうして石内は、遠い日に蚕が桑の葉をかむ音を聞いたこと、機械織機の規則正しい音がする小道を思い返したのだった。

 桐生の織物の発祥は古くにさかのぼる。江戸時代には織物の地として「西の西陣」「東の桐生」と称されるまで名声を誇り、多くの豪商を生んだ。明治期になると、輸出織物の開発と洋式技術の導入により日本の機業界をリードしていく。大型の織物工場が創業し、繁栄の時代を築き、昭和初期に最盛期を迎えた。戦争による苦難の時代を経て、戦後に復興を遂げ、日本の繊維産業の斜陽化のなかにあっても、あらたな技術の開発につとめている。ノコギリ屋根の工場や、桐生明治館(旧群馬県衛生所)、桐生織物会館旧館などの近代建築の数々、「桐生新町重要伝統的建造物群保存地区」に選定された美しい街並みは、桐生の栄華を伝える。

 石内が桐生で「銘仙」を撮影したのは二〇一一年である。

 銘仙は大正から昭和にかけて大流行した。屑繭や生糸の屑を紡績した絹紡糸を使い、大胆な図柄を化学染料などで染めた「先染め織物」(糸を各種技法で染めてから織る)である。近代ならではの銘仙は、絹ではあっても安価で、働く女性たちが手にする賃金で買うことができ、日常的な装いとして、広く愛された。二代三代と受け継がれていく品ではなく、大半は一代かぎりだった。それゆえに女性たちの軽やかな気分をあらわし、伝統や格式から離れたダイナミックなデザインが好まれ、四億反以上が織られたといわれる。

「銘仙を撮影したのも、蓑﨑さんとの出会いがあったから。彼女が紹介してくれて、桐生織塾(染織にかかわる技術者たちの工房)に千六百点もの銘仙が保管されていたことを知った。それを見て、絵柄、色彩の大胆なことに驚いたわ。若い女たちが自由への希求とあこがれを身にまとったのだと感じた。名もない女たちがこよなく愛した、その女だけの絹織物。そして日本の近代化に絹が深く関わっていたということを、あらためて知ることになった」

石内都「絹の夢#9」©Ishiuchi Miyako

 銘仙のデザインをしたのは、日本各地を渡り歩いたデザイナーだという。彼らは海外の芸術運動も採り入れ、アール・ヌーボー、アール・デコ、ロシア・アヴァンギャルドの影響も見られる。石内は、多くの銘仙の着物とともに、繭玉、生糸、織機、さらに生糸を運んだ上毛電鉄の駅など絹をとりまくものを撮影する。それらは写真集『絹の夢』(二〇一二年)にまとめられ、刊行の年の十月から、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館で写真展「絹の夢」が開催され、大きな反響を呼んだ。また、二〇一三年にロンドンのマイケル・ホッペンギャラリーの個展、翌年十月からのアーツ前橋「服の記憶」展にも出品するなど、石内撮影の銘仙は各地を旅している。


 
 私たちが乗る電車は、太田駅を通過した。駅前に「SUBARU」の大きなビルがそびえる。石内の両親が出会った軍需工場は、SUBARUのルーツの「中島飛行機」である。太田駅前に開館したばかりの太田市美術館・図書館で「未来への狼火」展が開催中で、石内は「Mother’s」で参加している。「父と母が出会った場所のすぐ近くで、Mother’sが展示されるなんて、不思議な巡り合わせね。ものごとはつながっている、そう思うわ」

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

与那原恵

ノンフィクション作家。1958年東京都生まれ。『まれびとたちの沖縄』『美麗島まで 沖縄、台湾 家族をめぐる物語』など著書多数。『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で河合隼雄学芸賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(文化貢献部門)受賞。

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