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考える四季

「“伝説”とか“レジェンド”とか言われると、ちょっとねえ…」
「大坊珈琲店」店主の大坊勝次さんが、決まりが悪そうに下を向き、自分の手をじっと見ている。
 ご本人はそう言うが、2013年までの38年間、表参道のビルの2階で多くの珈琲ファンの舌を満足させてきたのは、まぎれもない事実である。

 朝の光が射し込むカウンター奥。使い込んだ手廻しロースターをなめらかに操り、焙煎する大坊さんの姿を今も鮮明に思い出す。ネルドリッパーとポットを両手に持ち、低くながれるジャズをバックに、一滴一滴、糸のように湯をおとす。その一連の所作から作りだされる深煎り珈琲は、誰にとっても一期一会の特別な一杯であった。
 その都会の宿り木のような店が、ビルの老朽化によって閉店してしまうというのだ。あの時、「大坊」閉店のニュースはSNSなどで世界を駆け巡り、多くのファンを動揺させたものだった。大坊さん自身はピンとこないだろうけど、“伝説”は大袈裟でもなんでもないと私は思う。
 その「大坊珈琲店」が懐しい表参道に帰ってきた。

 二日間限定の復活営業だ。場所は、表参道の交差点にある山陽堂書店3階のカフェ。メニューは、3番(20g100cc)と4番(25g50cc)。一杯700円の整理券を求め、両日ともに全国から大勢のファンがつめかけた。カウンターには、店主の大坊さんと妻の惠子さん。受付と誘導は、山陽堂書店の方々。珈琲を運んで片づけるのは、編集者の足立真穂さんと私。ともに接客業は初心者だが、白いシャツに急きょ用意した真新しいエプロンをつけると、その気になるもの。背筋を伸ばし、皆さまをご案内できた。
 山陽堂書店といえば、1891年の創業以来、街と共に歩んできた老舗である。ここで目あての本を買い、横断歩道をダッシュして「大坊珈琲店」に駆け込んだこともあったなあ。壁面の絵は、『週刊新潮』の表紙を飾った谷内六郎氏の作品で、街のシンボルとして目印にする人も多いという。

 両日、さまざまな人が訪れた。沖縄や四国、九州から日帰りで飛んできた人々に混じり、買い物袋を下げたご近所さんもちらほら。なかには両日とも2回訪れ、計4杯を味わった20代前半の男性もいた。珈琲の仕事をしているわけではないそうだが、デミタスカップを両手でくるみ、一滴も残すまいとカップを何度も傾けたり、鼻先をギリギリまで近づけ残り香を堪能したりする姿は、もはや玄人の域。大坊ファンは、とにかく熱烈な方が多いのだ。今回は、動画以外の撮影もOK。皆さん、遠慮しつつもおそるおそる身を乗り出し、シャッターを切っては、会心の笑みをうかべていた。
 かと思えば、まるで閉店なんてなかったかのようにふらりと訪れ、カウンターに腰をおろす「大坊」の常連客の姿もあった。もちろんここは山陽堂書店のカフェなのだけど、それすら一変させる存在感である。わかりあった者同士に交わされるアイコンタクト。いたずらっこの笑みをうかべる大坊さんが「さあ、あなたの珈琲を作りましょう」と、腕まくりする心の声が聞こえてきそうだ。そんな店主の一挙手一投足を見逃すまいと、さらに全神経を集中させるお客様。在りし日の「大坊珈琲店」の空気がよみがえった瞬間であった。

 大坊さんはあいかわらず、抽出中は声を発しない。でも帰ろうとするお客様に気づくと、目と目をあわせ「ありがとうございます」と静かに呟く。そのわずかな余韻を胸に、彼らはそれぞれの日常へと戻っていく。大切なのは、言葉の数ではない。どれだけ一杯に想いを込められたかであり、汲み取れたかなのだ。
 初日は80杯、二日目は90杯。盛況のうちに幕を閉じた。
 私は、大坊さんが持参したキース・ジャレットのCD係を任された。耳をすましたら、点滴のさやかな音が聞こえるくらいに。曲調によってボリュームを調整してくださいとの細やかな指示に、最初はリモコン片手にあたふた。けれど珈琲を作る人も、飲む人も、待つ人も、見守る人も、誰もが心地いいと感じる音量のバランスが確かにあって、それらがピタッとハマると、我ながらうっとりしてしまう。ほかにもスタッフ間のやりとりは、最小限の会話で済ます。役割を決めず各自がその場の空気を察して動く。こうした大坊さんの美意識がつまった接客の一端を体験できたのは、実に光栄なことであった。

 幸い、東京には、そんな“大坊イズム”を継承する店がある。京王井の頭線の富士見ヶ丘駅そば。「大坊」で数年間修行した宮澤慶広さんの「慶よし珈琲」である。メニューに岩手の地ビールを見つけた時は驚いたが、大坊さんと同郷と聞いて納得がいった。珈琲の作り方はもちろん、豆の量と湯の量で記されたメニュー構成、道具の配置、空間、本棚や音楽にしても、師への敬慕が見てとれる。品格ある苦みの一杯に「大坊」を重ねる人も多いだろう。ちなみに入口の扉は、「大坊」の壁板でこしらえたとか。表参道でかさねた38年分の記憶を行ったり来たり。ドラえもんのどこでもドアを連想してしまった。
 もう一人、閉店までの2年間、修行した古屋達也さんにも新たな展開がある。これまで5年間、夜はバーを営む空間を借り、「Coffee Tram」として営業してきたが、ついに念願の城を構えることになった。新天地は、下北沢駅から歩いて数分の閑静な住宅地。「珈琲屋 うず」として、9月中には再出発するというから楽しみだ。これからも“大坊イズム”は、世界のいろんな人によって受け継がれていくことだろう。
 さて復活営業を無事に終えた晩、大坊夫妻と軽く打ち上げをし、二日間を振り返った。久々に対面した大坊さんの一杯を噛みしめるように味わうお客様たち、心から幸せそうだったなあ。帰り際、「本当に胸がいっぱいで、言葉にならないです」と声をかけてくださった方も一人やふたりではない。

 それにしても一人の人間が珈琲を作るという、ごくシンプルな行為に、なぜ人はあれほどまでに心を動かされるのだろうか。今回、スタッフとして冷静に内側から眺めてみて、あらためて尋常ではないものを感じた。珈琲を介した濃密なやりとりが、無言のうちに交わされるのだ。以心伝心、テレパシー。しかもローストの煙に燻された「大坊」特有の空間装置もないなかで…。いや、なかったからこそ、かえって大坊勝次という人間の存在感が、浮き彫りになったということか。
 大坊さんは、今回のお客様の反応について、まず珈琲の味の不変性を理由にあげた。懐しさを抱いて飲んだとしても記憶を裏切る味であれば、感動には至らない。さらにもうひとつ、日本人が築き上げてきたネルドリップ珈琲の世界には、茶の湯と通じるところがあるのではないかという推論も飛び出した。
 本来、茶の湯とは、誰もが分け隔てなく一服の茶を喫するという、もてなしの心を真髄としている。しかし時代とともに定型化されたと感じる場合もあり、その心を置き去りにされたまま、敷居の高さだけが印象づけられる向きがあるのではないだろうか。
 その点、世界中で親しまれている珈琲は、基本として自由である。茶の湯では必須の作法も流派も免状も道具などの縛りも、ほぼないに等しい。したがって一杯の珈琲を提供し、味わうことに、店主も客も集中できるのではないか。

 現に今回の復活営業では、一人ひとりが席に着き席を立つまでの間、ピンと張りつめた空気があった。珈琲を作る大坊さんの真摯な姿に応えるかのように、一口ひと口に全神経を傾けるお客様。そこにあるのは、大坊さんの珈琲を味わえるという僥倖への感謝のみであり、作法や道具などが介在する余地などない。ただただ純粋に、珈琲をつうじて心を通わせる時間が流れていたのだった。
 とはいえ、自由ほど怖いものはない。よくわからない自分とも、絶えず向き合っていかなければならないのだから。それでもあきらめず自問自答しながら珈琲を作り続けるうちに、やがて、その人なりの“珈琲屋”像が形づくられていくのだろう。

 その真髄について語り合った、大坊勝次さんと、福岡は赤坂で「珈琲美美」を営む森光宗男さんの対談集『珈琲屋』が刊行された。書店に並ぶ、辛子色の表紙。企画にたずさわった身としては、5年越しの夢がかなったことになる。実は「大坊」の復活営業も、『珈琲屋』の刊行記念イベントにあわせ、写真展と同時に開催されたのだ。
 ともに1947年生まれ。東京と福岡で各々の道を歩んできたふたりが40余年に及ぶ珈琲人生を振り返り、本音を語り合った一冊である。

 残念ながら、森光さんは2016年12月、ネルドリップ講師として訪れた韓国で急逝された。セミナーを大盛況で終えた翌朝、「美美」に直行するために赴いた仁川国際空港で倒れ、そのまま…。命尽きる瞬間まで珈琲屋として走りきった見事な最期は、実に森光さんらしくてアッパレとすら思う。森光さんが信じる“珈琲の神様”に、もう充分だよと天に引っ張られたのかもしれない。
 森光さんは、大坊さんとは違うアプローチで珈琲のルーツを探究していた。エチオピアやイエメンなどの産地視察に情熱を燃やし、そこで得た貴重な体験を仲間と分かち合い、『モカに始まり』という著書として残してくれた。幸い、店は妻の充子さんが受け継ぎ、毎日営業している。私のようなヘビーユーザーにとって、「美美」は心の命綱のような存在で、福岡にあってくれてありがとうと、いつも思っている。

 一方の大坊さんは、店を閉めて5年が経過した今も“フリーランスの珈琲屋”として、引っぱりだこだ。ご自宅の台所で焙煎した豆と道具一式を携え、焙煎と抽出のワークショップを開いたり、手廻しロースターの製品化の監修をしたり。多忙を極めるなか、懇意の作家の展示会があると聞けば、手弁当で珈琲の出張を申し出るなどアグレッシブな第二の珈琲人生を謳歌しておられる。
 『珈琲屋』という本は、珈琲の仕事をする人だけに向けた専門書ではない。ワクワクするような好奇心と探究心を忘れず、ひたすら自分の仕事を続けている人にこそ開いていただきたい一冊だ。人生何ごとも「美美」の森光さんの口癖である「クリカエシクリカエス」に尽きると思う。どんなに苦しい局面に立たされようと、やめないで続けていれば、いつか時機が巡ってくるだろう。大坊さんと森光さん。ふたりの珈琲屋が歩んできた凸凹道を、一緒になって面白がりながら読んでいただければ幸いである。

写真 菅野健児(山陽堂書店の壁面と、CDのみ編集部)

店情報

慶珈琲

東京都杉並区久我山2-23-29ハイネス富士見ヶ丘101
10:00〜19:00、土曜日14:00〜20:00 月曜日、第4日曜日休み

珈琲屋 うず (2018年9月19日開店予定)

東京都世田谷区大原1-3-2
13:00〜22:00 水曜日休み ※時間と店休日は、変更の可能性があります。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

小坂章子

1974年長崎県壱岐市生まれ。福岡在住のライター。著書に『徒然印度』『福岡喫茶散歩』『九州喫茶散歩』『大分県のしいたけ料理の本』がある。週の半分は「珈琲美美」のカウンターに座り、中味ブレンド片手にぼーっとするのが楽しみ。


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