10.ネガティブをひっくり返す――使える材料はすべて使う
著者: 桜林直子
悩み相談やカウンセリングでもなく、かといって、ひとりでああでもないこうでもないと考え続けるのでもなく。誰かを相手に自分のことを話すことで感情や考えを整理したり、世の中のできごとについて一緒に考えたり――。そんな「雑談」をサービスとして提供する“仕事”を2020年から続けている桜林直子さん(サクちゃん)による、「たのしい雑談」入門です。
わたしは、若い頃から環境や困難に対応し続けてきたら、耐える力や我慢するクセがついてしまったという自覚がある。雑談の仕事をしていると、同じように自分の意思や望みではないところでつい我慢してしまうクセがある人はたくさんいるようだとわかってきた。
似たような性質に悩まされている人が、これはよくないクセなのだと気がつくところまではいい。しかし、どうすればいいのかわからないと言う。「サクちゃんは、どうやって抜け出せたんですか」と聞かれることがよくある。
環境によってついたクセは他にもあり、他人を警戒し、「疑う力」がつよくなったこともそのひとつだ。前回書いたように、「疑う力」はブレーキとなり抑止力を働かせる。つまり、行動しようとしても「うまくいかないのではないか」と疑うと、動けなくなってしまうのだ。それなのに、わたしはどうにかこうにかいろんな手を使って行動し続けられた。それが不思議だと言うのだ。
たしかに、わたしはどうにかしようと悪あがきしながら動き続けてきた。「こうしたい」という前向きな動機はないのに、何がわたしを動かすエンジンになっていたのか。
それは、「イヤだ」という思いの強さだと思う。
「本当に本当にイヤだ」
身に起こることを受け入れて「しょうがない」と諦めてばかりいたので、「こうしたい」「これがほしい」と望むことがほとんどなかった。しかし、同時に「こうなりたくない」「これはしたくない」が人の数倍つよくあった。プラスの動機はまったくないが、マイナスを避けるためにするべきことを考えることはできたのだ。
シングルマザーとして子供を育てながら働いていると、いつもお金も時間も足りなかった。それでも「シングルマザーだからしかたがない」と諦めずに、「人の半分の時間で2倍稼げばいい」と思えたのは、「ひとりで頑張らないといけないのは仕方がない」と誰かに協力してもらうことを諦めてはいるが、「お金も時間もないのはイヤなんだけど!」という思いがつよくあったからだ。
「シングルマザーだからお金も時間もなくて当たり前」を疑い、「ほんとにそうかな? どうにかできる方法があるのでは?」と、とにかくたくさん考えた。
自分が持っていないものに対しては「しょうがない」と諦めてばかりなのに、「これがイヤだ!」を避けるために考えるのは非常に諦めが悪く、ものすごくしつこかった。
また、「子どもに『親のせいでできなかった』と言われたくない」という「イヤだ」も強かった。親がシングルマザーだからという理由で、子どもに我慢させたくなかった。子どものためというよりは、自分自身が「親のせいで」と思うことが多かったので、同じことをしたくないというわたしのエゴだったと思う。
「普通はイヤだからといってもそこまでできないですよ」と言われるので、「いや、普通のイヤさじゃないんだよ。本当に本当にイヤなんだもん」と返す。イヤすぎて、そうならないためにどうにかするという力で進んできたのだ。偉そうに言うことではないけど。
とりあえず、やってみる
いろんな人と話していると、「おもしろそう」から「やってみた」が早い人と、「おもしろそう」と思っても、あれこれ考えてしまってなかなかできない人がいる。その場合の「あれこれ」とは、大抵の場合、不安や心配から「おもしろそうだけど、〇〇だしな」と、やらない方がいい理由を見つけ出してしまう。そうすると自ずと「やらない」になるのも当然だ。
「おもしろそう」から「やってみた」が早い人は、その間にはあまり考えていないが、やってみたらわかることがたくさんあり、やりながら考えることになる。
わたしもかつてはやる前に熟考するタイプだったので、考える間もなく行動できる人に羨ましさを覚えると同時に、始めてから次々に問題に当たるのを見ては「なんで先に考えなかったんだろう」「わからずによく始められるな」と不思議に思っていた。「よく考えてからやるべき」と思っていたのだろう。
今では、「とりあえずやってみる」が以前よりできるようになった。経験から、どんなに心配してもキリがないとわかってきたからだ。準備を万端にしてから始めようとしても、やる前に心配や不安はいくらでも湧いてきて無くなることはない。それでは一向に始められないのだ。
あまり考えずに「やってみる」ができる人のことを、自信があってポジティブなのだと思っていた。しかし、実際に自分がやってみる側に立つとわかるのは、不安だらけでネガティブなままでも「やってみる」はできるということだ。
不安に苛まれて行動ができない人に、「実際にやってみたら、“なんだこんなことなら早くやればよかった”って思うよ」と何度も言ってきた。しかし、不安の最中にいると、そんなことを言われてもピンとこない。そして、「それは〇〇だからできたんですよ」とできたことに理由があることにする。翻せば「〇〇じゃない自分にはできない」というできない理由を作り出してしまう。本当はそんな理由はなく、やってみたかどうかの違いだけなのに。やってないのにできた人というのはひとりもいないのだ。それがわかるのは、やってみたことがある人だけなのがいつももどかしい。
ポジティブもネガティブも根拠がない
不安や心配が「やってみたい」という気持ちを打ち消すとき、「きっとできないだろう」「やっても失敗するだろう」などの、自分の価値を下げるような声がある。それは、以前書いた自分の中の鬼コーチの声でもあるのだが、同じ厳しさでも「早くやれ」と責めることもできそうなものなのに、どうやらそうはいかないようだ。
ポジティブな人が「きっと大丈夫だ」と根拠のない安心感をもっているのに対して、ネガティブな人は「うまくいかないかもしれない」と根拠のない不安を抱えている。どちらも根拠がないので、どう思っても特に問題ないと思っている。どう思っていても、やってみることさえできればいい。「うまくいかないかもしれないけど、やってみるか」でいいと思う。
ポジティブな考えが「おもしろそう(だから)やる」で、ネガティブな考えが「おもしろそう(だけど)やらない」とひっくり返す傾向があるのなら、「うまくいかないかもしれない(だけど)やってみる」のように、ネガティブをさらにひっくり返すこともできると思うのだ。
考え方は使いようによって結果はいかようにもなる。それよりも、考え方のもっと手前にある前提が問題だ。根底に流れるものが、ざっくりと「いい方向に行きたいな」という願いであれば、流れの行き先をいいところに持って行こうとする。しかし、根底に「自分を責める」があると、流れ着く先が「だから自分はダメだ」になってしまう。
考え方はポジティブでもネガティブでもどっちでもいいから、自分を責めるのだけはやめた方がいい。それでは、どんな理由があったとしても、いい流れを作ることができず、よい行先に辿り着かない。どんなに自分を責めてもひとつもいいことが起こらないのだ。
不満や不安も自分を知る材料
雑談をしながら、自分の考えていることを出し、思考のクセを見つけると、そのクセをどう使えばいいか一緒に考えることができる。
たとえば、わたしのように「イヤだ」がつよいという性質を見つけるためには、「何がイヤか」の話をし続けないとわからない。それは、通常の会話では「ネガティブだ」とよくないこととされるかもしれない。しかし、雑談の場では、ネガティブな思考が悪いとか、イヤなことの話を聞かされたら相手が気持ちよくないだろうとか、そういうジャッジをしない。どんな内容だろうと、自分の中にあるものは一旦出した方がいい。出さないとわからないのだ。
イヤなことが多かったり強かったりするということは、そこに大事にしているものがあるということでもあるので、「それがイヤだってことは、ひっくり返すと、何が大事だということだろうか」と考える。
わたしは満員電車の通勤がものすごくイヤだったのだが、それを「みんなガマンしているのだからガマンするべきだ」と無視せずに、「イヤ」をよく観察したら、人に邪魔されずに自分のペースで進むことがかなり大事なのだとわかった。それは電車内だけではなく、あらゆることに適用する。それがわかると、何をするか選ぶときにも助かった。
どんなにネガティブだとされることも、自分を知る大きな材料になる。不満だけではなく不安も、観察すれば、何が怖いのか、どうなると安心だと思っているのかがわかる。
だから、雑談では友達や職場では言いにくいこともどんどん言ってみるといい。利害関係がなく、好かれる必要もない相手だからこそできると思っている。
自分を責める前提を変える
思考のクセや性質は、なんでも使い方次第ではあるが、自分を責めるクセだけは、いい使い道がない。ひっくり返しても使えない。こればっかりはどうにかしてやめたほうがいい。
自分を責めるクセがあると、たとえ周りの人が褒めてくれたり認めてくれたりしても、それを受け取らない。「そんなわけない」と、やはり自分を責める方にもっていく。仮に形だけ称賛や承認を受け取っても「お世辞を真に受けてバカみたいだ」と自分を責める。そうすると、どんなに周りの人が認めても、自分だけは自分を認めることができない。
自分を責める前提があるままでは、どんなに話しても、何を言われても、行き先が決まっているので、良い方向に行くことはない。
ほとんどの場合、自分の意思で責めているのではなく、自動的にそうなってしまうと感じているので、自分では変えることができないと思っている。だが、それはちがう。むしろ、自分をどう扱うかだけは、自分にしか変えられない。他人の力を借りながら、自分でやるんだよと思う。厳しいかもしれないが、これは譲れない。
今までの自分がどんなにダメで、何もできないと思っているとしても、とにかく自分を責めずに、「やってみる」ことを自分で決めてみてほしい。どんな小さなことでもいい。「休む」をやってみるとか「ちゃんと寝る」をやってみるとかが必要な場合もある。
なんでもいいから「やってみる」を自分で決めて、「やったら、できた」を小さく積み重ねるといい。つい自分を責めそうになったときは、それこそ「それはダメだよ」と責めてほしい。
雑談を通して出てきたものは、すべて材料で、なんでもいいように使える。材料はあればあるだけいい。自分ひとりだと「これはよくないもの」としまったり隠したりしてしまうものも、話しながら使い道を探す。ひっくり返したり、分解したりしながら、使えるものは全部使う。無駄なものなど何ひとつないのだ。
*次回は、9月18日水曜日更新の予定です。
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桜林直子
1978年、東京都生まれ。洋菓子業界で12年の会社員を経て、2011年に独立。クッキーショップ「SAC about cookies」を開店。noteで発表したエッセイが注目を集め、テレビ番組「セブンルール」に出演。20年には著書『世界は夢組と叶え組でできている』(ダイヤモンド社)を出版。現在は「雑談の人」という看板を掲げ、マンツーマン雑談サービス「サクちゃん聞いて」を主宰。コラムニストのジェーン・スーさんとのポッドキャスト番組「となりの雑談」( @zatsudan954)も配信中。X:@sac_ring
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 桜林直子
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1978年、東京都生まれ。洋菓子業界で12年の会社員を経て、2011年に独立。クッキーショップ「SAC about cookies」を開店。noteで発表したエッセイが注目を集め、テレビ番組「セブンルール」に出演。20年には著書『世界は夢組と叶え組でできている』(ダイヤモンド社)を出版。現在は「雑談の人」という看板を掲げ、マンツーマン雑談サービス「サクちゃん聞いて」を主宰。コラムニストのジェーン・スーさんとのポッドキャスト番組「となりの雑談」( @zatsudan954)も配信中。X:@sac_ring
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