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2022年10月5日 小林秀雄賞

第二十一回小林秀雄賞

受賞のことばと選評

竹内康浩・朴舜起『謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』

著者:

左から、受賞者の竹内康浩氏、朴舜起氏

受賞作品

謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』(2021年8月 新潮社)

受賞のことば

(竹内氏コメント)
落ちたものは拾い上げればいい、では死んだものは? 遺されたサリンジャーはそう問い、答えようとしている気がします。彼が書いたものをただ平べったく読むことを通して、探偵気取りでその足取りを追いかけました。

(朴氏コメント)
小説と謎とき。サリンジャーの不思議のみならず、小説を読むことそれ自体の不思議にも満ちた本だと思います。不肖ながら、探偵・竹内先生の助手として関わらせてもらい、賞までいただけたことに、感謝致します。

(受賞者プロフィール)
竹内康浩(たけうち・やすひろ)
1965年愛知県半田市生まれ。東京大学文学部卒。北海道大学大学院文学研究院教授。Mark X:Who Killed Huck Finn's Father?(マークX―誰がハック・フィンの父を殺したか?)がアメリカ探偵作家クラブ賞(エドガー賞)の評論・評伝部門で日本人初の最終候補となる。著書に『謎とき『ハックルベリー・フィンの冒険』 ある未解決殺人事件の深層』(新潮社)など。
朴舜起(ぼく・しゅんき)
1992年兵庫県西宮市生まれ、鳥取県境港市出身。立教大学文学部英米文学専修を卒業後、サリンジャー研究を志し、北海道大学大学院に進学。現在、同文学院欧米文学研究室博士課程在籍。ハーマン・メルヴィルやワシントン・アーヴィングなど19世紀アメリカ文学からイアン・マキューアンをはじめとする現代イギリス文学まで幅広く研究中。

選評

一休さんもびっくり!

片山杜秀

 文学研究の傑作登場! 解釈の余白をたっぷりと残す文学作品こそ名作とすれば、文学研究者はすべからく探偵にならねばならず、文学研究書は謎解きの形式をとることになる。そんな筋道をパーフェクトに実現した、最高の推理小説的批評分析本です。しかもキツキツでキレキレの本格派。余計な装飾や枝葉・脇道にこだわる衒学派もありますが、本書はえいやっとばかりに一つの謎に狭くギュッと焦点を絞ります。絞り込まれた推理の的は、やはり死を巡る謎。推理小説はそうでなくっちゃ! 自殺か他殺か、動機は何か、そもそも死んだのは誰か。そのとき、探偵が若いと「犯人は絶対にお前だ、お前が全部やったんだ」というような結論に至りがち。しかし、経験豊富な探偵だと、解釈の余白を究明しては、そこに更なる余白を発見してゆくかもしれません。謎を解けば解くほど、かえって謎が出る。犯人はお前だけじゃない、動機はそこだけじゃない、単純には割り切れない…。
 本書の面白さはやはり同行二人ゆえと想像します。師弟のコンビの共著。若者ならではの大胆かつ斬新な推理力と、熟した者ならではの注意深い観察力とが絶妙に組み合わさっているから、突き詰めた的の急所を推理の矢がしっかり刺し貫ける。むろん、そこで解決して終わるのではなく、その先に、新大陸もビックリの広大無辺な新地平がグワッと立ち現れる。新たな研究の余白が大きく広がる。謎が謎を呼ぶ殺人事件! これぞパラダイム・シフトでしょう。驚きです。いやいや、もっと驚くことがある。本書のスリリングな推理の道程を引っ張ってゆく、斬新な導線や証拠群は、科学捜査研究所の新技術か何かによって初めて検出可能になる類いのものではちっともない。謎解きの対象となる有名な小説の巻頭に堂々と載せられている! 「両手で音の鳴るのは当たり前だ、では片手で鳴る音は?」とかいう、有名な禅の公案です。ここから、片方だけにこだわるとか、音を活かすとかの主題が引き出される。そう思って読めば、小説はその主題を用いて書いてある! 目から鱗が落ちるとはこのこと。
 公案とは、凡俗の常識では解答困難な問いかけによって、人の心を追い詰め、混乱させ、認識の術の刷新を促すもの。「虎は捕まえられる、絵の虎は捕まえられるか?」みたいな。禅僧の一休さんなら頓智で答えますが、禅思想家の鈴木大拙の著作に影響されたアメリカの作家は小説で答えようとしたのか。大拙に直接習ったアメリカの作曲家が、きっと「音楽は音である、音のない音楽があるか」という公案への答えのつもりで『4分33秒』なる音を出さない作品を作ったことも思い出しました。米国文化の核心は禅なのかしら。
 とにかく本書は「焦点は焦点、盲点は盲点、では盲点が焦点ということがあるか」なんて一種の公案風の問いかけへの卓抜した解答です。

もはやかつてのようには

國分功一郎

 本書は「謎とき」と銘打っているが、その中で行われているのはこの言葉から想像されるよりもずっと広範囲に及ぶことである。著者は本書の中で、論の対象である作家が考えていたより以上のことを考えているように思われる。いや、この言い方は不正確かもしれない。作家が意識はしていないが考えていること、作家において考えられてはいるが意識はされていないこと―著者はそのような水準が存在しうることの可能性を示している。
 そのような水準に到達しようとしているという意味で、本書は決して実証研究という枠に閉じ込められるものではない。この本に研究的側面があることは間違いないとしても、ここには「研究」には収まりきらない、「批評」としか呼びようのない力が宿っている。
 だが、だとしても、批評とは何なのだろうか。いかなる条件を満たした時、我々はその文を批評と呼ぶのだろうか。私は本書を読みながらずっとそのことを考えていた。
 古いタイプの人間だからだろうが、私は批評と研究の違いがどうしても気になる。どちらが偉いとかそういうことではもちろんない。かつて批評には批評の、研究には研究の領分があり、良質な批評と良質な研究は互いの間に緊張感を保ちながら、双方の領分を活発化させていたように思う。
 しかし、本書に私が読み取ったのは、もはやかつてのようには二つの領分を区別して読んだり書いたりすることはできないのではないかという問いである。哲学者のジル・ドゥルーズは一九六〇年代の終わりに、もはやかつてのような仕方で哲学の本を書くことはできない時代が訪れつつあると述べたが、同じことが他の分野にも言えるのかもしれない。本書の著者はそんなことを考えてこの本を著したのではないと言うかもしれないが、たとえ著者にそのような意識はなくても、今という時代に置かれた時、本書においてそのようなことが考えられていると私は感じるのである。
 本書について「もはやかつてのようには」と言いうるのはその内容だけではない。著者として二人の名前が記されていることにも私は同じことを感じる。人文学においても単著を書くことは難しくなってしまったと嘆きたいのでもなければ、著者として二人の名を冠する批評や人文学の書物はこれからの新しい執筆の道を示すものだとこの事実をことさらに言祝ぎたいわけでもない。もしかしたら嘆いているように思われてしまうかもしれないが、ただ、「もはやかつてのようには…」という事実を確認したいのである。この本にはこの事実についての認識へと読者を冷静に導いてくれる力がある。この本は面白いだけではない。この本が小林秀雄賞に十分に値すると判断したのは、以上のようなことを考えてのことである。

「読む」とはどういうことか

関川夏央

 「殺人事件が起きないような小説は、小説じゃねえ」とは、竹内康浩氏の師であり探偵小説家でもあった教授の口癖だった。
 竹内氏は二〇一五年、小説中の殺人事件の深層をさぐって『謎とき「ハックルベリー・フィンの冒険」』を書き、二〇一八年、それをさらに深めた『マークX―誰がハック・フィンの父を殺したか?』を英語で書いて、エドガー賞の評論・評伝部門の最終候補となった。
 教え子の大学院生たちは竹内氏の方法に非常な刺激を受けたが、そのひとり朴舜起氏は、サリンジャーの『バナナフィッシュにうってつけの日』で自殺したグラス家の長男シーモアを殺人被害者とし、弟のバディー犯人説を提起した。
 朴氏の発想と論証の過程に触発された竹内氏は、一九九〇年代前半につぶさに読んだサリンジャーの「グラス家のサーガ」を読み直し、朴理論を裏づける発見を得た。バディーにはアリバイがあるが、それは崩せる可能性がある。
 シーモアが自殺したとされる銃声は、「生(バディー)と死(シーモア)の区別が無効になる瞬間の音だったに違いない」と結論した竹内氏は、その後のバディーは、自らの半分の存在であったシーモアの空白を抱えこんだ存在として「片足を引きずるように」して生きていけばよく、それは書くべきことを持つ作家にとって「決して茨の道などではないのである」といった。
 竹内氏によれば、作家バディーは死者シーモアか自分、その「どちらか」として「田舎に引きこもって薪を割ったりしながら案外楽しそうに生きていた」という。
 とすれば作家バディーの現実版であったサリンジャーも、「バディーか自分のどちらかとして」書くべきことを書いたのであろう。田舎に引きこもって五十七年、作品の発表をやめてからなら四十五年、九十一歳までの長い晩年をサリンジャーは、ただかたくなで性格の悪そうなおじいさんとして生きて死んだのではなさそうだと知れば、救われる思いだ。
 「小説中の殺人事件を解決できないような評論は、評論じゃねえ」
 そんな声にこの作品は「読む」とはどういうことかを、説得力をもってこたえた。

質の高い謎

堀江敏幸

 コロナ禍はまだつづいている。状況判断には濃淡あるとしても、人と人の接触を遠ざけ、透明なアクリルの壁を隔てた息苦しさが思考に影響を与えている。しかもそこに戦禍が加わった。次年度は要人暗殺、政治と宗教の問題がどこかで影を落としてくるだろう。
 しかし本書には、現実が突きつけてくる不安や不穏な空気を吸い取った痕跡も予感もない。ここで示されているのは、あくまで作品内の言葉に依拠しながら明快な論理を重ねて定説の網の目をくぐりぬけ、納得のいく解を導き出すまでの道筋であり、作家が残した虚構の世界で生起する出来事から彼の仕事の全貌に迫ったのちに検算を試みるという禁欲的な姿勢だ。
 論旨の礎石は、〈グラス家のサーガ〉の第一篇となる「バナナフィッシュにうってつけの日」。主人公シーモア・グラスの謎めいた自殺で閉じられるよく知られたこの短篇の、よく知られているがゆえに疑問視されてこなかった場面に目が向けられる。海辺のリゾートで妻と休暇を楽しんでいた戦争帰りの男が、ホテルのベッドに腰を下ろし、銃で頭を撃ち抜いた理由は何なのか、そもそもこの死は言葉の真の意味における自殺だったのか、そして、なぜバナナなのか。誰もが素通りしてきたエピグラフとの関連からも、推理が、というより調査が開始される。「主な手がかりは、反復される死の予告、正体があいまいな死体、そして俳句」。研究論文と批評と推理小説を融合した行文は、その謎じたいの質の高い意外性によって最後まで読者を飽きさせない。
 卓見はいくつもあるのだが、ことに銃声を発したのはシーモアひとりではないとする物語内部の両義性の視点から、サリンジャーという作家が実人生において体験した戦禍とその影響の深さを、「作家と作品」の定型に収まらない仕方で摘出していく箇所は、他の現代作家の作品のあれこれを読み解くヒントにもなるのではないかと思わせる。
 両義性はまた「入れ替え」の可能性を示唆する。共著になった理由はあとがきに記されているので書き手の「正体があいまいな」わけではない。テキストを深く読み込む作業を通じて、固くなった認識を心地よくほぐし、内にこもらず現実世界へと窓を開く力が蓄えられていたことが察せられる。十分に練りあげたシナリオにそって公案を大胆にときほぐすようなこの謎解きは、読み返すたびに鮮度を増し、サリンジャーに触れたことのない者にも大きな喜びをもたらすだろう。

決められない

養老孟司

 「謎ときサリンジャー」については、私は選考をいわば放棄した。もしこの作品を他の選考委員が推薦するようなら、私はその意見に従うと最初に申し上げたくらいである。事実はそうなったので、なにも言うことはない。
 以下は、まったくの私事で、この作品自体に関わることではない。私はサリンジャーを読んだこともないし、読むつもりもないと、選考の席上で申し上げた。仮に読んだとしても、本作品の著者たちのように読めたはずがない。はあ、そうなんですか、と感心するしかない。そもそも謎解きは嫌いで、答えがわかっているなら、さっさと教えてくれ、読者に余計な負担をかけるな、と思うほうだから、禅の公案まで頭に置いてサリンジャーの作品を読むのは無理難題というものである。
 自分のことで思い知らされたのは、自分の中ではまだ昭和二十年八月十五日が終わっていないという感覚だった。ドナルド・キーン氏は私の顔を見るたびに、渋い顔をしていたような気がする。若いころはアメリカに留学する気もなかったし、手本にして勉強する気なんか毛頭なかった。だからと言って、世にいう反米でもない、と思う。いうなれば、いわゆるアメリカ文化に対して適切な距離感が取れない。自分の戦争が死ぬまでに終わるのかどうか、わからない。そろそろ賞の選考委員も潮時か、と思った。

謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか

竹内康浩・朴舜起/著

2021年8月発売

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

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