ニューメキシコの旅を終えてロサンゼルスに帰った石内は元気を取り戻し、再びゲティ美術館での展示作業に没頭する日々となった。主任キュレーターとの厳しいディスカッションは続いてはいたが、しだいに石内の展示意図が理解されていったようだ。
「妥協したくないし、やれることは全部やりたいのよ。展覧会で作家本人が展示の指示をするというのは異例なのかもしれないけれど、お互いプロとしての議論はとても意義がある。写真は展示空間によって見方が大きく左右されるから、連日とことん話し合っている」と言い、早朝のプールでのひと泳ぎも続けていた。
オープニングを控えた十月二日夜、国際交流基金・ロス日本文化センターで詩人の伊藤比呂美とのトークイベントが行われた。ふたりは荒木経惟の紹介で出会い、石内の『1・9・4・7』(一九九〇年)に伊藤がエッセイを寄稿して以来の親しい仲で、四十歳の伊藤をモデルに石内が撮影した写真集『手・足・肉・体Hiromi 1955』(一九九五年)がある。
一九九七年からカリフォルニア州サンディエゴに暮らす伊藤は、日本での活動も精力的だ。熊本には住まいもあり、熊本の文学を盛り上げる「熊本文学隊」の一員として、イベント「石牟礼大学」を開催している。その第一回(二〇一四年)に伊藤は石内を招き、作家の石牟礼道子に引き合わせる場を作った。石内はこの時、石牟礼と語り合い、そして彼女を撮影したのだった。
石内は一年前にも伊藤のサンディエゴの自宅で会っている。今回のPOSTWAR SHADOWS展の図録には伊藤による石内論「MIYAKO AND WOMEN(INCLUDING ME)」がある。カーリーヘアーに黒のTシャツとパンツ、スニーカーで現れた伊藤は、周囲の人たちを元気にしてしまうようなエネルギッシュな人だった。石内も満面の笑みで彼女を迎え、再会をよろこんだ。
イベントは石内の代表的作品シリーズをスライドで紹介しながら石内本人が解説したあと、ふたりの対談が始まる。
伊藤は、『1・9・4・7』にまとめられる四十歳の女たちの手や足を撮影したシリーズを最初に見たとき、「感動した、というより、打たれた」と言う。「あたし、心底、都さんが好きなのよね。都さんのどんな作品も、傷跡や皮膚、花、着古された洋服を写した写真も、どれも本当にきれい。きれいっていうのか、女を感じる」。
また「ひろしま」シリーズを「石内都展 ひろしま/ヨコスカ」(二〇〇八年、目黒区美術館)で見た際、会場の高い位置に掲げられた作品を「まるでギリシャ悲劇のデウス・エクス・マキナ、そこに神がいるみたいで心が揺さぶられた」と言う。私もこの展覧会を見ていて、それほど広くはない美術館であるものの、高さ八・五メートルの二階展示室に展開された「ひろしま」シリーズは、遺品たちが空へと昇っていくような、感動的な展示だった。展示そのものにも写真家のメッセージが込められていると実感した。
伊藤はポーランドに二年暮らしていた間に、アウシュビッツや強制収容所の跡を訪れており、「ひろしま」を「アウシュビッツの展示品に似ている」と話した時、石内が「それとは違う。彼らは今も生きている」と断言したことが忘れられないと語る。
それを受けて石内は、違うと言った理由を「〈ひろしま〉は過去を撮っているわけではなくて、今の自分との関係性を撮っているから」と説明し「それと、今までの写真は、男性が撮っていたの。どうしてもそういう〈ヒロシマ写真〉の歴史がある。高校生のときに土門拳さんが被爆児を写した『ヒロシマ』(一九五八年)の写真集を見たんだけど、見たくないから閉じてしまった。そういう作品だったのね。でも自分が〈ひろしま〉を撮り始めてから、これまでの写真は、その時代ごとの意味がある、その時々の社会性を持つ必要があるんだなと思った。それに、あの時代の〈ヒロシマ写真〉は、ああしか撮れなかったのだと思う」。そして石内は「記録写真としてではなく、今に残され、私たちに語りかける遺品たちをきちんと撮った、正面から見ることのできる新しい〈ヒロシマ写真〉を撮ったという自負はある」と語った。
対談は女性の身体、セクシュアリティなどに広がっていった。石内は語る。「私はもともと美しいものしか撮らない。傷跡だって美しいし、手と足も美しいし、美しく思えないとシャッターを切れない」。けれど、それは「ありのまま、自然」ではなく、写す側の距離感のはかり方、ピントをどこに合わすのか、など「どこかで作為と創意」がなければ「写真」にはならない――。伊藤はこの言葉にうなずき、「同じことは書くことにも言える。書くっていうことは作為であって、自然なんてことはない。対象を、私が、私の目や言葉を通して、私がつくっている」と応じ、詩と写真、表現のかたちは異なるものの、創作に対する相通じる思いが語られたのだった。
最後に、ふたりのコラボレーションによる作品をまたつくろうと語り合い、充実した対談が終わった。夫の介護をする伊藤は今夜のうちにサンディエゴの自宅まで車で帰らなければならず、「都さん、またね。今度は熊本で会いたいわ」と言って去っていった。
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与那原恵
ノンフィクション作家。1958年東京都生まれ。『まれびとたちの沖縄』『美麗島まで 沖縄、台湾 家族をめぐる物語』など著書多数。『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で河合隼雄学芸賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(文化貢献部門)受賞。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
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