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石内都と、写真の旅へ

 映画「フリーダ・カーロの遺品」の上映後、石内とアーティスト・片山真理との対談が行われた。

 片山は一九八七年埼玉で生まれ、群馬県太田市で育った。先天性の四肢疾患により、補装具を用いていたが、九歳のときに自らの意思で両足の切断手術を受けた。以来、義足を付け、やがて義足に絵を描くようになった。

 義足を付けてから八年が過ぎ、片山は高校三年になった。この間に身長が伸び、いくつもの義足を作り直してきた。それまでの彼女を支え、地を踏ませてきた義足だ。彼女は〈義足を足として、靴として、作品として確立したいです〉と、公募展「群馬青年ビエンナーレ」(二〇〇五年)のエントリー文に記し、三部作「足をはかりに」を出品。義足を、おはじき、金の折り紙、粘土、麻ひもなどで装飾した、美しい力に満ちた作品である。同作品は奨励賞を受賞する。

片山真理「足をはかりに」 2005年 作家蔵 太田市美術館・図書館 開館記念展「未来への狼火」展示風景 写真:木暮伸也+Lo.cul.P 画像提供:太田市美術館・図書館

 その後、彼女は東京藝術大学大学院美術研究科に学び、セルフポートレートや絵画、インスタレーションなど創作の幅を広げ、国内外の展覧会に参加を重ねている。二〇一七年には群馬県立近代美術館で個展「帰途」が開催された。また、太田市美術館・図書館で七月十七日まで開かれていた「未来への狼火」展では、「足をはかりに」を見ることができた。

 有鄰館にやってきた片山は、二カ月後に出産を控えていると言い、石内は「おめでとう」と喜んだ。対談は「桐生タイムス」記者・蓑﨑昭子の司会で進められ、フリーダについて、女性アーティストの生き方、生活とアートなどを語り合った。

 石内は「〈ひろしま〉を撮ったときに、女にしか撮れない写真だと言われたけれど、フリーダもそうだったかもしれない。フリーダの時代、女性アーティストが生きていくのは大変だった。彼女は痛みを抱えて生き、命の短さを切実な現実として絵画に描いたことがよくわかった。そしてフリーダは次世代の女性アーティストにエールを送ってもいたのね。映画ではフリーダの人生とともに、メキシコの風土や死生観、そしてテワナドレスを刺繍する女たちも登場して、フリーダをより理解できる。有鄰館で見ると、民族衣装や刺繍がとてもリアルだった」と話す。

 片山は幼いころから見ていた祖母の針仕事に魅せられ、自身も手縫いの作品を作るようになったのが、アーティストとしての原点だったのかもしれないと振り返る。そして彼女は、これまで暮らした東京を離れ、太田市に戻って出産、子育てをし、創作活動をつづけることを決めた。「型にはめられることなく、私の生き方をしていきたい」と言う。

 石内は「片山さんは障害があることで、さまざまな体験をし、言葉にならないような思いを持ってきただろうと思う。彼女がアートという場で意欲的な表現をつづけていることが私もうれしい。片山さんはいろいろな受け取られ方、解釈がなされてきたけれど、彼女の作品自体に訴えかける力がある。それがとても大事なこと。これからの片山さんの創作活動がとても楽しみ」と言う。

 アーティストは個々が独自の道を切り拓いていくしかない。だがアートとして力を放つ作品が作家の切実な実感に支えられていることは、共通するだろう。

 有鄰館を出ると、陽が暮れようとする桐生の街を涼しい風が吹きぬけていった。そうして私は、百数十年前にこの街に生きたひとりの女性を思い浮かべた。日本初の女性写真家といわれる島隆(しま・りゅう)である。

 私は石内に教えられて彼女を知ったのだが、島隆が撮影した夫・島霞谷(かこく)のポートレートがあり、その中に、右手でかぼちゃを担ぎ、左手に扇子を持つ彼が口を開けて笑っている写真に驚嘆したのだった。撮影は一八六〇年代とされ、約百五十年前のガラス湿版写真ということになる。

島隆「カボチャを担いで笑う島霞谷像」 1860年代 島榮一氏蔵 群馬県立歴史博物館保管 写真提供=群馬県立歴史博物館

 石内が島隆を初めて知ったのは、アメリカ・ロチェスターでの「未完の歴史:日本の女性写真家たち 1864→1997」(一九九八年)に出品した際だった。
「私は会場には行かなかったけれど、パンフレットで島隆を知ったのよ。桐生の生まれだというので興味を持った。隆が撮影した写真はしっかりした画像で、不思議な魅力があるわよね」と石内は言う。

 島隆が広く知られるようになったのは近年だ。一九八三年に島家の子孫が蔵に残されていた霞谷・隆夫妻の遺品を発見したことに始まる。

 島隆は一八二三(文政六)年、現在の桐生市梅田の旧家に生まれ、六歳から女子を中心とした私塾で学んだ。十八歳ごろ、決められていた婚約を蹴り、単身江戸に出てしまう。一橋家の祐筆(文書の職)に採用され、そこで英語の翻訳・通訳として一橋家に出入りしていた四歳年下の島霞谷(現在の栃木市生まれ)と知り合い、結婚。隆は三十二歳だった。霞谷は多面的な顔を持つ人で、画家、活版印刷活字の開発などでも知られるが、写真技術を外国人から修得して、江戸下谷久保町(現台東区)で写真館を開業。隆も写真技術を身につけ、多忙な霞谷に代わって彼女が写真館を切り盛りしたといわれる。霞谷は一八七〇(明治三)年に熱病により死去。隆は夫の他界後も写真館を営んだが、その後、桐生に帰り、写真業をつづけたのだった。一八九九(明治三十二)年、七十六歳で没した。

 「伝えられている話では、隆は菜の花の咲くころに馬に乗って江戸に旅立ったそうよ。いいわよね。幕末から明治という時代に、彼女は自立した人生を歩んだばかりか、写真を職業とした初めての日本の女。隆は自分の技術に自信を持っていたことが本人の文章からわかる。霞谷より写真のセンスと能力があったと、残された写真からも感じたわ。島隆と私が同じ桐生で生まれたのは、単に偶然かもしれない。けれど、同じ風にさらされ、同じ仕事をしている私を隆が勇気づけてくれる」と石内は言う。

 霞谷が撮影した隆のポートレートも残っていて、意志が強そうな目をこちらに向けている。石内都、片山真理、そして島隆。時代を超えて生き、表現する女性たち。上州の風が女たちの背中を押したのかもしれない。

島霞谷「コウモリをさす島隆像」 1860年代 島榮一氏蔵 群馬県立歴史博物館保管 写真提供=群馬県立歴史博物館

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

与那原恵

ノンフィクション作家。1958年東京都生まれ。『まれびとたちの沖縄』『美麗島まで 沖縄、台湾 家族をめぐる物語』など著書多数。『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で河合隼雄学芸賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(文化貢献部門)受賞。

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