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石内都と、写真の旅へ

 十月五日、オープンの日を迎えた。広々とした会場では石内の写真家としての足跡に沿い「特徴ある三つの期間」の作品群が、七つのブースで展示され、それぞれの壁は淡い色で塗り分けられている。

 ブルーグレイの壁に展示された「横須賀ストーリー」から始まる〈初期〉は、安普請のアパートとそこでの生活を撮った「Apartment」、そして全国の遊郭、赤線地帯跡をテーマにした「連夜の街」、さらに石内最後の横須賀シリーズ「Yokosuka Again,1980-1990」などが展開する。石内の写真家としての出発点となった圧倒的なモノクロ作品が迫ってくる。それは戦後における日米間の緊迫感も表していた。

 石内の人生の始まりは、戦争という時代状況が大きく関わっている。
 戦争末期、群馬県新田郡尾島町(現太田市)の軍需工場(中島飛行機)に動員された大学生の父と、当時は珍しかった女性ドライバーの母が出会い、恋に落ちた。新田郡笠懸村(現みどり市)に生まれた母は父より八歳上で、その年齢差を超えた恋愛だった。戦争という事態でなければふたりが出会うことはなかったかもしれない。

石内都「Mother's#3」 ©Ishiuchi Miyako

 じつは当時の母は結婚していた身だった。夫は戦地に召集され、すでに戦死の報が届いていたのだ。しかし、それが誤りだとわかるのは、戦後になって夫が無事帰還してきたからだ。これもまた戦争の時代が引き起こした事態だった。話し合いの末、母は夫に慰謝料を支払い離婚が成立。一九四七年に桐生市で石内が誕生する。

 劇的な両親の恋愛だが、石内がそれを意識するのはふたりが他界したのちだ。
「母は自分のことをほとんど話さなかった。若いころ満州に渡り、短期間働いていたことや、昭和十年代に車の免許を取ったいきさつを断片的に話したことはあるけれど、くわしいことは言わなかった。貧しい農家に生まれた母は、自活の道を探っていたのだと思う。でも、女がひとりで生きていくのは難しい時代だったし、周囲の勧めで結婚したのかな。その後に出会った父との恋愛を貫いたのは大変な決断だったはずだけど、それを話すこともほとんどなかった。私が知っている母は、どこか父に遠慮している感じがあった。料亭の息子として生まれ、明るく社交的な父とは対照的だった。ふたりが出会ってから約半世紀後、父は、母が亡くなる五年前に他界した。母も逝き、母の遺品の家計簿の隅っこに〈清が死んだ〉って書いてあったのを目にした時は胸が痛んだわ。母が私の前で父を〈清〉と呼んだことは一度もなかったけれど、ふたりは私の両親である以前に、男と女だったのだと感じさせた」

 こうして母と結婚した父は、職を求めて単身神奈川県横須賀市に出て、一九五三年に妻子を呼び寄せ、一家は六畳一間で暮らし始める。父は小さな広告会社を興し、母は米海軍基地のジープ運転手として働いた。石内はその街を「日本における戦後史の具体的現場の真っただ中にあった」と言う。

 そこは「男性中心の野蛮な」エネルギーに満ちており、米兵が闊歩するドブ板通りに行くことを禁じられた。十八歳のころ、米兵と結婚した友人に連れられて行った「EM(下士官兵)クラブ」での出来事も忘れられない。映画上映に先立ってスクリーンに星条旗が映し出され、米国国歌が流れると観客全員が立ち上がった光景を恐ろしく感じた。

 嫌悪感を抱いていた横須賀を石内が撮り始めたのは一九七六年秋である。あえて「嫌いなもの」「自分にとって一番遠い場所」をテーマに選んだ。それでも「横須賀は私にしか撮れない自信はあった。街に女の子が歩けない一角がある。そういうリアリティを持って撮るのは私だけだと思っていた。敵を討つようにカメラを武器にして歩き、撮った」と振り返る。それは「怒り」の感情ではなく「憎悪」というべきもので、その裏には「愛」もあったのかもしれないと言い、「横須賀で育っていなかったら、写真はやっていなかったのは確かね」とも語っている。

石内都「絶唱、横須賀ストーリー#98」 ©Ishiuchi Miyako

 横須賀を撮り始めた時期に使った横須賀市の地図がゲティに展示された。六十以上の撮影地点を、石内自身が星型の赤いスタンプで印を付けた地図だ。山が多く、入り組んだ地形の横須賀市だが、住宅が密集する地区と対照的なのは、広大な敷地の「アメリカ海軍施設」「米軍吾妻倉庫」「米軍浦郷倉庫」、そして「比与宇弾薬倉庫」と記された場所だ。現在では消えた施設も多いが、七〇年代、「戦後史の具体的現場」であった横須賀をありありと伝えている。石内は、横須賀を「街そのものが傷ついている」と感じたとも語っており、その時の彼女のまなざしがモノクロプリントに浮かび上がる。「Apartment」や「連夜の街」も、彼女が暮らした家や、街の一角にあった遊郭など、思い出したくもないネガティヴな記憶だったというが、「写真によってポジティヴになった」。

 「展覧会で展示されるのは全部で一三二点だけれど、そのうちの九十数点が自分でプリントした作品なのよ。私はこんなにプリントしていたんだってあらためて思った。プリントってとても肉体的な作業だけれど、粗い粒子の中に私の気持ちも表れている。プリントがいきいきしていて、同時にプリントそのものに時間が堆積しているとしみじみ感じるわ。一九七七年にニコンサロンで展示した作品がいまゲティに展示されているのはとても不思議な感じ」と語る。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

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金寿煥

著者プロフィール

与那原恵

ノンフィクション作家。1958年東京都生まれ。『まれびとたちの沖縄』『美麗島まで 沖縄、台湾 家族をめぐる物語』など著書多数。『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で河合隼雄学芸賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(文化貢献部門)受賞。

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