史上最年少で小林秀雄賞を受賞した森田真生さんのデビュー作『数学する身体』。数学を新しい文脈で語った同書の文庫化を記念して、森田さんと建築家の青木淳さんに語り合っていただきました。数学と建築という、隣人のようで遠い、遠いようで親密な領域で新しいお仕事をしている二人の話題は歴史から認知科学まで、新疆しんきょうからロンドンまで……縦横無尽に行きつ戻りつしながら、新しい学び、新しい「わかる」のありかを探ることになりました。全3回の対談をお楽しみ下さい。(編集部)

森田真生さん
青木淳さん

森田 最近「制度(Institution)」という概念についてよく考えています。これは経済学者の青木昌彦(※1)先生からの影響ですが、組織とか法律のように政府が設計・運用できるような人工物ではなく、人々のあいだで「共有されている予想」こそが制度の本質だと先生はおっしゃっていました。たとえば「終身雇用」という制度の本質は、根拠となる法律が社会に実装されていることではなく、「定年まで働いていけるだろう」という「予想」が広く共有されていることだと。

制度は、しばしば壊れます。かつては共有されていた予想が、いつしか共有できないものになる。世界中でいま、そういう意味での「制度」が壊れてきています。学問や研究を支える制度もそうです。学問を続けたい、将来も研究をしていきたいという人にとって、未来を「予想」することが難しくなってきている。大学に入って、研究室に所属して、論文を書いて、業績を積む。研究者として生きるとは、そういう道のりを歩んでいくことだという常識もこれからは当たり前ではなくなっていくでしょう。

制度というのは誰かが一人で考えて、設計し、デザインして作られるものではない。かといって野放図にしておけば勝手に理想的な制度が生まれるわけでもない。制度は、それぞれに思いを持った人々がやりとりを重ねていくなかで、少しずつ生成していくものです。制度が壊れていく時代は、新たな制度が生成していく時代でもある。だから「失われた10年、20年」ではなく、制度変化の「移りゆく30年」なんだと青木先生はいつもおっしゃっていました。

新しい制度が生まれつつある移行の時代には、壊れゆく既存の制度から距離をとって、原点に立ち返ってゲームをプレイすることに意味が出てきます。制度が安定しているときには、既存の制度から逸脱することは賢明ではない。左側通行が制度として成立してるときに、自分だけ「試しに右を歩いてみよう」とやってもきっと事故を起こすだけでしょう。しかし、制度が壊れていくときは、原点に立ち返って物事を考え、試行錯誤することが次の制度の芽になる。そういう思いでぼくは「独立研究者」を名乗って活動しています。組織や特定の研究室に属さず、学問とは何か、研究するとはどういうことなのか、まずは自分の素手でたしかめていきたい。それじゃあ「どこから」はじめたらいいか。青木さんの『原っぱと遊園地』で書いてらっしゃる一枚の写真には、大きなヒントがありました。

青木 新疆アルタイ山で撮られた写真ですね。野原に一枚の木の板を立てて、教えたい人の周りに学びたい子どもが集って、石の上に座って聞いているという写真。

森田 ええ。そういう根源的な風景に戻っていかないといけないと思っています。具体的に、自分の限られたリソースのなかで実践できることとして、春から京都に古い町屋を借りて、畳の間にちゃぶ台をおき、子どもたちと小さな学びの場を始めています(※2) 。まさに野原に一枚の板を立てかけるような気持ちでスタートしました。

青木 教えるのは子どもに限っているんですか。

森田 教えるというよりはみんなで学んで考える場ですが、子どもだけと決めているわけではありません。とにかく、無理に大きくしようとか、わかりやすい成果を出そうとは考えず、縁があった人たちと自然なかたちで学びを深めていこうと思っています。最初に来てくれたのは友人の息子さんの小学生でしたが、彼は数学的感性がとても豊かで、一緒にロシアでつくられた問題集を解いています。ときどき彼のほうがぼくよりエレガントな解法を思いつくこともありますし、なにより悶々と一緒に考える時間が楽しい。

最近は、中学生のときからぼくの「数学の演奏会」に参加してくれてた子が京大の一年生になって、彼も来てくれています。高校時代に物理オリンピックの論文部門で金メダルを取っている子なので、ぼくが教えてもらっている一方ですが。そうやって子どもたちと自然体で学問と向き合う場をつくりながら、ぼくも学びの原点を思い出していきたい。そこから新しい制度の「芽」が出てきたらいいなと思っています。

青木 ぼくはいくつかの美術館を設計してきましたが、美術館で近年変わってきたのは教育部門ですね。昔は美術館教育のことを「エデュケーション(Education)」と呼んでいましたが、最近は、「ラーニング(Learning)」と呼ぶことが多くなってきました。エデュケーションという言葉には、大人たちが知っていることを子どもたちに伝えるという、啓蒙的な前提が含まれています。ところがいまは、大人と子どもが同じレベルに立って、一緒に何か考えてみようという新しい流れが生まれています。鑑賞しにいく場所ではなくて、美術品にかかわりながら学ぶという場所を、新しい美術館は目指しているんです。

この10年くらい、世界中で似た動きが起こっています。一番顕著なのがロンドンのテート・モダン。もともとは火力発電所だった建物を美術館に改装した美術館です。

森田 去年行きました。

青木 それなら「スイッチ・ハウス」(※3)という新館も行かれたと思います。スイスの建築家ユニット、ヘルツォーク&ド・ムーロンが設計したものです。同じくヘルツォークらが設計した本館は横に長い空間で、かつて火力発電のタービンがあった空間ですが、2016年にそこに並ぶ塔状の建物を作ったんです。ラーニングのための空間が大きくとられています。こうなると、美術館は美術品に触れるというよりも、美術品のある空間に身をおいてみて、時間を過ごす空間に変わっていく。そこで何が起きるかはまだわからないけれども、何か一緒にやろうという場所になりつつある。つまり教育部門だけの話に止まらなくなって、美術館そのものの制度、美術館というのは作品を鑑賞する場所、というような「予想」が成り立たなくなってきた。

森田 美術館だからそういう動きがスピーディに表現できるのかもしれません。学校はどうですか?

青木 小学校を設計したことがありますが、学校はむずかしいですね。青木昌彦さんのいう制度以前に、目に見える、実体としての制度が強固なものとしてあるから。設計した小学校は御杖村みつえむらというところにあるのですが、奈良の山奥の過疎地で、もともと村には三つ小学校があったのが、子どもが減ってきたのでひとつに集約するというんです。三つの小学校のちょうど真ん中に建てるんだというので敷地を見に行ったら、周りに何もない山の中でした。機械的に「真ん中」を割り出した結果なんです。でも、その窪地状の空間がとても魅力的で、そのままでも楽しい空間になると思ったので、その窪地に生えている木を切って床を張って、それだけでいいじゃないですか?って提案したんです。そうしたらすごく怒られました(笑)。役所の人とか教育委員会、先生方、PTAの親御さんたちに怒られるんですね。みなさんの考える「制度」とちがったからでしょう。

でも床を斜めにするということは実現できました。山のなかにあるんだから床が平らというのはむしろ不自然で、斜めでいいじゃないかと思って設計しました。だから座ったり寝そべるのにちょうどいい。「学力が落ちるんじゃないですか」という親御さんがいて大変でした。それで佐々木正人(※4)さんにお聞きしたら、人間は完全に平らな場所に、ただまっすぐ立っているわけではなくて、少しずつ動きながらバランスをとって、微振動を繰り返しながら立っていることを教わりました。そういう意味では床が斜めでも全然問題ないんですね。平らな場所にい続けるとむしろ立つ能力が落ちるかもしれない(笑)。佐々木さんのそういう説明をそのまま借りて、「学力や体力が伸びるかもしれませんよ」といって説得しました。

森田 ぼくは荒川修作(※5)さんの設計した三鷹の天命反転住宅に住んでいたことがあるんですが、斜めどころではなかったです。あそこに住んで凸凹の床に慣れてしまうと、平らな道で転んだりしました(笑)。

青木 身体は環境とともにある、ということですね。

第2回につづく

 
 

数学する身体

森田 真生/

2018/4/27


 

※1.^1938-2015年。日本の経済学者。スタンフォード大学名誉教授、京都大学名誉教授を務めた。主著『現代の企業』、『比較制度分析に向けて』、『青木昌彦の経済学入門』など。
※2.^数学の贈りもの」2018年4月1日、〈みんなのミシマガジン〉
※3.^2017年に「ブラヴァトニック・ビルディング」と改称。
※4.^1952年生れ。日本のアフォーダンス、生態心理学研究者。主著『アフォーダンス』、『アフォーダンス入門』。
※5.^1936-2010年。芸術家、建築家。代表作「養老天命反転地」(岐阜県)。