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考える四季

 国語学者、大野晋さんの学識については没後に作家、井上ひさしさんが、「辞書を調べてもわからない時は、大野先生にお聞きしていました」 と話され、作家の丸谷才一さんが、「大野さんは本居宣長より偉い学者だった」と言われたことを記せば十分だろう。

 日本語について正しいと思ったことは「千万人といえども我ゆかん」と、国語学界を敵に回すことなど少しも恐れず主張した。そういう生き方を作家の司馬遼太郎さんに、「抜き身の刀のような方ですね」と言われ、「僕はね、司馬さんに勲章をもらったんだよ」と、喜んでおられた。

 大野さんの面識を得たのは三十年以上前だが、朝早くに電話をしばしばもらうようになったのは一九九〇年代のはじめ、筆者が『週刊朝日』編集長から朝日新聞の編集委員になって程なくのことだった。

 朝七時過ぎ、電話が鳴って出ると、「今から今朝の朝日新聞一面トップの前文を読むよ。聴いてね」と言われ、読み上げる。

 下町・深川育ちのせいか早口だった。しかし、一音一音粒立った発音なので聴きやすい。読み終わると、
「どうしてセンテンスがこんなに長いのかね。わかりにくいじゃないの。なぜこんな書き方をするのか、教えてよ」
 と言われる。しかし大抵は政治部の記事なので答えられない。第一、日本語で書かれたもので、大野さんにわからなくて筆者にわかることなど、ありえないではないか。正直にそう言って、「社長に伝えておきます」と答えるしかなかった。

 もっと困ったのは、「『思う』と『考える』の違いを説明できるかい」などと、電話で国語の試験をされることだった。しどろもどろになっていると、「やっぱりそうか。フフフフ。なら、いいんだ」と言われて終わり。

 判断や理由の根拠を示す助詞「ので」と「から」の違いをテストされてからは、記事を「ので」とすべきか「から」でいいのか、考えても考えてもわからない。締め切りがあるので原稿は書いて出しはするものの、モヤモヤが残り、ノイローゼのようになった。

 国語のテストは一九九九年一月、『日本語練習帳』(岩波新書)が出版されるまで続いた。「あとがき」を読んで、岩波書店の編集者も試験台になっていたことを知った。

 それからは「大学へ行く」と「大学に行く」、「大野さんと会う」と「大野さんに会う」といった助詞の厳密な使い分け方や、「思う」と「感じる」の違いなど、わからないことが出てきた時は迷わずお聞きすることにした。

 筆者はマスコミ志望の大学生の作文添削をしていたので、学生の質問に答えられない時は、その場で電話をした。「すみません。日本語を教えてください」と言うと、「どうぞ。ああ、それはね」と、打てば響くように回答が返ってくる。ごくまれに、「調べておくから、十分後に電話をかけ直してよ」と言われた。しかし、十分もしないうちに電話をいただくことが多かった。

「大野さん、そういうことは本に書いて下さいよ」と、何度もお願いした。しかしその度に、「必要ないよ」と言われる。「どうしてですか」とお聞きすると、「だって、そんなこと常識だもん」というのが決まり文句だった。

 本に出来なかったのは残念だが、助詞の使い方まで教わることが出来たのだから、思えば贅沢なことだった。

 ある時、いつものように電話をすると、「さあ、僕にわかることかな」と言われた。絶句していると、こう言われた。「学問というのはね、川村さん。深めれば深める程、自分のわかっていることがどんなにちっぽけか、わかるものなんだよ」

 大野さんは『練習帳』を出版した年の秋、自費も使ってインドから古代タミル語の専門家を東京に招き、シンポジウムを主宰した。「日本語の源流は古代タミル語にある」という自分が立てた仮説を、徹底的に検証するためである。仮説が正しいかどうか、自分の方から俎板の上に乗ったわけである。

 十日間のシンポジウムが終わると、「僕の仮説が定説になるのに百年かかると思ってたけど、たぶん七十五年後には定説になっていると思うな」と言われた。

「日本は戦争に負けて、頭の中までアメリカの植民地になっちゃったんだね」と言われるようになったのは、そのころからである。カタカナ英語の氾濫に加え、テレビのコマーシャルで「メイク・イット・ポッシブル・ウィズ・キャノン」と、宣伝の文章がそっくり英語になったことに注目され、 「このままいくと百年後には、今書かれている日本語のわかる人は、日本にいなくなるかもしれない」と言われた。

「では、私たちはどうすればいいのでしょう」とお聞きすると、「実はね、僕は申し訳ないことをしたと思っているんだ」と、思いもかけない言葉が返ってきた。それはこういうことだった。 ―自分は学生の時に「日本とは何か。日本語はどこから来たのか」という設問を自らに課し、答えを見つけることに一生を捧げた。そして結論を出すことができた。しかしそうしている間に、この国は壊れた。最大の原因は、戦後の国語教育にあったと思う。

 中学校で国語と英語の授業時間を同じにしてしまえば、植民地化が進むのは避けようがない。日本人にとって国語は母語である。母語は、意志や気持ちを伝える道具ではなく精神の土台だ。それなのに、土台造りを怠ってきた。

 日本のあちこちで起こっている問題の原因は、国語力の低下で説明がつく。精神の土台が崩れ、考えや判断するのに不可欠な国語の能力が落ちれば、問題は起きるし、解決の知恵も出なくなる。

 日本語の能力の基礎は小学校の三、四年生までに築いておかなければいけない。しかし助詞の「は」と「が」の違いをわかりやすくきちんと教えられる先生が、日本に何人いるのか。

「そう考えるとね、自分の研究は半分位にして、半分は国語をしっかり教えられる人材の育成に当てるべきだった。申し訳なかったなと、思っているんだよ」

 3・11以降、筆者は政治家や官僚の発言を見聞きするにつけ、大野晋さんの〝遺言〟を思い出すことが多くなった。

(「考える人」2012年春号掲載)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

川村二郎
川村二郎

1941年、東京生まれ。文筆家。慶應義塾大学経済学部卒業。『週刊朝日』編集長、朝日新聞編集委員などを歴任。著書に『いまなぜ白洲正子なのか』『炎の作文塾』『学はあってもバカはバカ』『孤高 国語学者 大野晋の生涯』など。(雑誌掲載時のプロフィールです)


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