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亀のみぞ知る―海外文学定期便―

2018年12月28日 亀のみぞ知る―海外文学定期便―

(6)ウルグアイの不思議なピアニスト兼作家

Piano Stories and Lands of Memory by Felisberto Hernández

著者: 柴田元幸

 つい先日、メキシコの作家フアン・ホセ・アレオラ(Juan José Arreola,  1918-2001)の短篇集『共謀綺談』がこの夏に松籟社から安藤哲行訳で刊行されているのを知って、個人的にとても嬉しかった。もう30年近く前に、そのころよく一緒に仕事をした名編集者城所健さん(エリクソン『黒い時計の旅』やミルハウザー『バーナム博物館』の拙訳は彼のおかげで世に出た)から、当時すでに絶版だった英訳版(Confabulario and Other Inventions, translated by George D. Schade)のコピーをもらって読んで、不思議な作家がいるなあと思ったのを覚えている。英語が原文だったら即、訳したいところなのに…と思いつつ、ときどきパラパラ見直しては、もういまさら邦訳も出ないだろうなあ、と残念に思っていたので、ひょっこり安藤訳に出くわしたのがことのほか嬉しかったのである。代表作であるらしい「転轍手」のこんな一節を久しぶりに読んで、そうそうこれこれ、と思った

「市民のためにつくそうという熱意から、国鉄はいくつか絶望的な措置をとらなくてはならん。通行不能な場所に汽車を走らせる。そうした遠征列車は目的地に着くまでに、ときには何年かかかり、乗客たちの生活にはいくつか重大な変化が起きる。乗客が死ぬのは珍しくはないが、国鉄はすべて予測しており、汽車には遺体安置車両と墓地車両を余分に連結している。運転士たちにとっては、乗客の遺体を―たっぷり香油をほどこして―乗客の持ってる切符が示す駅のホームに安置することが自慢の種となる。
 ときには、そうした汽車は、レールが一本足りない区間を無理やり走る。車輪が枕木に当たる衝撃で無残に車両の片側がどこも揺れ動く。一等の乗客は―これも国鉄の先見の明の一つなんだが―レールのある側に坐る。二等の乗客はあきらめてその衝撃に耐える。しかし、両方のレールがない区間もある。そこでは乗客は、列車が完全に壊れるまで、平等に我慢する」

 で、アレオラの邦訳がめでたく出たのであれば、この人も出ていいんじゃないか、というもう一人のラテンアメリカ作家の本を今回は取り上げる。ウルグアイの作家で、ピアニストでもあったフェリスベルト・エルナンデス(Felisberto Hernández, 1902-1964)である。
 無声映画の伴奏ピアニストとして出発し、のちウルグアイやアルゼンチンの諸都市で(どうやらドサ回り的に)コンサートも行ない、貧困のうちに死んだフェリスベルトは、作家としては7冊の著書を遺していて、それらを基に英訳本が2冊まとめられている。Luis Harss訳のPiano Storiesは短篇13点、中篇2点を、Esther Allen訳のLands of Memoryは短篇4点、中篇2点を収める(いずれも外国文学をたくさん出している素晴らしい出版社New Directions刊)。どちらも表紙・裏表紙に、コルタサルとガルシア=マルケスの推薦文句が載っている。

“Felisberto, I will always love you!” – Julio Cortázar
(フェリスベルト、いつまでもあなたを愛します!―フリオ・コルタサル)
“If I hadn’t read the stories of Felisberto Hernández in 1950, I wouldn’t be the writer I am today.” – Gabriel García Márquez
(もし1950年にフェリスベルト・エルナンデスの小説を読んでいなかったら、今日私はこのような作家になっていないだろう―ガブリエル・ガルシア=マルケス)

 ラテンアメリカ文学の巨匠2人からのすごい賛辞、加えてPiano Storiesにはイタロ・カルヴィーノの序文が付いている。これだけ豪華なメンバーの「付録」はちょっとない。
 では、どんな作品がこの2冊に入っているのか。
 たとえばPiano Storiesには、“ ‘Lovebird’ Furniture”という、不正確だがイメージとしては「カナリア家具店」とでも訳せそうな短篇が入っている。この一篇については筋をバラしてしまうことにすると、主人公が市電に乗ると、見知らぬ男から勝手に注射をされてしまう。男はカナリア家具店の宣伝マンで、この注射を受けた者は宣伝放送「カナリア・ステーション」が頭のなかで聞こえるようになり、主人公の脳内でもさっそくタンゴが鳴り響き、嫌で仕方ないので、さっきの宣伝マンを見つけて、放送が聞こえなくなるようにしてくれと頼み、要求された賄賂を払うと、宣伝マンは言う―“Go soak your feet in hot water”(足をお湯に浸せばいいんです)。
 あるいはLands of Memoryに収められた“The Crocodile”(「ワニ」)。ピアニストとしてはなかなか食っていけない、フェリスベルト自身を思わせる男がストッキングのセールスに携わり、最初はさっぱり売れないが、あるときから空涙(英語でいえばcrocodile tears)を流すようになって一気に売上げをのばし、やがて念願のコンサートを開いて、感極まって涙を流しながらステージを降りかけると、客席から“Crooo-co-diiiiile!”と野次が
 「カナリア家具店」では主人公が市電に乗る夜の街の怪しい空気が感じられるし、「ワニ」ではピアニスト兼セールスマンの侘しい心情がしみじみ伝わってくる。どちらもとてもいい作品だが、これはフェリスベルト・エルナンデス文学としてはある意味では「入門篇」である(もちろん入門篇と言っても「劣る」ということではなく、これらの小品が一番好きだという読者がいても驚かない)。彼の本領発揮と言えるのは、比較的長めの、現在/過去、現実/記憶、事物・出来事/思考のあいだを語りが自在に行き来するたぐいの作品である。
 多くの場合、フェリスベルト作品の登場人物たちは、不思議な雰囲気をたたえた室内で、人形などの事物を用いて、空想や記憶(の捏造)のゲームに携わる。そこでは人のみならず、物や思いも感情や思考能力を備え、無形のものも時に形を獲得する。たとえば“The Balcony”という作品には次のような一節がある

The theater where I was giving my concerts was also half empty and invaded by silence: I could see it growing on the big black top of the piano. The silence liked to listen to the music, slowly taking it in and thinking it over before venturing an opinion. But once it felt at home it took part in the music. Then it was like a cat with a long black tail slipping in between the notes, leaving them full of intentions.
 私がコンサートを開く劇場もやはり半分空っぽで、静寂に浸されていた。ピアノの黒い蓋の上で静寂が大きくなっていくのが私には見えた。静寂は音楽に聴き入っていた。ゆっくりと音楽を取り込み、音楽についてじっくり考え、やがて意見を発する。だがひとたびくつろぐと、静寂は音楽に仲間入りした。そうなると静寂は猫のようで、長い黒い尻尾が音と音のすきまに滑り込み、音のなかにさまざまな思いを残していった。

 あるいは、“Around the Time of Clemente Colling”(「クレマント・コランのころに」)の一節では―そしてほかでもたびたび―「記憶」が人と変わらぬ主体性を帯びている。

Nevertheless, there are some places among the estates that have few “modifications,” where you can feel as sad as you like for a little while. Then memories begin climbing slowly down from the cobwebs they’ve made for themselves in the favorite corners of childhood.
Once, a long time ago, I recalled those memories arm in arm with a woman. This last time, a grubby, weeping child came out of one of the houses.
 とはいえ、それら屋敷のなかには、ほとんど「変容」を被っていない場所もあって、人はそこでしばし、存分に悲しみに浸っていられた。やがて記憶が、幼年時代のお気に入りの片隅に自ら張った蜘蛛の巣からゆっくり這い降りてくる。
 あるとき、ずっと前、それらの記憶が一人の女性と腕を組んでいたのを私は思い出した。そして今回は、薄汚い、しくしく泣いている子供が一軒の屋敷から出てきた。

 最後の「子供」が、物語内の「現実」の産物なのか、それとも存在論的には「記憶」と同じ次元に立っているのか、もはや定かではない。このように、人と人でないもの、あるいは〈いま・ここ〉と〈いま・ここでないもの〉とを隔てる壁がしばしば消えて、いろんなモノやコトが両者を自在に行き来する。フェリスベルトの本格的な作品ほど普通の意味でのストーリーはなくなって、そうした一刻一刻の微妙な変化こそが「ストーリー」を形成する。このあたりは本当に独特である。カルヴィーノがフェリスベルトのことを、ヨーロッパ作家でもないしラテンアメリカ作家でもなく、あらゆる分類を拒む“irregular”(規格外)の作家だと言っているのもこの意味においてである。

 フェリスベルト・エルナンデスの作品は、僕の知る限り短篇が2本邦訳されている。ひとつは『美しい水死人 ラテンアメリカ文学アンソロジー』(福武文庫、絶版)に収められた「水に浮かんだ家」(平田渡訳)、もうひとつは今年3月に出たばかりの野々山真輝帆編『ラテンアメリカ傑作短編集 続』(彩流社)収録の「私に似た女」(平井恒子訳)。前者は屋内に「水を張った」、火を灯した蠟燭があちこちに浮かぶ家に招かれた作家の語る物語であり、後者は平凡そうなタイトルとは裏腹に、かつて馬だったという思いに憑かれた男が「本当に」(と、いうのがどういう意味だかよくわからないわけだが)馬になる話で、どちらもフェリスベルト的な現実と幻想の自在な行き来と、ある程度のストーリー性が上手い具合に両立していて、いわば「中級」篇というか、この二作がまず訳されたのは妥当と言えるだろう。初級篇、上級篇も今後訳されてほしい。
 『美しい水死人 ラテンアメリカ文学アンソロジー』には、木村榮一によるコンパクトな作者紹介があとがきに入っている。またLands of Memoryには訳者エスター・アレンの解説が楽しくかつ読みごたえがあり、次の一節などはフェリスベルトの文章美学を大変的確に捉えていると思うので、やや長いが引用する。

Though so much of his life was dedicated to music, in his writing the eye is far more significant than the ear. His work will bring Magritte or Joseph Cornell to mind before summoning thoughts of any composer (Satie, perhaps?). But his idea of narrative is musical: he doesn’t write to convince, or weave elaborate plots or contrive dazzling or devastating denouements; he neglects the ordinary mechanisms of suspense, intrigue, and drama. He plays with the association of ideas but his riddles are not meant to be solved. His purpose, if he has one—and he seriously wonders whether he does, whether there is anything more to his work than his own stubborn pleasure in covering the clean, white pages of a notebook with black letters—is to immerse the reader in a shifting sequence of states of being and mysterious mental processes, repeating, amplifying, and transforming certain elusive themes that are always accompanied by the counterpoint of memory. We inhabit his stories as if they were music. “Furthermore, I will ask you to interrupt your reading of this book as many times as possible,” a character of his writes, in a story titled “Gangster Philosophy,” “and perhaps—almost certainly—what you think during those intervals will be the best part of the book.”
 人生の大半を音楽に捧げていたにもかかわらず、彼の文章においては耳より目の方がはるかに重要である。その作品は作曲家よりもまずマグリット、ジョゼフ・コーネルといったアーティストを想起させる(作曲家ならサティだろうか)。とはいえ、物語というものに関する彼の考え方はきわめて音楽的である。彼は人を説得するために書くのではないし、込み入ったプロットを練ったり、あっと驚くような、あるいは愕然とさせるような大団円をこしらえたりもしない。サスペンス、筋立て、ドラマといった通常の仕掛けを彼は無視する。観念連想と戯れはするが、謎は解かれることを意図されていない。彼の目的は、もし目的があるとすればだが―そして彼は本気で、本当にあるのか疑っているし、ノートのまっさらなページを黒い文字で覆っていくことの快楽以上のものが自作にあるのか疑っている―その目的とは読者を、刻々変化していく存在のありようのなかに、不可思議な精神の動きのなかに埋没させることであり、捉えどころのないいくつかのテーマを反復、増幅し変容させることであり、そこにはつねに記憶の対旋律が伴っている。我々読者は彼の物語に、音楽に浸るように浸る。「さらに私はあなたがたにお願いしたい―この本の読書をできるだけ頻繁に中断していただきたい」と、「ギャングの哲学」と題された短篇の登場人物は書く。「ひょっとすると、いや、まず間違いなく、そうした中断のあいだにあなたが考えることこそ、この本の最良の部分であるだろう」

 アレンの解説は、ほかでも印象的な記述に富んでいる。いくつか挙げてみると

*フェリスベルトは映画を観に行くといつも最前列に座った。本人の言を借りれば“like drinking milk straight from the cow”(牛からじかに牛乳を飲むみたいに)。
*24歳で初のリサイタルを開き、13年後にブエノスアイレスで開いたリサイタルでは真のヴィルトゥオーソと絶賛されたが、その3年後、金に困ってピアノを売った(そして二番目の妻の許を去った)。
*書くときには絶対の静寂を必要とした。
*40代になって、版権管理の仕事で、一日中ラジオの音楽番組を聴くことになったが、彼はタンゴが嫌いだったのでこれは一種の苦行であった。
*4回結婚し、愛人も大勢いたが、結局いつも母親の許に戻っていった。
*ボルヘスはフェリスベルト作品を伝説的なブエノスアイレスの雑誌『スール』(Sur)に掲載した。フェリスベルトの作品がウルグアイの外で出版されたのはこれが最初。
*彼は時おり、自分で考案した速記法を使って執筆した。死後発見されたそれらの原稿はいまだ解読されていない。

 おしまいに、フェリスベルトの文章のなかで、とりわけ印象に残った一節を。「クレマント・コランのころに」の語り手の言葉だが、フェリスベルト自身の創作姿勢に対するコメントにも思える。

I’ll also have to write many things I know very little about; it even strikes me that impenetrability is intrinsic to them. Perhaps when we think we know them we stop knowing that we don’t know them, because their existence is inevitably obscure, and that must be one of their qualities.
But I don’t believe I must write only what I know. I must also write the other things.
 だが私は、自分がほとんど知らない多くのことも書かねばなるまい。実際、不可知性こそそれらの本質ではないかとすら私には思える。もしかしたら、それらのことがわかった、と思うとき我々は、自分がそれらを知らないということを知るのをやめてしまうのではないか。それらの存在は避けがたく曖昧なのであり、それこそがそのひとつの特質にちがいないのだ。
 とはいえ、知っていることだけを書いていればいい、とは思わない。私は知らないことも書かないといけない。

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1月12日(土)は神保町ブックセンターで、澤西祐典さんと共同で編集した『芥川龍之介選 英米怪異・幻想譚』(岩波書店)刊行記念トークを、澤西さんと都甲幸治さんと(16:00-)。RADIO SWITCH(J-WAVE毎週土曜23:00-24:00)のMONKEY篇、1月の回は12日に、イッセー尾形さんの朗読と、柴田によるイッセーさんインタビュー。1月16日(水)は青山ブックセンターで、映画『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』公開記念トーク「サリンジャーとアメリカ文学」(19:00- )。1月19日(土)は新潟市の北書店でトーク「ゴーリーの世界」。1月20日(日)は同じ新潟市の英進堂でトーク(時間未定ですが、午後早めだと思います)。僕は直接関わりませんが、新津市の新津美術館で、全国巡回中の展覧会「エドワード・ゴーリーの優雅な秘密」が開催されます(1月19日~3月10日)。1月26日(土)は関東学院大学関内メディアセンターでのシンポジウム「アメリカ古典小説の魅力―翻訳と日本語、声と文字の宇宙―Part II」に参加(14:00-)。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

柴田元幸
柴田元幸

1954年生まれ。翻訳家。文芸誌『MONKEY』編集長。『生半可な學者』で講談社 エッセイ賞、『アメリカン・ナルシス』でサントリー学芸賞、トマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』で日本翻訳文化賞受賞。2017年、早稲田大学坪内逍遙大賞受賞。

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